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――へき地医療の現場からみる 村・県・国と地方自治――

 

 色平 哲郎  いろひら・てつろう  南相木村国保直営診療所長

 

 

      「田中県政への提言」

           長野県 新世紀ビジョン  川辺書林・刊

[自治]   p61−p69 より

 

 

 

補助金がやってくる以前の「ムラの自治」

 

ムラにとってクニは、対するに恐ろしい存在です。

現代のムラ(行政村)は、自分のことを自分で決定することがほとんどできていません。

権限上も慣行上も、そして能力的にも(?)、

自信を持って「自己決定」にあたることができないでいるようにみえます。

そう見せかけているだけなのかも知れません。

歴史的にも、ずっとこのように「依存的」であったのでしょうか。

 

江戸時代以前のムラがほとんどムラビトだけの合議で運営され、

村方(むらかた)三役を中心に経営される「自前の自治」ともいえる状況であったこと

を考えると、現代のムラの諸状況と、まったく対照的です。

 

江戸時代後期、天保7年のききんで、天領であったこの南相木(みなみあいき)村は

餓死者126人を出しました。

ただでさえ天候不順で日照が不足気味、

価格のつり上がった佐久平のコメを山中の相木郷(あいきごう)

にまでひき上げてくる「外交交渉」は難物だったようです。

 

千曲川沿いの佐久甲州街道・馬流(まながし)の宿(現・小海町)から分岐して相木郷

に至る山道はその当時、

馬を使った「運送」の荷車も通えないほどの代物で、人が荷物を背負って歩くか、

馬一頭が通る幅しかなかった、と伝わっています。

また大水のたびに、相木街道の数カ所の土橋は流され、近在のムラビトによる手弁当

(当時なりのボランティア)の土木作業で、かろうじて物流が維持され得た、と伺って

います。

自前の自治とは、運営にしくじると餓死者を出しかねない、

ひもじさと隣り合わせのきわどい綱渡りでもありました。

 

明治維新によって成立したクニは、日本全国に一万ほどあった小さなムラ(自然村)の

自治に

直接間接に介入して「国民の国家」形成を促し、(地租改正による金納の)徴税、

徴兵、義務教育などの諸義務を罰則規定まで設けて、きつく課してきました。

そして米騒動の年、大正7年の(第一次世界大戦の)戦後恐慌に際し、

はじめてクニからムラに、郡役場を介した補助金なるものが届けられるようになりまし

た。

 

それ以前はもちろん、クニからは一方的なきつい指令がくるだけで、

ムラへの財政支援はありませんでしたので、この措置はとても助かったといいます。

 

しかしこのころから、逆説的ですが、自前の組織と努力をもってムラを治め、

守り育てる必要性が次第に少なくなっていったとも聞きました。

この傾向は補助金制度・交付金制度の不断の拡大とともに、昭和農村恐慌後も、

(第二次世界大戦の)戦後も一貫してつづき、今に至ります。

 

ただ、ムラにあっては、共同体の重要慣行として「自治」のとりくみは依然として生き

つづけました。

補助金がやって来る以前のムラのありようを知るお年寄りが御存命であり、

ムラを治めることは彼らにとって、自分たちで自前でとりくみ、

道路や河川、用水路の維持改修に自らの手を入れること以外、考えられなかったからで

ありましょう。

 

「水と村の歴史」を語りつぐ、「山に生かされた日々」の生証人たちが、

この小さなムラにも多数おいでになります。

 

 

お年寄り方は誇りをもって、往時を追想します。

 

「ムラの子どもたちの為に、自前で学校を建てた」

 

「金持ちは金を出し、そうでない者は、もっこをかついで整地作業にあたったもんだ」

 

今もムラでは、「道普請(みちぶしん)!」と声がかかります。

季節の変わり目には、集落総出で、ムラの道々や川筋を手分けして廻り、

ごみをひろって、大自然に手を入れるのです。

 

他人任せにしないで「公共」を担う自治のとりくみが、

数百年の歴史を経た今も、ムラでは生きつづけています。

(朝日新聞長野県版、筆者の連載「風のひと、土のひと」

2000年9月14日付けより)

 

