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都市での老いとムラでの老い、

その人がその人であり続けるために

 

長野県南佐久郡南相木村診療所長 色平哲郎(いろひらてつろう)

 

遠い記憶

 

信州の山の村に家族5人でくらしながら、ムラの医療にとりくんでいる。国道も鉄道も

ない人口1300人の南相木(みなみあいき)村。65歳以上の人口が全体の33.8

パーセントをしめる、農業と林業のムラである。しかし林業に明日はなく、農業の前途

には後継者難がある。臨床医として毎日、外来診療と往診、当直と現場の医療にとりく

んでいる。

 

「交通弱者」である高齢者世帯や独居老人の家には車がない。そこで休日や夜間も、こ

ちらから出向いての対応が求められる。このムラは一昨年春私が初代の診療所長として

赴任するまで、長く無医村だったところだ。

診療の合間に、ご老人方の口から語られるのは「遠い記憶」である。足ることを知り、

隣近所が支えあったくらしぶり。助け合うしかなかった時代、といえよう。天保の飢饉

で、村内の餓死者120余人。明治30年7月の赤痢流行では、罹患者250余人中病

死者40数人。飢えと感染症流行の生々しい記憶が、つい身近にあった。

 

村営の診療所にはポツンポツンと「お客」が来る。お客のほとんどが村のご老人である

。待合室にはずいぶん腰の曲がった高齢の方が目立つが、元気ではつらつとした表情の

老人が多いことに驚かされる 。冗舌な方はあまりいない。基幹産業である農業を現役

として担っている方が多いので、自分に自信があるのだろう。簡単には弱音を吐かない

、「野生の」老人たちだ。

 

そんな患者さんたちとつきあっていると、都市とムラとではずいぶん違うものだと感じ

た。たとえば「痛み」について、、、都会では十の痛みを百通りの言葉で表現する方が

多いのだが、こちらムラでは十の痛みは一ぐらいにしか訴えていただけない。重大な病

気を見落とさないためには、ちょっとしたしぐさや訴えに注意することが重要となる。

患者さんの表情や、言葉になる以前の表現を読み取ろうとして、日々努力することにな

った。

 

沈黙の証言

 

日々の外来診療で、「沈黙の証言」に耳をかたむける瞬間がある。年配の患者さんの変

形した膝や腰の骨に刻まれた、歴史と時代の証言である。関節に水がたまった彼女たち

の背中とおしりをさすりながら耳をそばだてる。すると、つぶれた背骨とすりへった軟

骨がひとしきり語りかけてくる。機械にたよることのできなかった時代、牛馬とともに

あった村での生活ぶり。隣近所で助けあうより他なかった農作業、「結い」とよばれる

恊働作業のありようを想像することになった。かつて米のとれない、養蚕と炭焼き以外

にはほとんど現金収入のなかったムラ、すべて手作業の時代であった。バスや自動車は

もちろん、ガスも電気もない。後にアジア諸国から「おしん」の時代の日本、とのイメ

ージで語られるようになった生活のありようである。

 

往診の際の、ちょっとしたすきまの時間。一人ひとりの人生の、記憶の一瞬が輝いた肉

声で語られる。兵隊に行った時の苦労話。「国費の海外旅行」でなぐられ続けたこと。

「肉弾」となって死んだ戦友の想い出。ビルマ戦線の二百人の部隊で戦病死六十人。本

当の戦死は二人で、あとは栄養失調で死んでいったこと。

このような戦場での苦労話は、先ずそのまま聞きとっておく。学生時代、私は中国やフ

ィリピンにも足を伸ばした。戦場とされた海外の民衆からも同じように聞きとった体験

がある。「ものがたり」は一旦そのままを聞き取ったうえで、多角的構造物として再構

成していく。

 

山の峠を越えてお嫁に来た時の驚き。長持をたずさえて生家から馬に乗り、そう簡単に

戻ることの難しい村境をヨメとして越えた想い出。「新宅」とよばれる分家のヨメとし

て、本家筋にいびられ続けたこと。村内の親戚筋には語るに語れない思い。「あの姉さ

んには、泣かされた。」村外者の医者相手には、話しやすいのだろうか。つらかった記

憶は、村内ではうちあける相手を見出だすのが難しいのかもしれない。

 

