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講演要録

 

主催 NHK情報ネットワーク

「地域社会の国際連帯」   医・職・住の視点から

 

          アイザック事務局長

  長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村国保直営診療所長

          色平哲郎 いろひら てつろう

          講演日 1999年10月28日 (木) 

 

色平哲郎氏

1960年横浜市生まれ。東京大学を中退して世界を放浪した後、医師を目指して京都

大学医学部に入学。90年卒業後、長野県厚生連佐久総合病院、京都大学付属病院など

を経て長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長。98年、南相木村の初代診療所長

となる。

外国人HIV感染者・発症者への生活支援、帰国支援を行うNPO「アイザック」の事

務局長としても活動を続ける。この活動により95年にタイ政府から表彰を受けている。

 

 

私は長野県の山の村に家族5人でくらしています。とても高齢化の進んだムラです。人

口1,300人のうち65歳以上が33.8%ですので、私のお客様はほとんどがご老人です。ム

ラには桑の木が植わっています。昔はたくさん蚕を飼っていました。養蚕や冬の炭焼き

だけが現金収入でした。腰が曲がったおばあさんたちが私の診療所に来ますが、若い人

はほとんどいない、そういう山の村です。長野県は、戦前戦中非常に貧しいところで、

お医者さんがいなかった。私はこういう村に20数年ぶりの医者として赴任し、常勤医と

して、定住して仕事をしています。

 医者としての仕事以外に、村人とさまざまなことを語り合っています。どうして戦前、

当時の満州に出稼ぎに、あるいは一旗上げに行かなければならなかったのか。満州に

来て初めて米の飯を食べた、あるいは自分の土地が持てた。シベリアで抑留されて九死

に一生を得た、そういう経験をおじいさんたちは持っていて私に話してくれます。女性

たちは腰の曲がったおばあさんたちです。馬に乗って峠を越えお嫁に来た頃の話、ある

いは米が標高が高過ぎてとれず、お蚕以外に現金収入がなく、ヨメとして働いた頃のつ

らい思い出を話してくれます。それは村にまだまだ人がたくさんいて、山の分校に子ど

もの歓声が響いていた時代の話です。

 今日、皆さんに申し上げることは、少なくとも高齢者についてはムラと都会ではずい

ぶん違うものだ、と私がムラで学んだことを申し上げたいと思います。そして、家族5

人でこの村にお世話になっている私が、どういう道をたどってこういう医者になったの

かを申し上げたいと思います。 村のご老人は「ものがたり」をもっています。このも

のがたりつまり苦労語は、自分の孫にも必ず聞いてもらえるというものではないのです。

いつも同じことを言う、、、あるいは惚けてしまっていて自分の娘の顔がわからなく

なった方々です。来年の4月から始まる介護保険の対象になる方々です。その人たちが

どういう人生観で、80年、90年の人生を歩んできたのか、それが私の申し上げるものが

たりです。たとえば、こうおっしゃるおばあさんがいます。「学問もねえからよくわか

らんだども、おまんまくって、いつでも食べたいときに食べられる。こごとがなくて、

うちじゅうにけんかがなく、気楽だ。いえでよく寝て、あんどにくらせる」と。80代後

半で娘の顔がわかりません。小学校は子守をやっていて3日しか行っていません。つま

り文字の書けない方です。戦後、選挙になると平仮名を皆で勉強して、自分の一族の候

補者に投票したそうです。この人はフィリピンの戦場で死んだ筈の息子がいつか帰って

くる、といまだに信じています。息子のことが忘れられない。だれが来ても、その息子

の名前で呼ぶようなおばあさんです。皆さんの前でこういう話をするのは、ずいぶんか

け離れているかもしれません。しかし、私にとっては、毎日のように外来、あるいは往

診で彼らの話を聞いて、日本はどういう国だったのか、日本が「アジアそのもの」であ

ったころの遠い記憶、今に受け継げないでいる記憶を伝えていただいているのです。そ

れが私のムラでの仕事です。

 あるおばあさんは(惚けていますが)、自分のおばあさんから伝わる大事な教えとし

て、こう言いました。「お金がないから貧乏だなんて、いったい誰が決めたんだろうね」

と。確かにお金はなかったし、今もありません。廃屋のような家に、車もなく、こん

なところでよく暮らせるな、と思うところでくらしています。肺炎になったりして、私

が毎日往診する。どうしても家においておくのは無理だ、と思って入院させると、すぐ

に惚けが進行します。何故か。その方のやりたいことはきのこ取りやさかな取りやたき

火であって、それが許されない管理された環境の、人工的な場所では生きられない。自

分が自分でなくなってしまって、見知っている人のいない所では惚けるしかないのです。

これは「逃避」の反応であろうと考えます。お金がないから貧乏だなんて誰が決めた

のか、とおっしゃることのできるすぐれた知恵ある方が、施設や病院の中では急速に惚

けていきます。

 この惚けたお年寄り、「弱者」としてのお年寄りの姿を見て、どうでしょうか。私も

医学生の頃、あるいは看護学生さんもそうですが、「ご老人は弱者である」と刷り込ま

れて教えられます。しかし、これは本当は間違っているかもしれない。その人が自宅に

戻って生活しているとき、あるいはお金がないところで、日本人は、アジア人はどのよ

うにくらしてきたのだろうと考えます。するときわどいバランスながらよくぞくらして

いる、知恵と技を持っていた。山の中に「山に生かされた日々」があったと追体験する

ことができるのです。

 このような世代のご老人方は、人生観が非常に研ぎ澄まされていると感じます。たと

えば山口県の島のある男性が、今から70年以上も前の話ですが、大阪に奉公に出る自分

の息子にこういう言葉を贈りました。

 

「自分には金が十分にないから、思うようにお前に勉強させてやることができない。そ

こで、30歳まではお前の好きなようにしなさい。私も勘当したつもりでいる。しかし30

になったら、親のことを思え、また困ったときや病気のときはいつでも親の所へ帰って

おいで。いつも待っている。酒や煙草は30まで飲むな。30過ぎたら好きなようにしろ。

金を儲けるのはたやすい。使うのが難しいものだ。自分の身をいたわれ、同時に人もい

たわれ、自分の正しいと思うことをやるようにしなさい。」

 