明治30年の7月、この南相木村に流行した(細菌性)赤痢は南相木川の上流から流れ

に沿って下流に拡大、250人以上を罹患(りかん)させ、無医村だったこの村の、

唯一の寺に収容された人々のうち40人以上が死亡しました。

 

明治時代のことですから、江戸時代よりは多少状況がよかったようですが、

長野市にある県庁に頼ればどうにかなる、ということではまったくなかった、と村内に

伝わっています。

人々は切実に上水道を引きたいものだと願い、自前の努力で簡易水道を作り上げ、

ついでに発電事業にもとりくんだ、とその顕彰碑が村内に残って伝わっています。

 

 

片道の民主主義

 

戦後の現代日本は民主主義の世の中であるはずなのですが、

現実には(上からの)「片道の民主主義」になっていて、

重大な決定はトップ・ダウンに現場に届きます。

市民(ましてや村民)の一人ひとりにとっては、

自分自身にかかわる重大事項の決定過程への参加や関与といった場面を、

ほとんど想い描くこともできないほどです。

制度としての民主主義は現存していても、実態としては無力感や無関心が蔓延しかねな

い、ゆゆしき事態でありましょう。

 

しかしここでよく観察してみると、官庁の内部に限局されたことなのかもしれませんが

、下から上への道筋、つまりボトム・アップの政策決定過程も存在はしているようなの

です。

 

日本の役所は省ー局ー課ー係といった縦系列になっています。

重要な案件についての官庁内部の政策決定プロセスが上からのトップ・ダウンで降りて

くる、というよりむしろ、はるかに強く下、つまり係から課ー局ー省へとの

ボトム・アップ式になっている、との観察です。

 

 

ボトム・アップは、物事を決めていくプロセスは慎重であり、民主的だというメリット

をもっている。しかし、デメリットも多い。

決定したときは正しいのであり、変更されない限り正しいのであり、変更しないでいる

のでしたがって正しい、という「継続性の論理」が組織に組み込まれて働くからである。

またボトム・アップ構造は、責任を拡散させ、修正の力学を働きにくくしている。

いったん決定したことを修正したり中止したりすることは、前の決定が誤っていたこと

を認める、

もっと端的にいえば、この決定に関与した官僚の責任を問うことになる。

したがって、計画はどんなことがあろうと継続されなければならない。

(岩波新書「公共事業をどうするか」90ページより)

 

 

一方、霞ヶ関と呼ばれるクニの中央、自治省の方針いかんによっては、町村合併によっ

てムラは消滅させられます。

自治省はクニからムラへ配分される地方交付税の複雑怪奇な事務作業を一手に担ってい

ますので、じわりじわりとではあれ、その裁量によっては、

財源に乏しいムラの事実上の生殺与奪の権能を握っていることになります。

 

また、霞ヶ関の建設省の方針いかんによっては、ムラは水没することもありますし、

(岐阜県の徳山村のように)廃村になることもあります。

ムラを流れる川の水は建設省河川局によって、その運用を一括管理されています。

具体的にこの南相木村の水利権の場合は、長野市にある建設省の出先機関、

北陸地方建設局千曲川工事事務所に管轄されています。

 

ムラの道路もまた、建設省道路局(2001年1月からは国土交通省道路局)に管理さ

れています。

 

道路法上に規定されている「道路」とは、日本全体で、一般国道が五万三千キロ余り、

都道府県道が十二万三千九百キロ、市町村道は九十五万三千六百キロ、

総延長は百十三万キロで地球二十八周に相当します。

 

地方自治だとはいっても、自前で(村議会なりが)公の場で決定しきれる案件は村内に

ほとんどありません。

それがいやだとか、悪いといったことではなく、これが現実であるということです。

すべてを自前で決め、付随するリスクも自分たちで引き受けざるを得なかった江戸時代

以前のムラのありようとの大きな相異点になっています。

 

ムラの医療ではあっても、もちろん厚生省の医療政策の一環です。

国民皆保険はすばらしい制度で、ムラビトであっても医療にアクセスできるようになっ

ています。

「保険あって医療なし」にならないためにこそ、開業医の成立し得ないこの山中にあっ

ても、国民健康保険制度にのっとった診療所が維持されており、

私はここ南相木村の「国保直営」診療所長として外来、往診に従事しています。

「医療の一分野というより、農村の一役割としての地域医療」に日々とりくんでいます

。毎年200人ほどの医学生、看護学生らをムラに受け入れて、村の魅力を感じて学ん

でいただいております。

 

