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    グローバル化時代の民主主義

 

                   ヴァンダナ・シヴァ

 

 

二つの力が同時に大きくなりつつある。

 

グローバル化とローカル化。

グローバル企業と地域共同体の草の根運動。

上昇志向のパワーと足元重視のパワー。

 

インドにおける1991年の新経済政策はグローバル化へ辿る道筋であった。

この政策は世界銀行とIMFが主導した構造調整プログラムの反映である。

グローバル化の過程は、GATTのウルグアイ・ラウンドの完了と世界貿易機構(WTO)の

創設によって加速化した。

 

 

< 地域、国家、企業 >

 

グローバル化によって地域、国家、企業の関係は完全に流動化した。

マーク・ネルフィンのカテゴリーを借りれば、市民、王子、商人の関係性が流動化した

ということになろう。

 

グローバル化をアピールするおおかたの理由として、官僚的な形式にわずらわされなく

なる、中央集権化や官僚による管理が少なくなる、という考え方をあげることが多い。

しかしこれは、国家権力が腐食されている事実を暗に示しているため、称賛されること

になったにすぎない。

 

グローバル化は、確かにビジネスや商業の規制という点で「政府のより少ない介入」を

意味する。

しかし企業と商業活動にとっての「政府のより少ない介入」は、

人々の生活への「政府のより大きな介入」と一体をなすものである。

 

グローバル化によって資源が公共の場から運び出されれば、それが地域共同体の管理下

で行われようと、国家統制への不満を唱える一派の管理下で行われようと、

反対派は必然的に増加し、法と秩序の問題が生じる。

そしてそのような状況下では、政策と法秩序の維持だけに政府機能をとどめているよう

な国家でさえも、大きくふくれあがって人々の日常への浸透力を持つようになり、

社会の富の多くを消耗しつつ、各市民の生活の中にまで深く侵入するようになる。

 

グローバル化の思想的投影の多くは、この王子と商人の新しい関係、

つまり国家と企業、政府と市場の関係に焦点を当てている。

 

国家は商業活動と資本の規制にとりくむ役割からどんどんと手を引きつつある。

規制自由化の思想的裏付けについて、インド政府の大蔵大臣マンモーハン・シンが最近

こう語っている。

「権力は会議室に移行すべきだ。」つまり政府から移行するということである。

しかし国家による統治から企業による統治へのシフトは、

民衆により多くの権限が渡されることを意味するのではない。

むしろ、民衆の権限が減ることを意味しているのだ。

なぜなら企業、とりわけ多国籍企業は政府よりも強力であろうし、

政府とは違って民主的な管理を行なう責任は少ないのだから。

 

近年、多国籍企業の政治力と経済力は劇的に増大した。

まさに多国籍企業がグローバル化のアジェンダを独占しているのである。

多国籍企業は世界の富の三分の一を牛耳っている。

今や企業間ではなく企業内での貿易取引が、世界の商業活動の

伸展しつつある分野になっている。

 

規模についていうならば、企業は国家をちっぽけな存在に変えてしまった。

一九八〇年には、上位十社の多国籍企業の売上高は280億ドルを超え、

その額は八十七カ国の国家総生産(GDP)額を超えた。

このころから、企業が巨大化する一方で大きな政府の分割がすすみ、小さな政府との考

え方が広がった。

これによって、競争は一層不平等なものになったといえよう。

 

一九八〇年度のエクソンの売上高は、オーストラリア、デンマーク、ノルウェーなど

九十七カ国における国家総生産を上回ったが、この数字はこの一〇年間で変化した。

エクソンは少し業績が落ちて、結局インドネシアと南アフリカの間に収まったのに対し

、オーストラリアはいくらか順位を上げた。

 

ニューヨーク議会報によると、ゼネラル・モータースは、もし国家であれば世界第一二

位の経済規模になるという。

フォードはデンマークの後に、IBMはタイの後につけている。

さらに注目すべきことは、世界の上位百位の経済単位中の企業対国家の割合が、

一九八〇年には、39対61であったのが、一九九〇年の表を見ると47対53になっ

ていることである。

 

バーネットとミューラーは次のように明言する。

 