そして最後に「人の見残したものを見るようにして、そのなかにどんな大切なものがあ

るかを見極めるようにしなさい」と。

 

この言葉を残した男性は特に学校で勉強したわけではない、ごくふつうの半農半漁のム

ラビトです。このような贈ることばは信州の山中にも残っています。私はこのあいだ、

佐久地域では進学校といわれる高校で講演し、この「家郷の訓(かきょうのおしえ)」

という言葉を高校生たちに贈りました。「自分の正しいと思うことをしなさい。人の見

残したものを見るようにして、そのなかにどんな大切なものがあるかを見極めなさい」

と。当時は、自分が生きていくだけでもきわどかった時代です。口減らしという形で都

会に出ていく人も多かった。昭和初期の農村恐慌のころであれば、実際に娘が身売りを

されるような、そういう背景の中でこのような言葉が息子や娘に送り出す親たちから伝

えられたものだと聞いています。

 私は現在、39歳で医者として働いています。医者というのは、「いまここ」、目の前

のことについてしか役に立たない。また、目の前のことだったら少しはなんとかなる。

そういう存在です。人間は、いまここが痛い苦しいということについて「何とかしてほ

しい」、と訴えます。しかしそれだけでなく、「いまここ」を乗り越えて「何か」をも

求めているのが人間だと思います。ご老人方は惚けてしまっているように見えて、当時

“いまここ”を乗り越えるものを持っていた。だから今ここでおめにかかれるのでしょ

う。

 

当時の社会には、現在の私たちの目の前にある壁よりはもっと分厚くて、硬い社会の掟

があったようです。男の人はずいぶん戦死しています。お百姓さんたちは兵隊として非

常によく働くだけに重宝がられたそうですが、ずいぶん戦場で死んでいます。また女の

人はお産で死んでいます。6人目を身ごもって、お産で足が引っ掛かって出てこない、

そうすると、近所の若者にご飯をたらふく食べさせて、走ってお医者さんを呼びに行っ

てもらいます。お医者さんは6時間後に来たそうで、村人が初めて自動車というものを

見たのはこの時だった。と今に伝わっています。昭和3年の7月でした。もうお母さん

は虫の息でした。生まれた赤ちゃんも小さくて、3ヶ月後に亡くなっています。当時現

金としての収入はほとんどありません。お医者さんの往診代と車代として40円を請求さ

れたということを、そのとき12歳で母親を見送ったという、今はもう90歳近いおじいさ

んから聞きました。

 

当時の40円はどういう価値なのか。馬1頭の値段が30円、郵便配達人の月収が18円の時

代です。40円というのはたいへんな額の現金で、医者は出費がかかる。「芸者をあげる

」よりたいへんだ。それが「医者をあげる」という言葉として村に伝わっています。申

し上げたいのは、目の前で死んでいくお母さんに対して、何とかしてあげたいと思って、

電話もない時代に走ってもらって医者を呼んだ、医者をあげたが故に、その家は40円

の出費で、とても返せない状態になった。次の年の蚕も大暴落したので、まだ返せなか

った。このようなことがムラには伝わっています。 私のいる村は、皆さんのご記憶に

あることでいうと、14年前に日航機がすぐとなり群馬県内に落ちましたが、当初の情報

では長野県内に落ちた、ということで私どもの村にテレビ局やメディアの人たちが来た

ことがありました。県境の300m向こう側だったのです。そういう山また山の中で、都

会とはずいぶん違う場所で、私は日常の診療をさせていただいています。

 このような方々のお世話をするときに、たとえ寝たきりになっても、彼らのものがた

りをあかしていただくことによって、この人を最後まで御自宅に往診してさし上げる。

あるいは癌であれば麻薬を使って痛みを取り、最後までその人がその人らしく生きられ

るようにしてさしあげる、このようなことにとりくんでおります。病院で働いていた頃

は、その人を管理的に入院させて、少しでも延命することが医者の仕事であると思って

いました。しかし、今はそういう延命だけの考えは捨て去るべき時代に入ったと思って

います。ムラの方々は、私たちの言葉で言うと、“土のひと”です。土に根を生やした

人々、根っこのある人です。そこから抜かれると生きられないのです。

 土のひとの言葉はあまり簡単にききとれるものではありません。沈黙がとても重いし、

その重さの中に語りえないもの、知りえないものがたくさんあります。そのような方

のちょっとしたしぐさの意味が読み解けるようになるためにはずいぶんと時間がかかり

ます。方言の壁だけではなく、私のような“風のひと”、外から来てフーッと吹いてい

ってしまうような人間にとって、土のひとの言葉は重たくてわかりにくい。でも、わか

りにくい中に、日本がアジアそのものであった時代の原風景を秘めているように感じま

す。土のひとは風のひとを、足がない、つまり「根無し」であると笑います。風のひと

は土のひとを鈍重であると馬鹿にすることもあるでしょう。でも、私のような村外から

の人間が必要とされるに至った、その土のひとたちのつらいところは、数十年前からず

っと無医村で、たまに医者がいても外来診療時間だけしかいない医者であった、という

ことでおわかりいただけると思います。

 山に生かされた日々は、土のひとの「百姓」としての生き方に連なってくるものだと

思います。彼らは農民であるだけではありません。標高が高く寒すぎて米が取れない、

そうすると蚕でいくしかない。それとも馬の子を育てて売る、あるいは冬に炭焼きをや

る。もし蚕がだめだと現金収入はほとんどない。しかし、木を切り、炭を焼き、松茸な

どや山菜を取り、山のけものを捕ります。山の神信仰があり、家具も自分で作り、自分

で家くらいは建ててしまう。そういう万能の、「百の技能をもつ百姓たち」のなかでく

らしていると、彼らはたしかにお金はなかったかもしれない。しかし、“お金がないか

ら貧乏だといったい誰が決めたのか?”つまり“お金があれば、豊かだいえるのか?”