また社会福祉や介護、廃棄物にからんだ諸問題、それに上水道と下水道についても、

東京の厚生省が諸決定の大枠を決めています。

ダムはとても象徴的な公共事業ではありますが、実は上水道の「広域化」や流域下水道

等々の「水源開発」総体にまつわる

莫大な無駄とも思える付随経費についてこそ、今後よく検討することが必要でしょう。

 

残念なことではありますが、ケンがその条例でこのクニの作った大枠に抗することは、

現状の力関係ではかなり難しいのではないでしょうか。

しかし県条例が政令・省令に優先されるとの指摘もありますので、今後の研究課題とは

なりましょう。

長野県を変える、長野県が変わる、ことによって、「日本を変える」との気概が肝要で

ありましょう。

 

ここではへき地医療の内実や悩み、介護保険制度の実態には踏み込まずにおきます。

ただ、自治体としてのムラが立ち行かなければ、ムラの診療所もムラ医者も、

(開業医が成立しがたい現況下では)ただ消え行くのみであることを指摘するにとどめ

ます。

 

 

ケンとはいかなる存在か

 

上記の3省に労働省と警察庁を加えたものは、戦前「内務省」と呼ばれる巨大省庁でした。

内務省は戦後、アメリカ占領軍によって解体分割されて今に至るのですが、

日本国「内」のほとんどすべての出来事に決定権限を有する最強の省庁でありました。

戦後民選になる以前は、ケン知事職もまた内務省地方局からの派遣人事でありました。

 

分割された今も、上記の各省庁(旧内務省グループ)は中央集権化された日本列島の

重要事項決定権(水利権をはじめとする、さまざまな許認可権)を保持しつづけていま

す。それがゆえにこそ「お任せ主義」で、みなが幸せであった時代も過去にはあったのでしょう。

クニの諸決定にムラが納得することができていた高度経済成長、右肩上がりの時代は幸

せでした。

 

しかし現状の逼迫した財政事情(国と地方の累積債務650兆円、これは日本のGDP

の130%相当)から、「効率」を重んじて生き残りの方策を考えた場合、

「小さなムラは取り潰されるべきではないのか?」との問いが当然のように発生してきます。

 

 

47都道府県の99年度会計決算が出揃った。

借金返済の負担度を示す公債費負担率は、

15道県が危険水準に達し、財政運営は厳しさを増した。

長野県は危険ラインの20%を超える24.8%で、

岡山県(24.9%)に次いでワースト2位。

県財政課によると、99年度末の県債残高は

一兆六千三百億円。

(長野日報 2000年10月12日より)

 

長野県には120の市町村があり、小さなムラの多い分、ケンの力が大きく働きがちで

した。

この点でムラとクニとの間にあって、ケンなる存在がいかなる存在であったのか、

またいかなる存在であるべきなのか、といった課題こそ、今後探求すべきところではな

いでしょうか。

 

介護保険に限らず保険制度にあっては、保険者が広域でなでれば、リスクの変動によっ

て安定した保険運営に

あたりにくい状況が生まれやすいのです。

廃棄物行政についても「広域化」が叫ばれる所以でありましょう。

しかし、現場の保健医療福祉また介護のサービスにあっては、「狭域行政」ともいうべ

き顔の見える関係性がなければ、まっとうなサービスたり得ず、効率だけのものになっ

てしまうでしょう。

 

「火水米金土」の循環、つまりエネルギー、水、食料、貨幣そして生存に必要な土木事

業の諸循環を、

有限な資源の有効な諸循環としてとらえ、長い目で見た地域経営を維持していくことを

考えることなくして、

水源地であり、貴重な林地である「ふるさと」――ムラを保持することはできないので

はないでしょうか。

 

医療の予防的側面から、明治の内務省に由来する「おかみ」意識の抜けない役人たちへ

の処方箋として以下の提言をしたいと考えます。タバコについてです。

 