「グローバル企業を動かしている者たちは、組織、技術、資金、イデオロギーを駆使し

て世界を集約的な経済単位として扱おうとたくらみ、妥当な挑戦を行っている史上初の

人間たちである。

そのような彼らの要求を突きつめれば、国家のワクを超越すること、

そしてその過程において、国家を変貌させていく権利なのである。」

 

国家権力は「外」と「上」から浸食され、侵食された権力は民衆の手にではなく、企業

の手中にゆだねられていく。

権力の当事者を地域共同体まで引き下ろしてくる、というのではない。

実際には、ローカルな次元から権力を取り上げ、民衆の権利と健康の保護役であるべき

国家の組織機関を、企業の資産と利益の保護役に変えてしまうことである。

 

国家は自国の市民の権利擁護よりも外国資本の保護に熱心になるという、「さかさまの

国家形態」を作り上げることになった。

Welfare State から Welcome State への変貌と記載される。

この逆転国家の形態のあり方は、最近のインド政府の提案によく表れている。

外国の証券専門家が「外国資本投資家の生命と資産を守るため」にインド警察を訓練す

るというものである。

 

例えば、先頃の政府が、MSG(グルタミン酸ソーダ)の健康基準を引き下げて

許容レベルを引き上げることに決定したことがあげられる。

民衆の健康を懸念しての問題提起がKFC(訳注:ケンタッキー・フライド・チキン社)

などのファーストフード産業の拡大を阻害しないようにするためである。

MSGが喘息など重度の健康問題を引き起こしていることは知られているところである。

 

企業によって統制される経済空間の拡大としてのグローバル化は、民衆が健康および福

祉状況を自己決定し、またそれに影響を与えていこうとする民主的空間と衝突する。

 

企業管理の拡大は、「消費者選択」という根拠に基づいて市民の民主的空間を拡張する

かのように見せかけていることが多い。

しかし企業の定めたルールにしたがって、その中であらかじめ設定されているものから

選択を行なうことは本当の自由ではない。

なぜならば、それは社会を統治している価値や生活の中身そのものを決定する権利を放

棄することにも関わってくるからである。

自動車やジャンク・フードの類の個別の消費者選択がエリート層向けに拡大しているの

は、地域が地元の自然資源を管理する権利が縮小しているからであり、

民主的な公共の諸過程を踏まえて行なうことができる社会的選択が縮小しているからで

なのである。

 

グローバル化によって企業はますます自由になっているが、それは市民がもっと自由に

なることではない。

商業活動の規制自由化は、市民の生活に対する国家の介入が減ることと同じではない。

大企業が「知的財産」と主張する種子や薬草を保護するために、

政府は小規模生産者、農業者、職人などの市民生活に介入するという新しい役割を演じ

ることを余儀なくされる。

 

 

 

< 自然資源の所有の集中 >

 

生物の多様性

 

多様な生物種と土地と水は、私たちの多くが生きて生活していくためになくてはならな

い三大資源である。

 

「知的所有権」は、生きた資源と生物の多様性を人々から取り上げ、

それらを企業に独占させるという重大なメカニズムとして現れつつある。

種子、薬草、そしてニーム(の木)を原料とする天然殺虫剤は、

これまで人々の生活の中の農業や健康管理の基盤であったが、

今やGATTを通して実行される特許発行機関によって盗まれつつある。

 

そのような企業は、「国家の不十分で非効率的な知的財産保護政策によって、

世界の企業が損失を受けることを防ぐため」に、GATTで知的所有権の保護を押し進めた。

工業国は第三世界を「権利侵害」で何度もくりかえし非難してきた。

 

一九八六年の調査でアメリカ企業は、不十分かつ非効率的な特許保護のために

二百三十八億ドルもの被害を被ったとしている。

アメリカの製薬会社は二十五億四千五百万ドルの損失を主張している。

しかしニームの特許化や、微生物、樹木を原料とする薬草、種子などの例でわかるよう

に、このような企業は、第三世界の生物資源や知識を自分たちの「知的財産」として主張す

ることで第三世界がどれほどの損失を受けているかは査定しないのだ。

 

むしろRAFI(僻地発展のための国際財団)は、第三世界の生物の多様性と農民および村

の創意工夫を考慮に入れるならば、権利侵害の構図が劇的に逆転することを示した。

それによると、アメリカは農業に関する特許使用料で二億二百万ドル、

製薬に対する特許使用料で五十億九千七百万ドルを第三世界から借金していることにな

るというのである。

 