という根源的な問いを発することのできる、彼ら「百姓」の骨太なところに憧れる気持

ちさえ生まれてきました。

 日本の小説では、長塚節が描いた『土』という小説があります。遅れた百姓たちの姿、

しかしそのなかに日本人が日本人であった頃のことをとどめていると思います。中国

であれば、パール・バックを通じて知る、中国農民のつらかった日々があります。映像

では黒沢明の『七人の侍』があります。外から雇われてきた侍が、“風のひと”として

村を防衛し、いくさが終わって侍たちが去っても百姓は生活を続けていく。つまり生活

や環境を維持する地域の内在的な力、自信やふてぶてしさ、ずるさと逞しさを含んだ知

恵と技。ムラの中に受けつがれてきたそういう豊かなものが都会から見たとき、なかな

か簡単には理解されなくなっています。そして受け継げなくなってきました。

 私の村には年間150人近い医学生や看護学生、社会人がやって来ますが、彼らにはこ

うした、人が人として根っこを張って生きていく力強さ、逞しさということを知ってもら

おうと考えています。また時には「みてくれ」ばかりを気にしていて、何とか仲間のな

かでいい目をみたいと「ぬけがけ」をする、あるいはかんたんに「あきらめ」てしまう。

そういう百姓根性のネガティブな面についても知っていただこうと考えています。

 ムラにおいでになる学生さんは、アジア地域でボランティア活動をしたいという熱意

を持っている方が多いのです。しかし、「風のひと」である学生たちが、そのまま外国

のムラに入っていっても通用しないでしょう。ひもじさを忘れていて、アタマでしか理

解できない、ハラではなかなかわからなくなってしまった、(語られない言葉をニュア

ンスとしてつかみとることのできなくなってしまった)若者が、そのままでかけて行く

のでは役に立たない。そこで、村が生きづいていた時代について日本のムラで追体験し

ていただくことが、中国も含むアジアの地域で、もし日本の若者が役立っていくことが

あるとすれば、その訓練になりうるだろうと思います。日本の中で私たち新人類が都会

で育ち、何か村に憧れる。村に住むことによって村の悪いところも目につきますが、そ

こで学ぶところも大きい。この学びをアジアでの展開のときに想い起してほしいと考え

ています。

 町の高齢者と田舎の高齢者ではどこが違うのでしょうか。町にいるとその人のアイデ

ンティティーはその人の生活そのものからは少しずれたところにあると思います。その

ずれたところにあるアイデンティティーは、退職したり、あるいは病気をして何らかの

障害を背負ったりしたときに、なかなかそのまま持ち続けることはむずかしいかもしれ

ない。ところが田舎の人たちは比較的それを持ち続け得るのです。百姓の仕事、例えば

小さな菜園をやることは、たとえ障害を背負っても、足を引きずりながらでもやれる部

分がある。障害を持った人でも知能が遅れた人でも村の中には生きるスペースがあるこ

とを、私は発見しました。

 私がどうしてこういう人間になったのかについて少しお話します。中学校時代には医

者などになるものかと思っていました。東大に入って、ぐれてしまったわけではないで

すが、この道を行くと化学の技術者になるだろうと考えました。工場の技術者か企業の

研究者になるのでは、何か世界が狭いのではないか、と考え、たいへん親不幸なことを

してしまいました。中退して放浪し、世間を見て歩く体験をしました。実際に大学をド

ロップアウトしてわかったのですが、20代の健康な若者が職にもつかずぶらぶらしてい

るのは、とても不気味な存在のようです。しかし、そうでもしなければ自分の道を見つ

けることはできないだろうと思って、もう20年も前のことですが、親不幸をし続けてい

ました。海外へも行きました。当時のソビエトで、さまざまな少数民族の人たちと語り

合いました。中国でも田舎のほうに行きました。アジアでも当時はまだ鉄のカーテンが

あった時代ですから、入れない国もありましたが、できるだけ農村や漁村を歩いてみま

した。

 思い出深いのは、ソ連で会ったモンゴル人、シベリア鉄道で喋ったカザフ人、ドイツ

で出会ったトルコ人でした。このトルコ人は今で言うところの外国人労働者でした。ど

の人もロシア語やドイツ語で「黒い目ですね」と私に言った。「同じ黒い目をした東洋

人」ということで私に話しかけてくれたのでした。でも、私は自分がアジア人であるこ

とを忘れている人間でした。

 

人間は他者のことば、ときには敵のことばを喋れるようにならなければ生き残れない。

このことを最初に感じたのはドイツで外国人労働者であるトルコ人の男性と会ったとき

です。彼は流暢なドイツ語でドイツ人の悪口を言っていました。この海外旅行から帰っ

てきて、この日本はどうだろうか?自分の中で日本語は自分のものになっていたのです

が、たぶんこの日本にも日本語に対して違和感をもってくらしている人がいるに違いな

い、それはどういう人だろうと考えました。

 大学を中退してキャバレーで住み込みのボーイとして働いたり、パン工場で働いたり、

北海道の牧場でアルバイトをしたり、いろいろな仕事について世間を渡って歩きまし

た。このときのキャバレーのオーナーは在日朝鮮人でしたから、朝鮮人としての思いを

日本語で聞くことができました。ドイツで会ったトルコ人労働者がドイツに対して異和

感を持ってドイツ語で“このドイツ野郎”と言ったのと同じようなことを、もう少しや

わらかな表現でしたが、「自分たちは日本人ではない」と日本語で私に語ってくれまし

た。同じようなことを、広い世界でさまざまに私なりに経験しました。うまいロシア語

で、ロシア人に対して異和感があるという思いをカザフ人やモンゴル人が私に語りまし

たし、モロッコ人の男性はフランス語で、「どうしてもフランスには言いたいことがあ

る」、と言いました。その人は大学教授でした。フランス語で高等教育を受けたから教

授になった彼が一晩切々と国際列車内で語りました。

 

