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        歴史の追体験

 

           複雑な民族感情 道中で学ぶ

 

 

私の最大の趣味は「歴史」を学び、追体験して胸に刻むことだ。

 

歴史に関心を持ったのは、高校時代のことだ。

ある日突然、「いま、教科書で勉強している場所は、いつか訪ねることができるんだ。

ここに書かれた人々とは、触れ合うことができるんだ……」と気がついたからだった。

 

「パリやモスクワ、それにアジアってどんなところだろう、

大学生になったら、ぜひこの目でみてやろう」

 

そう思った。

そして、実際に出かけるその時のために、事前に準備しておこう、という意欲が出た。

教科書から様々な時代の各国の本へと、勉強にのめり込んでいった。

 

 

大学を中退する夏。

二十一歳のときに、初めての海外旅行で、シベリア鉄道の旅に出た。

横浜港から船でナホトカまで行き、シベリア鉄道起点のハバロフスクで乗り換えて、

一週間かけてモスクワへ向かった(この旅は結局、ヨーロッパに二カ月間滞在

して、帰りにインドとタイに寄って帰国する、という都合三カ月の長旅になった)。

 

シベリア鉄道のコンパートメント(列車の個室)では、

さまざまな人に次々と出会い、話をした。

 

最初は、ロシアの大学に留学中のモンゴル人の女の子二人組だった。

モンゴル語の特有の音を、ロシア文字で表記するやり方が、とても不思議だった。

一人の名前は「ツェツェグ」といって「花」の意味だ、と聞いた。

日本なら「花子さん」だろうか。

 

彼女たちと入れ替わりで乗り込んできたのは、カザフ人のおばあさんと母親、

三歳だという女の子・グーリャの三世代家族だった。

 

 

彼らの背景にある民族や国家の事情について、私は知識として、

頭ではわかっていたつもりだった。

しかし、実際に人々と触れ合い話をしてみると、

「知識」の枠を軽々と超えてしまうショックを受けることが数多くあった。

 

例えば、モンゴルという国家は、世界で二番目の社会主義国として旧ソビエトの

支援を受け成立したものだが、「内(南)モンゴル」という、

中国の勢力下にある地域とは切り離されている分断国家だ。

教科書的な知識ではその通りで、シベリア鉄道の「花子さん」たちも、

ロシア語はとても上手だった。

 

けれども、流ちょうなしゃべりとは裏腹に、二人からは、

大ロシアに対する違和感や不信感のようなものがうかがえた。

ロシア語が得意とはいえない私にもはっきりとわかったのは、

コンパートメントのドアが閉っている時と開いている時とでは、

込み入った(政治的)話題の広がり具合が明らかに異なる、ということだった。

根はかなり深いのだな、と思わざるを得なかった。

 

カザフ人の三人家族も複雑だった。

これまでの人生の大部分を「ソビエト人」として過ごしたお母さんは、

ロシア語がうまい。

しかし、おばあさんのロシア語は少しだけだ。

グーリャはロシア語で育っていた。

後で考えれば、ソ連崩壊に際し、カザフスタンは独立するわけなのだから、

ロシアに対する複雑な屈折した民族感情があったのは当然だった。

 

あの時のグーリャは、いま二十歳になっているはずだ。

成長した彼女は今、何語で話しているのだろうか。

 

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