百十余年前の秩父困民党の蜂起と、村をふたつに割った酒屋、庄屋への「うちこわし」

の喚声。その後の官憲の追及と弾圧。「口減らし」で子守り奉公に出された想い出。子

守りに出されて小学校には三日しか行けず、中退したこと。幼い女工として親からはな

されて集団で寄宿舎暮らしをした「籠の鳥」の生活。しかし寄宿舎では、文字の読み書

きを習うことができた。戦前の紡績工場でストライキが闘われたこと。読み書きを教え

てくれた姉さんが、争議のリーダーとして解雇追放された。

薪炭を村から汽車で出荷していた先、上野駅の傍の問屋で、住みこみで丁稚修行をして

得意先廻りをしたこと。東京市の神楽坂、帝大の文学博士の家に女中奉公に出されてい

て、ラジオで聞いた戒厳令布告。雪の「二・二六事件」だった。

 

山村の分校と子どもたち

 

今はなき、こどもたちの歓声絶えることなかった山の村の分教場。トロッコに乗って、

かくれて遊んだ森林鉄道の軌道跡。今朽ち果てた鳥居ばかりの残る最奥の部落で、盛大

な神社の祭礼がなされたこと。

大正12年、関東大震災で被災し、歩いて信州に逃れてきた峠越えの一団。村の消防団

が峠で彼らを遮って迎え、竹槍をかまえて「五十五円、五十五銭。」と発声を強いる。

濁音が発音できない者は、「井戸に毒を入れて歩く朝鮮人」である!

 

ムラの有為の青年たちを、数次の帝国主義戦争の戦場に送り出した、村境の「別れの松

」。この松の樹下には、赤ん坊を背負い子どもの手を引いた女性が、出征する兵士とな

った夫を見送る立像がひとつ。空襲下の東京から焼け出され逃れてきた、痩せた「縁故

疎開」の一群の家族。生活基盤と農業経験のない彼らの、ムラでの肩身の狭い想い。ひ

もじさの時代であった。

 

戦後の村を大混乱におとしいれた、農地解放をはじめとする戦後改革の大波。没落する

地主層、正義感あふれる青年団の活動。日本共産党による「山村工作隊」が歌った革命

歌と農民運動の高揚。しんぼうにしんぼうを重ねた彼や彼女のからだに刻まれた時代の

うねり。これらの痕跡を日々感じ取り、聞き届けるのが私のムラ医者としての仕事にな

った。

 

ものがたる彼女

 

自分の娘の顔を見ても、誰だかわからなくなってしまった年老いた女性。嫁いで六十年

にもなる嫁ぎ先の家の間取りをすっかり忘れてしまっている。トイレの場所が分からな

いので、もらしてしまう。まるで子どもにもどってしまっていて、「ごちそうになりや

した。」と言う。食事が終わると、自分の生まれた隣村の生家に歩いて帰ろうとして、

帰り支度を始める。

 

「学問もねえからよくわからんだども、、、おまんま食って、、、いつでも食べたい時

に食べられる。こごとがなくて、家じゅうにけんかがなく、気楽だ。おこることもなく

、達者だ。家でよく寝て、あんどに暮らせる。」

、、、「幸せなんですね。」、、、

「あんまり幸せすぎて、いったいどういうことだ、と考えこんでしまう、、、」

 

南方フィリピンへ「出征」して、帰ってこなかったひとり息子。息子の名前は、告げら

れた老いた女性の意識を呼び覚ましていく。この家の仏壇には、レイテ島から届いた骨

の代わりの石ころが入った「骨壷」が安置されている。難聴で、惚けてしまっているは

ずの彼女が「ものがたり」はじめる。「事実」ではないのかもしれない、、、しかし「

銃後」と長かった戦後の彼女を支えた「真実」がほとばしるひとときである。「死んで

はいない。」彼女は半世紀たっても、惚けてしまっていても、骨になったはずの息子の

帰りを待ち続けているのだ。

 

百の能力を持つ百姓たち

 