ロンドンの下町でも同じことがありました。街で出会った英語を話すハイチ人亡命者の

若者たちが、自分たちを受け入れてくれたイギリス社会について、感謝の気持ちととも

に、とても異和感を感じると語っていました。同じようなことが日本でもありました。

私はこのキャバレーの朝鮮人のオーナーからずいぶん学んだのですが、当時はまだフィ

リピンからの女の子が日本にやって来る前の時代でしたから、当時キャバレーで一緒に

働いていた女の子たちは沖縄から来ていました。沖縄の女の子たちが日本「本土」に対

してどう考えているのかも、学ぶことができました。

 ここで私は宗旨変えをしました。医者というのはどうも鼻が高くて嫌な連中だ、と思

っていたし今も、私を含め医者の世界は狭くて、なかなか世間のことがわからないと思

っています。しかし学歴と全然関係のないところで生活をしているさまざまな人と出会

った時、どのようなことを彼らにしてさしあげられるか、役に立つことができるか、「

人間として人間の世話をすること」に寄与できるのだろうかと考えました。そして医者

になることは民衆の中でくらすときの取っかかりになるのではないかと考え直し、医学

部に入学し直しました。

 私が無医村で働く医者になろうというイメージを固めたのは医学生の時です。ここに

出席してくれているバブさん(スマナ・バルア医師)と、医学生どうしとしてフィリピ

ンのレイテ島で出会ったことがきっかけでした。フィリピンでもレイテ、サマール両島

は最も貧しい地域として知られています。こうした地域からは人材が都市や海外に流出

してしまうものです。これに悩んだフィリピン政府が、バブさんの医学校を設立しまし

た。バブさんは看護士でもあり、保健士、助産士としても200人以上の子どもを地域

でとりあげる活動もしています。同じ医学生として私は、当時全然人々の役に立つこと

ができない、ただ見ているだけでした。もっと学びたいと思っていろいろたずねてみた

ところ、バングラデシュ人のバブさんが学んでいるこのフィリピン大学医学部のレイテ

校は、日本の佐久病院の若月俊一院長(当時)のアイデアがフィリピンで結実したもの

だ、ということがわかりました。そこに私がたまたま出会って、日本の佐久病院を再発

見することになったのでした。

 日本で医者をやるのなら、この医学校の兄弟分の佐久病院で修行するのががいい、と

バブさんに勧められて、今は山の村で診療所長をしています。そうすると、これまで趣

味としてやってきた歴史、人の生き方、文化や言語、あるいは世間というものを知りた

いという自分の思いが、自然科学としての医学とすーっと一緒になってきて、目の前で

展開されるような気持ちになりました。もちろん、基盤に医療技術がないと困るのです

が、日々厳密なことが必要とされているわけではなく、高度技術が必要なときは佐久病

院という後方病院に転送すればよい。その見極めが遅れないことが大事なのです。それ

よりも、私が村の歴史や生活文化、生きている村人の人となりに関心を持っていること

の方が大事なのではないか、と思っています。

 こちらが関心をもてばもつほど村の人は歓迎してくれる(ように見える)。そうする

と私もこのおじいさん、おばあさんがどんな人なのかをもっと知りたくなる。人と人、

人間と人間という関係性を楽しめるようになってくる。そうするとお年寄りが癌の末期

になって熱を出した時、入院させてあえて延命せず、この人はここで看取っていい、と

いう妙な自信さえ生まれてきます。不遜なことですけれど、自分が生きるということを、

つまり逆に言えば死ぬことをこの人がどう考えているのかが少しずつわかってきたよ

うに感じられてはじめて、私がここで看取ってあげたい、私が最後まで見てあげる必要

がある、病院に送っていたずらに生き延ばす必要はない、と感じるとれるようになりま

した。

 現在の南相木(みなみあいき)村診療所に初代所長として赴任する前、野辺山のへき

地診療所の所長をやっていました。私が最初にこのおばあさんと出会ったのは病院の病

室でした。病室の白い壁に向かって喋らないでいる、惚けてしまったおばあさんでした。

単なる情報として、村の最高齢のおばあさんだとは知っていましたが、それ以上の印

象は残りませんでした。彼女がムラに帰ってから何度か往診をしました。ベッドの上の

壁にいろいろな賞状や、孫の習字がはってある中に、彼女の米寿の祝いの時の写真があ

りました。赤いちゃんちゃんこを着た彼女の周りに百人以上の人が写っています。子ど

もを12人生み、孫からひ孫、その子までいれて、100人以上の一族の長に君臨する「つ

る代さん」です。写真の中には私の知っている顔がたくさんありました。けれども、彼

らがつる代さんの子や孫やとは知りませんでした。村の医者として、このつる代さんの

ことで何か失敗したりすると、うわさはすぐ広がって、村で医者としてやっていけなく

なると思いました(笑)。99歳のつる代さんとはお話しができませんでしたけれど、子

どもや孫たちが語るつる代さんの人となりを通じて、今も私の「心のカルテ」に残って

いる方です。

 みんな長生きしていただきたいですけれど、人間はいつまでも生きられるものではあ

りません。どう看取られるのか、を自分で選択できるかどうか。それはきびしいもので

すが、自分自身がどう生きるのかを考えることは、どう死ぬかを考えることでもありま

す。村のお年寄りたちが都市の高齢者とどう違うのか。それは「死に方の作法」をご存

知であるということでしょうか。自分もおじいさん、おばあさんをこのように看取って

きた。自分もまたこのように看取られたい。美学のような「死に方の作法」があるとこ

ろに、私は非常に感銘を受けました。都会の病院で修行している頃には、患者さんが救

急車でやってきて治療にとりくむ。その場限りのプロとしての医者と患者の関わりでし

た。そうでない関係、つまり英語のカルテではなく、心のカルテに残る人々と出会えた

のは、村に来ての発見です。 私が10年前に大学を卒業して、佐久病院に勤めたころの

こと。当時、長野県では冬季オリンピックが開かれるということが決まり、日本全国の

バブルはもう崩壊していましたが、長野県だけでは例外的な投資が続いて、活発な経済

活動が近年まで続いていました。トータル1兆7,000億円の投資が行われて、高速道路

や新幹線が工事中でした。

 これらの工事では人里離れた山の中でトンネル工事などが行われ、労働者として日本

人単身者の他に中国人やバングラデシュ人などいろいろな国籍の男性労働者が単身で働

いていました。彼らは「飯場(はんば)」といわれるところで寝泊まりしていました。

その周辺にはスナックがあり、女性が働いていました。当然のことながら病気やけがを

することがありますが、医者にかかったり、生活の相談をしたりするところがあまりあ

りません。このことがわかってきたので、私は彼らのための日本語学校をつくることか

らはじめて、彼らの「医職住」についての日常の生活相談活動を始めました。

 人は結婚したり、子育てをしたり、日常の生活を営みます。そうすると病気になった

り、流産したり、あるいは交通事故にあったり、喧嘩をしたりします。あるいは言葉が

通じない夫婦の間で子育てをすることもあります。そうしたいろいろな場面で、何かあ

るたびに私は呼ばれ、相談相手になりました。

 英語がしゃべれて、スペイン語も多少できる医者がいるということでいろいろな依頼

がありました。ときには海外からもありました。フィリピンのマニラから電話がかかっ

てくることがありましたし、南米のペルーからかかってきたこともありました。“私の

甥が札幌で肺炎で入院したのだが、どうしたらいいか”という相談があったときには、

札幌の知り合いのドクターの電話番号を教えました。またマニラから“子どもが白血病

と診断されたが、どうしたらいいか”と聞いてきましたので、マニラに私の友人がいる