皮肉にも、このような企業こそ権利侵害を理由に第三世界を非難し、

知的所有権条約を作成して「権利侵害」をくい止めようとしている一方で、

第三世界の多様な生物群や知的財産を大規模に権利侵害することに、自ら荷担している

のである。

 

フィツアー社やブリストル・マイラック社は、知的財産に関する委員会の場を使ってGA

TTに知的所有権を紹介し、うまく導入させた当事者であるが、

このような企業は第三世界の生物のもともとの所有者に特許使用料を払って

許可を得ずに、第三世界から集めてきた生物に特許をつけているのである。

 

同じようにして、WRグレースをはじめとする他の企業はニームを原料とする天然殺虫剤

で特許を獲得した。

グレース社の下請け企業であるアグラシータス社は、米、大豆、綿花に関する独占権を

主張している。

特許こそ、企業が食料の独占管理権を確立する道具になっているのである。

 

これに対し民衆は、知的所有権に代わるオルターナティブな所有形態を、特に生物の多

様性に関する分野で押し進めている。

これはカルナータカ・ラジャ・リョータ・サンガという研究財団と第三世界ネットワー

クが、一九九三年の八月一五日の独立記念日に知的権利の共有運動として発足させた

重要な動きである。

このようなコレクティブな知的権利は、種子や薬草などの生物資源に対する民衆の権利

を保護し、共有すべき財産の集積化を守ることを目的としている。

 

インドの知識に立脚して特許を問題にした試みは、逆にアメリカとヨーロッパの特許事

務所から訴えられている。

多国籍企業はウルグアイ・ラウンドの一番終わりに知的所有権条約合意を得ることに成

功したかも知れないが、非倫理的で不正義な知的所有権システムを民衆に

押しつけることはできない。

生命の特許登録化に反対する動きは各地で広がっている。

インドでは「種のサティヤーグラハ」と呼ばれる運動があり、土着の種子を保ちつつ、

知的所有権条約に対して農民の権利を保護すべく活動している。

この運動は広まりつつあり、徐々に力をつけている。

 

 

< 土地 >

 

土地と水もまた横領されている。

土地改革は、土着インド人地主へ土地所有が集中することを解除しようと試みたもので

あったが、この改革自体が未完になっている。

土地改革は構造調整計画の一部である。

世界銀行の農業改革の主要なターゲットのひとつに土地上限法の撤廃がある。

土地上限法は植民地時代のインドが直面したザミンダーリー制度のような土地所有独占

の存続あるいは再現を防止するためのメカニズムである。

 

一七九三年の完全譲渡によってイギリスはインド人地主を土地所有者として認め、

地主らに政府に永久固定額を支払うよう定めた。

その際、政府の歳入は、地主が小作人から借地代として受け取る額の十一分の十に固定

されていた。

つまり残りの十一分の一が地主の取り分になる。

年月が経つにつれ、ますます地主は地代受取人として他人の労働によって生活を営む者

となり、土地にはなんの投資もしなくなった。

 

ウター・プラデッシュ州のザミンダーリー廃止委員会は以下のように報告している。

 

「この譲渡によって、何百万人もの民衆がそれまで二千年近くも享受してきた古来の権

利を失った。

先祖から代々受け継いできた土地の所有者である農民は、

自由意志によって、単にしぼりとられるだけの借地人になりかわってしまった。

このようにして社会の不調和と経済的疲弊、そして農業の崩壊へと導かれる状況ができ

あがっていったのである。」

 

生産を行わない地代受取人の階級の増大は、わずかしか財産を持っていなかった貧しい

農民を追放した。

地価が上昇し、土地の転売が急速に増加した。

農民の土地没収が政治的危機に発展した結果、一九〇〇年、パンジャブ州で土地譲渡法

が成立した。

これは農耕地の売買と、非農業者への売買を制限することをねらいとしたものだった。

 

土地における「自由取引」は土地の独占を引き起こし、古来の権利を持つ小規模農業者

を追い出す。

アメリカ合衆国では人口のたった2.4%しか農業者として生き残ることはできないが、

この状況は、生産者の土地権利を保護できないアメリカの「市場の失敗」を証明している。

 

一七七六年には十人のうち九人のアメリカ人が農業に従事していた。

一九五〇年以降、農場数は六百万から現在の二百万に減り、人口のわずか2.4%が農業

に就いているにすぎない。

 