米国では4年前、それまで増える一方だったがん死亡率に、かすかな減少傾向が見え、

それが今や、グラフの右肩ははっきり下向きになってきました。

がんにかかる人の割合を示す罹患(りかん)率も減少に転じています。

一方の日本では、飛びぬけて多かった胃がんこそ減ってきたものの、肺がんや大腸がん

はじわじわと増え続けており、全体のがん死亡率に減る兆しは見えません。

WHO(世界保健機関)の提唱する禁煙への積極策や米国の進めた今回の予防政策では、

予防は個人に努力を促して済む話でなく、社会環境の整備、

方法の開発などが不可欠、との考えで成果をおさめています。

2000年3月に日本の厚生省が定めた「健康日本21」計画では”骨抜き”にされて

しまいましたが、タバコ業界からの反対で消えてしまった当初案の数値目標

「成人喫煙率を半減させる」、こそ

県条例で復活させてでもケンが取り組み得るであろう、最大の健康推進政策となろうこ

とは明らかです。

 

長野県は現状でも医療費の低さ(1人あたりの医療費は全国で7位,老人医療費は一番安

い)と長寿(男性1位,女性4位)でよく知られていますが、

いよいよ他府県をひきはなして健康指標を高めることになるでしょう。

肺がんや心臓病などと喫煙との「高い因果関係」が統計上はっきりとしているのにもか

かわらず、

あいまいにふされてしまい、全国に50万台はあるといわれるタバコ自動販売機やさま

ざまな広告で、

街中があふれかえってしまっているのは、先進国中では日本だけ(!)です。

 

たとえば(と少し過激に申し上げるなら)、勤務時間帯はもちろん、

県庁とその関連部局内(地方事務所、県立病院、県立高校、、、)では

県職員の喫煙は原則禁止、クライエント(?)である県民、市町村職員、患者、高校生

はもちろんその規定外。

このくらいにしないと、自分たちの位置を、”公僕”として、つまり「公共サービス業

種」として認識しなおすことは難しいのではないでしょうか?

 

 

最後に、大自然(山や川)とのせめぎあいの中、苦闘しながら自らの生存と生活を築き

上げ、貴重な森林を涵養してきた、ムラにくらす諸先輩方の自前の努力に改めて敬意を

表した上で、

現今のように、まじめに働けば働くほど、地域や環境に負荷がかかってしまっているこ

とに気づき、

日常のなかで、きまじめさゆえに何ものかに「加担」してしまっている自分に気づいて

、自らの「生き方」について考えはじめざるを得なくなってしまった私自身の悩みにつ

いて記して、終わりにします。

 

「生き方」の問題について、新しい生き方とは?まっとうな働き甲斐とは?

そして、会社は誰のものか?役所は誰のものか?川は誰のものか? 山や森は誰のものか?

といったことを考えてみました。

 

すると、自分自身の問題としてはもちろん、自分の担当した相手やお客さん(私の場合

は患者さん)

から学び取れる部分があるのかどうか、との提起が可能なのではないかと、思い立ちま

した。

宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』で、主人公のゴーシュが動物たちから音楽を教わる

ような、

「村人あるいは患者が医師の教育をする」という物語がありうるのだと思います。

「診てあげる」という、「患者」を見下ろす視線を持っている医学生や医者たちが

少なくない現状ではありますが、一人の「人間」として見ず、

「病気」以外のバックグラウンドに注意を払いもしないできた医学徒が、

自分より下だと思っていた人々に教育され得る、との物語です。

 

県庁の方々や公教育の現場の先生方についても、

何らかの分野の「専門家」を名乗る以前のこととして、

ひとりの人間として、自らのアイデンティティを問い直す作業が、

いよいよ重要になってきている時代なのではないか、と感じております。

 

 

「人々の中へ」

 

人々の中へ行き

人々と共に住み

人々を愛し

人々から学びなさい

人々が知っていることから始め

人々が持っているものの上に築きなさい

 

しかし、本当にすぐれた指導者が

仕事をしたときには

その仕事が完成したとき

人々はこう言うでしょう

「我々がこれをやったのだ」と

 

――晏陽初 Yen Yang Chu (1893 - 1990)――

 

 

<参考文献>

 

「水道がつぶれかかっている」保屋野初子・築地書館

 

「水問題原論」嶋津暉之・北斗出版

 

「現代たばこ戦争」伊佐山芳郎・岩波新書

 

「社会的共通資本」宇沢弘文・岩波新書

 

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