から相談しなさい、と答えました。

 そしてマニラやバンコクの私の友人が女性ケースワーカーとして日本にやってきてく

れました。私が診療している地域で結婚している女性やスナックで働いている女性に母

国語で電話をして、さまざまな悩みを聞き、相談にのるなどの活動をしました。それに

よって結果的にタイ政府から表彰を受けたこともあり、招かれてバンコクの大学で講演

をしたこともありました。

 私たち日本の若い世代が新人類だとすれば、山の村のお年寄りたちは日本原住民族で

す。先住民かもしれません。私たち新人類は豊かなことが当たり前の時代に育っていま

す。ですから、アジアや南米から日本に働きにきている外国人たちの心のあやはわかり

ません。戦前、日本人が旧満州や南の島々に渡りました。その時代の人々はテレビドラ

マの「おしん」そのままにひもじさを知っていたし、自分自身アジア人だと思っていま

した。

 私の場合は都会に育って、自分がアジア人だと思わなくなっていて、ヨーロッパに行

って“黒い目ですね”と言われて、はじめて自分はアジア人なんだ、と思ったのです。

そしてアジア人がヨーロッパの言葉を勉強しないと、その体制の中で生き残れないとい

う現実の中で例えば英語の勉強をしている。いま日本に来ている外国人労働者や女性の

気持ちは、戦前の日本人の感覚に似ている部分があるのではないかと思っています。

 健康保険もない、国家の保護もない、あるいは独力で国境を歩いて越えて逃げ出して

きた、そのような人々が、日本人がかつてそうであったような保護がないところで、ど

のように生き残っていくのか。日本国内で、日本人には見えないアンダーグラウンドな

しぼり合いになっていることがありました。人身売買がおこったり、あるいは結核にな

った人が捨てられ、エイズを発症した人がタライ回しになっていました。私は単なる臨

床医ですけれども、そういった社会の現実にも取り組む必要があると考えてやってきま

した。このことでタイやフィリピンの政府から感謝をうけたことがあります。

 日本は敗戦ですべてをご破算にしたあと、50数年でここまで復興しました。ムラムラ

から都会に人々が集まって、ここまで復興しました。頑張って働けばなんとかなる、競

争して勝ち抜けばどうにかなる、と勤勉に働いて富と地位を得ることが戦後の目標でし

た。私もそのような雰囲気の中で育ちました。でも、ムラの原住民族はそうではなく、

いまもゆったりとしたリズムの中にいます。そしてアジアの人々ももともとはそうでし

た。このような人たちが急速に貨幣経済に巻き込まれてタイの農村からバンコクへ、バ

ンコクから日本へと出稼ぎにやって来ています。そうした流れの最末端のところで、私

は医師として彼らに出会うことになったわけです。

 勤勉に働いて富と地位を得ることが人としての使命である、ということは、すばらし

いことです。これはアメリカ的な感覚でもあるとも聞いています。私はアメリカ合衆国

に行ったことがないのですが、アメリカ人の友人は多いので、そのように理解していま

す。しかし、これが行き過ぎてその結果、すべてがお金で仕切られる社会になってしま

いました。戦前の日本人が移民した海外で、あるいは旧満州の開拓団で人々が味わった、

ひもじさや苦労と同じ苦労を、いま日本に来ている外国人が味わっています。そうは

言っても、これはなかなか伝わりにくいことです。世代間が断絶していますし、歴史の

勉強をしても、その時代のひもじさや苦労を具体的に感じることにではなく、年号の数

字の暗記ばかりに時間を費やしているからです。

 タイの人々は敬虔な仏教徒です。タイ人の黄色い衣を着たお坊さんが水辺を歩いてい

る。周囲は緑一色で、人工のものはなにもない。そのタイの農村風景の中から娘たちは

日本に来ました。ですから、医者にかかるといっても、かかり方を知りません。来た当

初は日本語もわかりません。健康保険という制度も知らないし、労災ということばも知

らない。警察についてはタイでのイメージしかありませんから、保護を求めるところで

はないと思っています。カトリック教徒のフィリピン人やボリビア人たちは日本にもあ

るカトリック教会をたずね、神父様に頼ることができますが、タイ人は寄る辺が全くあ

りませんでした。或るタイの女性がエイズを発症して亡くなるとき、“タイのお坊さん

にお会いしたい、お会いできないのが残念です”と言い残しました。このことをきっか

けにして、私は友人のタイのお坊さんに来日していただくことにしました。

 佐久病院から長野市の善光寺まで1週間かけて歩いていく黄衣のお坊さんたち、その

後ろにお弟子さんたちが荷物を持って従います。タイ人たちはそれを拝んでいます。そ

の姿は日本の中世の風景です。親鸞や日蓮が民衆に布教して歩いていた鎌倉時代でしょ

うか。日本仏教が取り組まなくなって久しい、生きている人々への「魂のケア」に取り

組む風景です。今も生きている人間のケアにとりくんでいる南方仏教の世界を目の前で

展開していただきました。

 タイの僧侶はブッダの時代2,500年前から続く、227におよぶ厳しい戒律を守っている

聖職者です。私ども医師は身体的な部分の医療ケアをほどこすことはできますが、精神

的な部分のケアまでは手が届きません。彼らなりのタイの村での育ち方(学びによる死

生観)によってしか彼らの魂は救われないのです。エイズを発症して死を目前にするに

あたり、日本人はなぜ受容しきれないでいるのか。タイ人が死を受容し得たようにみえ

ているのは、何故なのか。そのときお坊さんの存在や力量がタイ人には、どうして強く

働くのか。このことは私にとって発見でしたし、学びの機会でもありました。

 日本では死後に登場するお坊さん。死に際しても治療しつづける医師、両者の間は全

く分断されています。死にのぞんで、だれにも自分の遺言を伝えることができないし、

また自分がどのような思いでいるのかということを語ることもできません。タイのお坊

さんは祭壇や死者の方に向かって読経はしません。生きている人々の方に向かって語り

かけます。

生きている人々のために魂のケアに取り組む宗教が南方仏教です。

 タイの農村では何もないところに寺がポツンとあります。カンボジアでもそうです。

アンコールワットで、遺跡の方を向いて美術品がすばらしいと言うのはフランス人と日

本人です。タイ人やカンボジア人の農民は、粗末な寺で修行するお坊さんの姿の向こう

に2,500年前のブッダの姿を見て拝んでいます。そして彼らにとってはお坊さんこそが

生きる拠り所、善悪の基準の要になっています。お坊さんをもってしか、善悪の判断に

ついてきちっとつなぎとめることはできません。日本にタイのお坊さんがおいでになら

ないということが、タイ人どうしが自己撞着の中でしぼり合いになっていることの原因

であると気づきましたので、タイのお坊さんに来ていただくことにしたわけです。

 タイとビルマの国境線で難民の治療にあたったことがあります。たった1本の小さな

川をはさんで、むこう側とこちら側はずいぶん違います。同じ民族、カレン民族の住む

土地でありながら、タイとビルマという違う国になってしまっています。むこうのビル

マ側に見えている山は内戦の戦場です。対人地雷が敷設され、足を飛ばされた子どもが

こちら側の診療所に運ばれて来ます。できるだけ膝関節を残して、膝の下で切断手術を

したいのです。しかし、抗生物質はありません。麻酔もありません。したがって不十分

な切断手術では、化膿してやり直しになってしまい、結局膝関節の上で切り落とすこと

になりました。また子どもの好きなおもちゃのような形をした別のタイプの地雷では手

を吹き飛ばされ、目をやられます。外科医のほかに眼科医も必要になるのですが、難民

キャンプに眼科医はいません。このように悲惨な眼外傷のときは私のような内科医はあ

まり役に立ちません。とてもつらい、いたたまれない体験でした。

 

