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          遠い記憶

                      ムラの在りし日語るご老人

 

山の村に家族5人でくらしながら、臨床医として毎日、

外来診療と往診とムラの医療にとりくんでいる。

 

国道も鉄道もない人口1300人の南相木村。

65歳以上の人口が全体の33.8パーセントを占める、農業と林業のムラである。

しかし、林業に明日はなく、農業の前途には後継者難がある。

 

「交通弱者」である高齢者世帯や独居老人の家には車がない。

そこで休日や夜間も、こちらから出向いての対応が求められる。

このムラは、3年前の春、私が初代の診療所長として赴任するまで、

長く「無医村」だったところだ。

 

 

診療の合間に、ご老人方の口から語られるのは「遠い記憶」である。

 

足ることを知り、隣近所が支えあった暮らしぶり。

助け合うしかなかった時代、といえようか。

 

百十余年前の秩父困民党のほう起と、村をふたつに割った酒屋、

庄屋(しょうや)への「うちこわし」の喚声。

その後の官憲の追及と弾圧。

「口減らし」で子守り奉公に出された思い出。

子守に出されて小学校には三日しか行けず、中退したこと。

幼い女工として親から離されて集団で寄宿舎暮らしをした「かごの鳥」の生活。

しかし寄宿舎では、文字の読み書きを習うことができた。

 

戦前の紡績工場でストライキが闘われたこと。

読み書きを教えてくれた姉さんが、争議のリーダーとして解雇され追放された……。

 

薪炭を村から汽車で出荷していた先、上野駅の傍らの問屋で、

住みこみででっち修行をして市電で得意先廻りをしたこと。

東京市の神楽坂、帝大の文学博士の家に女中奉公に出されていて、

ラジオで聞いた戒厳令布告。

雪の「二・二六事件」だった。

 

 

今はなき、子どもたちの歓声絶えることなかった山の村の分教場。

トロッコに乗って、かくれて遊んだ森林鉄道の軌道跡。

今朽ち果てた鳥居ばかりの残る最奥の部落で、盛大な神社の祭礼がなされたこと。

 

大正12年、関東大震災で被災し、歩いて信州に逃れてきた峠越えの一団。

峠で村の消防団が竹ヤリをかまえて遮り

「五十五円、五十五銭。」と発声を強いた。

デマに踊らされ、「濁音が発音できない者は、井戸に毒を入れて歩く朝鮮人である!」

 

ムラの有為の青年たちを、数次の帝国主義戦争の戦場に送り出した、村境の「別れの松」。

この松の樹下には、今では赤ん坊を背負い子どもの手を引いた女性が、

出征する兵士となった夫を見送る立像がある。

 

空襲下の東京から焼け出され逃れてきた、やせた「縁故疎開」の一群の家族。

生活基盤と農業経験のない彼らの、ムラでの肩身の狭い想い。

ひもじさの時代であった。

 

敗戦後の村を大混乱におとしいれた、農地解放をはじめとする戦後改革の大波。

没落する地主層、正義感あふれる青年団の活動。

日本共産党による「山村工作隊」が歌った革命歌と農民運動の高揚……。

 

 

辛抱に辛抱を重ねた彼や彼女の体に刻まれた時代のうねり。

これらの痕跡を日々感じ取り、

聴き届けるのが私のムラ医者としての仕事になった。

 

 

 

 

 

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