今日、アメリカでは約半数の農耕地を非農業者が所有している。

非常に大規模な工業化された農業がアメリカの農業を独占しているのである。

この巨大農場は環境からみて、非常に否定的なインパクトを与えている。

帯水層は干上がり、土壌は汚染された。

重機器による土壌の圧縮と単一栽培農業によって、生物の多様性は減少した。

西暦二千年には、たった一パーセントの農場が世界の半分の食料を生産するようになる

と見られている。

政府から助成金を受けている巨大な穀物仲買人は、農業者の生産コストよりもずっと安

い値段で買いたたく。

この安い穀物が、第三世界の農民を土地から締め出し、食料不安のもとになっているの

である。

 

巨大企業が経営する農業モデルは今まさにインドに導入されつつある。

 

今日の貿易の自由化の下では、企業が大規模に土地を買い上げられるようにするため、

国家は土地上限法の改正を迫られている。

このために農民は土地への権利を失いつつある。

政府はすでにアグリビジネスが契約農業に取り組む許可を出しているが、

これは農業者が生産物を売る際に、農業者が決めた値段ではなく、

企業側によって一方的に決められた値段で企業に売らざるを得なくなるということを意

味する。

 

土地所有の上限の撤廃は、社会正義と持続可能性の維持という面には打撃となる。

小農民こそが土地を持続可能に運用し、土壌の有機的な豊かさを内部的な供給によって

補充できているのである。

小農民だけが、交通の便の悪いところに居住する何百万という人々の食料を保全できる

のである。

 

カルナータカ土地改革法(一九六一年成立)への最近の付加条項は、

インドの諸州において、土地改革を進めることを阻止することを隠れたねらいとしてい

る。土地所有の最高限度枠は、いくつかの地区の漁業の養殖に関してはすでに

撤廃されている。

採集農業、花の栽培、そして農業関連の企業もまた、この上限法から除外された。

 

 

< 水 >

 

世界銀行の政策報告書では、「売買可能な水利権市場」の作成が薦められているが、

その中では次のような議論がなされている。

すなわち、水を利用する権利は自由に売買することができる。

また、新しい作物を作りはじめた農業者や新しい農地の耕作者は、

現在の水の使用者以上の価格を支払うことによってのみ、水を得ることができる。

さらに、すでに経営が確立している農業者は、何をどれだけ生産するかを決定する際に

それに要する水の売買価格を考慮に入れねばならない・・・

 

売買可能な水利権の制度化は、水の流れを小農民に向いたものから大企業のスーパー農

場向けにに変えるものである。

売買可能な水利権は、水の独占を招く。

市場論理に従っていえば、売買可能なものは、もっとも高い買値でせり落とされる傾向

があるのだから、水の管理権と結びついた富の集中につながる。

 

また水資源を枯渇させても当事者がその結果に苦しむことはないので、過度の水資源搾

取や誤用が起こる。

水が不足した場合、他の農業者や地域から水利権をいつでも買えるという安易さに陥る

わけであろう。

これではすでに重大な生態系危機にある水資源の質をさらに悪化させるばかりでなく、

村共同体での社会的なつながりを崩壊させ、不調和と崩壊をもたらすことになるだろう

ソマリアの社会機能の崩壊は、世界銀行の政策に従って水利権を私有化したことにまで

さかのぼることができる。

売買可能な水利権、という考えのもとになっているものは、

水の使用には社会的な制約が課せられるべきではない、というものである。

だが、無制限の使用は浪費にほかならない。

世界銀行の売買可能な水権利に関する提言は、社会と生態系の破滅にいたる処方箋である。

 

世界銀行の水の私有化政策は、すでに実施に移されている。

例えばカルナータカの新規農業政策では、かんがい部門の改革の項で、

「上から下へ」の上意下達方式から「下から上へ」の底上げ方式への転換をうたっている。

私有化され売買可能になった水利権とは、確実に「下から上へ」の底上げ方式からの産

物である。

しかしこれは民主的な管理方法によるものではない。

小規模で周辺に置かれている農民の手から水を取り上げ、

水利用者協会を買収し水の独占を確立することが可能な大企業とアグリビジネスの意向

へと、水資源の管理を「下から上へ」移動させる点においては、確かに底上げ方式である。

 