そこはもともと、のどかな農村で平和な百姓の世界だったのです。何が百姓たちの生活

をねじれたものにしてしまったのか、ということを私は考えなければなりませんでした。

英国がビルマを植民地にしてタイを圧迫し、現在の小さな川が国境になっています。

それとともに日本の信州の多くの人々が、なぜ満州に渡らなければならなかったのか。

なぜ引き揚げのときに多くの人が死ぬことになったのか。若い頃難民となっての経験を

した私の村の患者さんたちから、私は日々聞き取ることをつづけています。 “風のひ

と”と“土のひと”という表現をあわせると、“風土”という言葉になります。風と土

のちがい、これはドキュメンタリーフィルムとコマーシャルフィルムの違いかもしれま

せん。古いドキュメンタリーフィルムはモノクロで、なかなか声が出てこないでしょう。

ちょっとした渋さが特徴です。コマーシャルフィルムであればすごくきれいな映像で

パッと目を引きます。私たちはどちらに引かれているのでしょう。私の場合は元来が“

風のひと”ですからコマーシャルフィルムです。でも、最近はちょっとドキュメンタリ

ーの感覚、魅力もわかるようになってきたかなと感じています。それは若月先生に教え

られたことかもしれません。「百姓に演説しても通じない。百姓の前では演説ではなく

劇をやれ」という宮沢賢治の教えが若月先生の口から私に伝わっています。

 文明と文化のちがいとは何でしょう。文明は便利さと快適さ、そしてスピードを追い

求めます。文化は、もしかしたら、不便な中にしか生き続けられないものなのかもしれ

ません。不便さの中で工夫を重ねるうちに文化は育まれるのだと思います。まさにムラ

の中に生きるための知恵や技としての文化が満ち満ちていた日々がありました。そして

今数百年を経た自然村としての山のムラ「相木郷」が私の目の前で崩れていく、高齢化

と過疎化の中で消えていく。その中のすばらしい部分だけでも日本の若者に伝えたいも

のだと考えて、村の仲間とこの活動にとりくんでいます。

 何年か前、勤め先の病院を変えたとき2ヶ月間の休みをとりました。妻と2歳の息子

と一緒に家族でバングラデシュのバブさんの家に遊びに行ってきました。バブさんの実

家では1500人ほどの孤児院を運営しています。息子は孤児院のお姉さんたちに遊んでも

らい、妻はバングラデシュの料理を教えてもらいました。新しい出会いが生まれた家族

旅行でした。このときは韓国から船で中国へ行き、中国の友人の医師らを訪ねながら南

下して、タイのチェンライに行き、そのあとバングラデシュへ向い、インドネシアに寄

って帰ってきました。

 どこへ行っても、私にお世話になったと思ってくれている外国人労働者や女性たちの

家族がいます。その中の一人が象使いを紹介してくれて、家族で象に乗せてもらいまし

た。2歳の息子は日本語の「ぞう」という言葉を知りませんでしたから、タイ語のチャ

ンという言葉を先に覚えました。彼にとって象は乗りものです。楽しい、大きな乗りも

のです。彼は日本に帰ってきて、そのことを友達に言いましたが、通じませんでした。

日本の子どもたちにとって、象はテレビや写真でしか見ることがなく、頭の中にしかあ

りません。

 それぞれの文化背景が異なっていることを、豊かに、さまざまに経験できるほうが教

育としてはおもしろいのだと思います。しかし日本の教育では、象というのは見るもの

であって乗りものではないとして、息子の言っていることは理解されず、うそつきとし

て否定されかねない危険性があるようです。多様な感じ方を大事にしていく方が豊かな

のだと思うのですが。

 飽食の時代と言われています。毎日の食卓がまるでお正月のようです。世界各地を見

て歩いてみますと、たしかにこの日本はひもじさを忘れています。年配の方々はひもじ

さをよく御存知でした。だからこそ日本もここまで発展してきました。けれど、私たち

若い世代は苦労がなく根っこがありません。ひもじさを望んでいるわけでは決してあり

ませんが、忘れてしまっていいとは考えません。

 また日本の社会には「カキクケコ」の「カキク」はあるけれど「コ」はないといって

よいと思います。「カ」は金であり、「キ」は機械、「ク」は車です。金と機械と車、

これは戦後の日本の大きな成功です。すばらしいものです。

 でも、最後の「コ」の部分、こころざしの部分、こころいきの部分がやせ細ってきて

いるようです。都会で何かが難しくなっているから、若者たちが私のような変わり者の

医者を訪ねて山の中までやって来るのかなと思っています。私は親不孝をしながら、い

ろいろ道に迷って友人たちに出会い、いろいろぶつかりながら、さまざまな方にお世話

になりました。今もなにか迷ったような生活をしています。けれども、こんな生き方に

意義を見いだしてくれるような日本になってきていることは、また困ったことでもある

のです。

 もしかしたら、私が20年前に悩んで世界を放浪した時のように日本の若者も悩んで