スリランカではこれがすでに発生している。

輸出指向の企業が農民から水利権を買い取ってしまったため、

農民が農耕生活を続けられなくなって追いやられているのである。

 

自然資源を企業が管理するべきか、それとも共同体が管理するべきか。

どちらが持続可能な未来を示しているのだろう。

 

インドで今起こりつつある大きな民主主義に関する問題提起は、

土地、水、生物多様性などの自然資源に生活をたよる数多くの貧しい

民衆が生き残る権利についてである。

各地で、自然資源を企業が管理するのか、共同体が管理するのかをめぐって大きな衝突

が起きている。

 

民衆運動は次のように主張する。

つまり、中央集権化国家の諸機関に権力を集中させるのではなく、社会全体に決定権を

分散させるべきであり、諸機関のさまざまな層のローカルな次元にもっと権限を

持たせて分散し、ローカルな地域共同体とその機関に管理を委ねるべきである、と。

だが多国籍企業の先導するグローバル化のアジェンダが、

中央集権化国家のレベルからグローバルな国際企業や

国際金融機関――WTOや世界銀行、IMF――へと権力を押し上げるよう強要している。

一方で、民衆の民主主義のアジェンダは、政治と経済の両面でより一層のローカル化を

求めている。

政治のローカル化は、地域共同体にもっと多くの決定権が移行することである。

経済のローカル化は、できるだけその地域で生産するものだけで地域経済を運営するこ

とで、生活と環境の両面を維持していくことにつながるだろう。

 

 

【 図 1 】

 

グローバル化状況下における、

ローカルな地域と国家空間から、グローバルな空間への政治経済力の移行、

およびグローバルな空間からローカルな地域と国家空間への政治経済力の分散および移

行を意味的に表したもの。

 

グローバル化 ローカル化

 

 

グローバルな 多国籍企業

空間 世界銀行

 

 

国家空間 国家

 

 

地域共同体

 

 

 

< 民衆の反応 >

 

国際金融機関と国際貿易機関によって、政府が盲目的かつ無差別にグローバル化を実現

すべく無理強いされているのに対し、インドの民衆は「ローカル化」という

新しい政治をもってこれに対応している。

グローバル化を、エコロジカルな状況や社会的状況にあてはめて考えてみる、という新

しい見方をはじめたのである。

地域共同体の民衆が生きるために必要な資源を外国資本が取り上げてしまって、

際限のないグローバル市場化の食指がすでに入り込んでいる地域にあっても、

民衆は生態系と社会への責任をはたすべく取り組みを行っている。

 

また民衆は、地方に分権化された民主主義を基盤にした新しい統治原則を再定義している。

世界銀行やWTOの規則は、一方だけに偏った商業上の利権に貢献するための超国家機関の

規則であり、民衆の手による民主的な運営を飛び越えたものである。

この“自由貿易”の時代にあっては、州政府が及び腰になって環境や社会に対する責任

をはたそうとせず退きつつあるのに対し、地域共同体こそが、水、土地、生物多様性

などの自然資源の運用に関する権利とその利用法について

民主的決定を行なう権利を留保し、組織化し、また商業活動を統制すべく活動している

のだ。

 

民衆は民主主義というものを、民衆の意志決定という点から定義し直しはじめた。

そして国家というものを、中央政府の視点からではなく、民衆の視点から

再定義しはじめた。

 

このようなローカル化の傾向は、実はグローバル化の台頭とともに生じた産物である。

グローバル化が企業管理を目的とする、企業の先導するアジェンダならば、

ローカル化こそは環境と人々の生存、生活を守るための市民の側からの「対抗アジェン

ダ」である。

国家政府の規制が欠落している状態にあって、市民はこのグローバル化の進行過程で、

環境制限と社会責任を導入する新政策を作り上げている。

ローカル化の環境的で民主的な対応は、地域共同体の資源の所有と管理において環境的

な側面を重要視するものである。

また、そのような資源利用についての意志決定の側面、さらにグローバル経済と国際貿

易によって地域共同体経済が破壊されないように抵抗し対抗するという側面もある。

 

 

 

ローカル化は自給自足ではない

 