いるのかもしれません。そして日本のムラでお年寄りから苦労話をお聞きするという保

健医療面でのボランティア活動が、或る部分そのまま海外での医療や福祉の活動につな

がるのではないか、という私の感覚が日本の若者に伝わってほしいものだと思います。

 30年ほど前に日本のムラに起こった賃労働と機械化という大変動。お金が入ってきて、

いままでムラになかった現金がある。機械化によって腰の骨の曲がるような苦しい農

作業をしなくともよくなる。車があるから、若者に頼んで医者を呼びに走って行っても

らうこともなくなる。とてもいい時代になりました。しかし、こうした便利さと引き換

えにムラは自身のアイデンティティーを失ってきました。それが私の危機感です。

 村に最初に電灯がともったときの感動を、村人は昨日のことのように話します。また

最初の電灯をともした頃の電力会社の職員は、自分の職務とやり甲斐とがまさに一致し

ていたと思います。すべての家に何年もかかるが電気を普及させていく、それはそれは

やり甲斐のある仕事だったと思います。しかし、組織がだんだん大きくなると、個人の

思いと会社の論理はずれてきました。戦後五十数年かけて大きくなり出来上がった組織

にあっても、はじめの頃の電力会社職員の感じた「やり甲斐」のような“こころざし”

の部分を忘れないでおいて欲しいものだと思います。

 日々の外来診療でもそうなのですが、往診のときなど、人と向き合うことの醍醐味と

いうか、人間の深さについて患者さん方から学ぶところが大きいのです。しかし残念な

ことにこうした落語にある長屋の人間関係のような人情味が消えていこうとしています。

このような人情をお伝えすることを含め、私はさまざまなことにとりくんでおります

が、そのことについて人前で話したいからでも、お金や名誉のためでもありません。た

だただムラの魅力について是非皆さんにも知っていただきたいと望んでいるのです。

 人間として人間の世話をしておりますと、さまざまな楽しい出会いが生まれます。ビ

ルマやタイに行っても、また他の国に行っても、“あなたにお世話になった”、“弟が

お世話になりました”という人々に、今度は私たち家族がお世話になりました。日本語

でいう「おたがいさま」の感覚がありました。それは人種や性別、年齢を越え、国籍を

こえたつながりになって今に至ります。

 

人間は弱いものです。本当に悩んだとき、苦しいとき、壁にぶつかった時、だれに相談

したらいいのでしょう。打ち明けられる友人が何人いるか、でその人の人生の明るさが

決まってくるのではないかと思います。医師がその任に当たることができれば、と思い

ますが、なかなか難しいものです。若い私たちが年配の方々の人生の重みを受けとめる

のはとても難事です。

 

 自分が心弱くなったときに相談にのってほしいなあと思う人は何人いるでしょうか。

そういう10人のことをゆったり心に想いうかべてみましょう。そして彼らの名前を年に

1回、書き綴ってみましょう。「彼ら十人」こそがあなた自身を反映していることにな

るのです。毎年毎年その10人のリストは少しずつ変化していくでしょう。それはあなた

自身の変化の反映です。10人の中に村の人が何人も入ってくるような日々を送ること、

それが私の人生の課題となります。

 

農村の医師として言うなら、英語のカルテではなく、「心のカルテ」に残る患者さんが

どれだけおいでになるか。もう二度とお会いできない、時には私が死亡診断書を書く巡

り合わせになった患者さん。忘れられないそういう人が何人いるか、が私の自分自身へ

の評価の基準です。それは医師と患者という関係をこえて、つまりお上(権威)やお金

とかかわりなく、人々と話をしているかということを反映しているのですから、常に自

戒しております。

 都会は、なにがしかのプロにならないと生きていけない空間です。そこで生きていく

ために、若者はたくさんある職業の中から一つを選択しなければなりません。だれでも、

なんでもできるようですが、実際には目移りしてしまいます。昔のムラでは職業を選

ぶことはほとんどできませんでした。自分にはこれしかない、と思って百姓をやり、炭

焼きをやりました。次第にそれにのめり込んでいって、技を身につけて名人にもなった

のです。それは「不自由の中の自由」でありました。ところがいまは多様な選択肢の中

で迷ってしまいます。選んでも、ちょっと苦しくなると我慢がつづかない。そして目移

りしてしまう。私もそうでした。自分のアイデンティティーをたくさんの中から選べる

ということで、自由なようでいて、実は不自由になっているようです。

 そうした豊かな日本での若者の悩みを、ムラを知り、日本のムラとアジアのムラを往

復することで乗り越えていけるのではないか。つまり、「いまここ」を医師の原点とし

て大事にしつつ、それを乗り越えるためにどうしたらよいのか、ということを考えて今

に至っております。

 この席にバブさんもお出でになっていますので、バブさんにもひと言。(バブさん)