ローカル化は、自給自足や孤立を意味しているものではない。

それは具体的な外国資本を例にとって、グローバル化の論理の持続性、民主主義、正義

を試すことにある。またローカル化の重要性とは、その独自の主張、つまり

「国家は民衆の利益を保護するものであって、民衆から奪い取った権力と権威を民衆に

戻しつつも、外国資本の単なる手先になりさがってはならない」

という主張を新たに提起しなおすことにある。

 

問題は、国家が存在すべきか消滅すべきかではない。

大きい国家であるべきか、小さい国家であるべきかでもない。

今の時代における真の課題は、中央集権的かつ官僚主義的で強い管理志向を持ち、

文明社会の役割と機能を取り上げ独占してきた国家を、いかにして再生するかである。

環境と商品サービスについての意志決定を、無原則で無責任な市場にまかせておけば

環境保護と社会的弱者が守られる、というのは誤りである。

 

市場の社会規制には社会政策が必要であるが、これは個人レベルの消費者の選択とは違

う。

グローバル化の裏の力、多国籍企業と、ローカル化の裏の力、市民と地域共同体との競

争は、市民の自由を作り上げて、押し広めていく一方で、企業に規制を加える国家形態の

ありかたをめぐる競争にも発展する。

必需品の不足、飢餓、ホームレス状態等の、基本的ニーズの欠落からの自由、は最も根

本的な自由であり、これなしには他の自由はありえない。

民主主義の深化、文明社会の強化、新たな別の国家形態の設立によって、

この自由がどのようにして確実なものになっていくかこそ、私たちの時代の民主主義の

プロジェクトであるといえよう。

 

 

 

< 民衆の保護主義 >

 

ローカル化を求める運動は、新たな民衆による保護主義を引き起こしている。

これは旧来の保護主義とは違って、環境と経済に関する意志決定を、

中央政府国家から地域共同体のローカルな次元の自治組織体に移行しようとするもので

ある。

そこでは市民と地域共同体組織が、国家の持つべき機能と役割を決める。

また民衆による保護主義は、企業による保護主義とも異なり、

社会の諸機関――裁判所、警察、政府組織――が多国籍企業の利益を保護するように歪

められて、市民や小作人や小売り商の利益を犠牲にしてしまうこともない。

 

一九九一年以降、世界の巨大企業は新たな投資機会をインドに見いだしている。

これはアメリカ合衆国貿易法スーパー301条と、IMFおよび世界銀行の貿易自由化への圧

力と、外国資本の権利と利益をインド民衆のそれの上に置く政府の新経済政策のもとに

なった、GATTのウルグアイ・ラウンドを組み合わせた強力な戦略の下で行われている。

しかし現在、各産業部門でそれぞれ最大の多国籍企業は、

民主的な機能を果たすためには政府からだけでなく市民からも許可を得ることが必要だ、

との認識せざるを得ない状況に追いやられている。

 

カルナータカのカーギルやグレースであれ、ゴアのデュポンや、デリーとバンガロール

のKFCであれ、これら多国籍企業勢は民衆の生活や資源や健康を脅かす行為によって、

地域共同体や草の根運動から疑問視されている。

地域共同体は声を発している。

「我々が投資および開発のパターンを決定する。

我々が我々の資源所有権と利用法を決定する」と。

 

このメッセージは村から村へと共鳴し、投資現場では

自然資源の民主的地方分権管理を基本とする新しい環境哲学が生まれている。

民衆の圧力は、政府に対し、外国資本の利益のみでなく公共の福祉、

自国の自然と文化的遺産を保護する役割を忘れないように努めている。

ローカル化の傾向と民主主義の深化は、規制自由化の政治的な行き過ぎも含めて、

グローバル化の行き過ぎを鎮めようと意図しはじめている。

 

今起こりつつある問題は、企業の利益のために不正に働く中央国家政府と政府の規模を

超える地球環境問題、この両者をいかに統御すべきかということであろう。

グローバル化と、野放し状態の商業の貪欲さの反語として、「ローカル化」は登場しつ

つある。

 

私たちの眼前の課題は、このローカル化を求める運動をさらに築き上げて、

地域での現実の動きに実質的なものを盛り込んでいくことにある。

それは自然資源および経済に関して、地域共同体による管理を確立していくことである。

 

私たちが生き抜いて行かねばならない、そして多様な次元で闘い続けなければならない

このグローバル化の時代に、民主主義のありかたを希求することこそが挑戦である。

 

 

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