 私は色平さんより年上です。1955年生まれで44歳です。私が医者になったのは、近所

のおばさんがお産で亡くなったのを目の前にしたからです。わたしは12歳でした。この

時の経験から必ず医者になろうと心に決めたんです。

 私は23年前に最初に日本に来ました。色平さんとひとつ似ているのは彼も私もたくさ

ん苦労したことです。牧場で働いたし、レストランで皿洗いをしました。トラックの運

転手の生きかたを知るために、東京から下関まで4回往復しました。彼らの話を聞いて、

すごくいい勉強になりました。また魚がとてもおいしかったので、北海道ではどうや

って魚を捕っているのか、それを体験したくなった。友達の友達のお父さんが漁船に乗

っているということをきいて、2月の終わり頃、北海道の海で魚を捕る手伝いをしまし

た。

 旅をしながら、経験をしながら、自分で自分の道を見つけることが大切です。色平さ

んはそういう旅の途中、フィリピンのレイテ島に来たときに私と出会いました。私はそ

のとき、“はだしの医者”のような保健婦の活動をしていて、若い医学生たちと一緒に

仕事をしていましたので、彼を連れて村々を歩き回りました。手袋もなく、素手で多く

の赤ちゃんをとりあげました。「現場のこういう仕事こそしたかったんだ」と彼に言わ

れて、いろいろ相談をうけました。いまもそういう仕事を続けています。

 これまで数えきれない多くの日本人と出会いお世話になりました。若月先生とも1981

年にはじめてお会いし、その後もたびたびお話して学ばせていただいております。

 いまの若者は自分の足元を知りません。おじいさん、おばあさんが苦労しておとうさ

んやおかあさんを育てました。そして自分は豊かな日本に生まれてきました。その若い

人たちに自分を見つける旅をしてもらいたい、と思っています。

 私は留学生として日本に来ていますが、毎月、何万円も国際電話料金に支払っていま

す。日本の学生たちに旅をしてもらうために、フィリピンやタイに電話をして、いつい

つ2人行きますからよろしくとか、市長さんの家に是非ホームスティをお願いしたいと

か、あるいは学生が元気でいるか、様子を聞くとか、そんなことにとりくんでいます。

 日本社会は今スピードを出しすぎておかしくなっているのではないでしょうか。お世

話になった日本の皆さんに言葉でお礼を申し上げるだけでなく、若い学生さん方にいろ

いろ自分の体験を申し上げることを通じて、お礼の気持ちがいつか廻って届くのではな

いか。そういう感謝の気持ちで日々とりくんでおります。

(色平) バブさんと出会ったおかげで私の人生は変わりました。こういう友人をたく

さん持てることが、豊かになった日本のすばらしいところだと思います。就職する前の

学生としての自由な立場であらちこちらを放浪して歩き、世間の広さを知って、さまざ

まな方にお世話になること。このことこそ、日本の若者には必要だと思います。

 年配の方々は50数年前この東京が焼け野原だったときに、どういう思いで仕事を始め

たのか、そしてたしかな手応えの中で日本経済の成長をご覧になってきたと思います。

しかし、私たちは何をもってやり甲斐、生きがいとしたらいいのかと悩むほど、今の中

国やアジア諸国の若者とは違い、目標を失っている世代だと思います。

 最後に1冊の本について御紹介申し上げます。

 英語の本です。「Where There Is No Doctor」(医者のいないところで)、日本語に

は訳されていませんが、世界の80数ヶ国語に訳されています。グーテンベルク以来、世

界で印刷された本で一番多いのは聖書でしょう。その次のベストセラーがこの本です。

この本が日本語に訳されず、日本の医師のほとんどが存在すら知らないということは、

日本の医療が恵まれすぎていて、世界の医療から随分とかけ離れたものになっていると

いうことを意味しています。

 デービッド・ワーナーというアメリカ人生物学者がメキシコ西部の山の中の村を訪ね、

そして書き上げたスペイン語の本がもとになっています。これはそれを英語に戻した

ものです。生きた英語の勉強に最適だと思いますよ。

 日本と北アメリカの一部、西ヨーロッバの一部を除いて、地球上のほとんどの地域に

医者はいません。医者がいない環境の中でも、文字を読めないお母さん方でも、きちん

と使え役に立つように著者自身がイラストをたくさん描いています。このようにすれば

安全に出産ができます、このようにすれば骨折の治療ができます、あるいはこのような

薬の使い方はいけませんとか、こと細かに書いてあります。

 この本の日本語訳がないということは、日本が医療に恵まれているからです。日本は

国民皆保険です。病院が各地にあって開業医がある程度どこにでもいて、車が普及して

いますから、保険証があればだれでもどこででも治療を受けることができます。すばら

しい制度ですね。世界180ヶ国の中でこんなずば抜けた制度をもった国はほとんどあり

ません。

 佐久病院はいまから50数年前に設立され、農民のための医療を農民とともにとりくみ

始めました。この頃の農民は普段ほとんど現金を持っていませんでした。病院職員が盆、

暮れの節季には治療費の集金に回りますが、結局子どもにアメ玉をやって請求書を出

せないまま帰ってくることがたびたびだった、と退職した事務職員におききしたことが

あります。当時農民には保険がなかったのです。佐久病院では、国民皆保険制度がぜひ

とも必要だ、という声をあげたとも聞いています。

 

来年春からいよいよ介護保険制度が導入されます。「保険あって介護なし」、にならな

いようにムラの診療所長としてとりくんで参りたいと思っています。また恵まれ過ぎて

いるが故に見えなくなっていることがらについて、若者とともにムラで取り組んでいき

たいと思っています。

 

 

 参考文献

1)岩波新書 「ひとびとのアジア」   中村尚司

2)新評論  「いのち・開発・NGO」 ディビッド・ワーナー

        PHC(プライマリー・ヘルス・ケア)の世界的な教科書

3)岩波書店 「貧困と飢饉」      アマルティア・セン

4)岩波文庫 「民俗学の旅」      宮本常一   

 

 

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