ムラは自分たちのことは自分たちで取り組む以外にはない、と思い定めていたようだ。

大正7年以前、現在いうところのクニからの補助金制度はなかった。ムラは徴税され、

徴兵されていたが、クニからは指示がくるだけで、小学校の建物や道路は自前で自分た

ちで造っていくしかなかった。長く消防署がなく、消防車も救急車もなかった。したが

って自分たちの財産は自分で火災から守るしかなかった。自分たちの山や里、家々を守

ってくれているムラの消防団。この消防団の団長こそが、ムラ最高の名誉職である。時

に村長以上である。最高にカッコいい、男の中の男として受けとめられている。ムラの

ほとんどの若者が消防団の団員として不断の訓練を受け、いざことがあれば直ちに自発

的に出動し挺身することになる。

 

あらゆることができないと食えなかった時代。生き残るために、非常に多様な能力が必

要であった時代。ムラのご老人方はまさに百姓たる、百の知恵と技をお持ちである。田

をつくり、水を引き、炭を焼き、養蚕や、造林伐採などの山仕事から、子どもをとりあ

げ、家具をつくり、自分の家ぐらい自分で建ててしまう。秋には松茸山へ行き、冬には

猟をしていたから、野山の動植物に関してもほとんど知り尽くしている。都会からやっ

て来た私たちと比べて、実にアイデンティティがしっかりしている。つまり断固とした

根っこを持っておいでであることに気づかされるのである。美しいが標高が高く、大変

自然条件の厳しいこの村にくらして、私は自分の無力さと根っこの浅さを思い知らされ

る。お客さんつまり患者さんであるムラのご老人方から、世間の広さと世界の多様さを

日々学ばせていただいている。

 

苦労を苦労と(自分にも他人にも)感じさせず、必死に生き抜いて世紀末の現代日本を

迎えるに至った人々。首のうしろにザクリとえぐれた刀傷が残っていた女性がいた。フ

ィリピンのミンダナオ島ダバオからの引き揚げ体験を、ひとことだけ語っていただいた

ことがある。銃剣の傷というものをはじめて見た。詳細を問い直すことが、わたしには

どうしてもできなかった。

 

満洲の想い出

 

寝たきりで目の見えない高齢の女性がいた。すっかり呆けてしまっていて、うんちおし

っこが垂れ流しになる日があった。しっかりしていて、「昔語り」をする日もあった。

「満洲」からの引き揚げ者だった。御本人と、本人を介護する高齢の娘さんからポツリ

ポツリと伺う。「わしゃ、むかしもんだから、、、よくわからんだども、、、」と彼女

は語りはじめた。

 

分村して集団で満洲にむかう前、信州の山の村では電気も水道もない生活だったこと。

村内でも「電気のきていない部落!」と馬鹿にされていたこと。信じられないほど貧乏

で、海外で一か八かの運試しをしてみることになったこと。満洲の入植地での、考えら

れないほどに恵まれた生活。生まれてはじめて白米を食べる生活になった。はじめて自

分の土地というものを持てた!しかし何故か、既に開墾してあった土地に「入植した」

こと。主に山東省出身の中国人たちから武力でとりあげた開墾地を、日本人向けに提供

し直した土地であったこと。使用人として朝鮮人と中国人を使っていた。朝鮮人には米

で、中国人には麦で給料を払った。子どもたちの友達にも朝鮮人や中国人がいて、みん

な混じって各国語でしゃべって遊んだ。「紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る。」

 

ところが「王道楽土」「五族協和」の筈なのに何故か、列車や駅が次々に「馬賊」に襲

撃されたこと。身代金を求める拉致事件まで伝わってきて、恐ろしかった。周囲の中国

人がみんな「ひとさらい」に見え始めたこと。匪襲に対抗した日満軍警の英雄的「討匪

行」の報道。「満洲国」の治安対策として中国人部落には連座制が敷かれ、通匪者が出

ると全村に責任が転嫁され、検挙されるとの噂。「満蒙は日本の生命線。」

 

別の、引き揚げ体験をもつ女性。往診すると、自宅の神棚に写真がひとつ。三才で収容

所で死んだ末娘の写真。極東ソ連軍の侵攻で東安省千曲郷から山のなかを西へ逃げたと

。食料を善意の中国人に分けてもらい、夜だけ歩いて迷いながら満鉄線沿線にたどり着

いたこと。敗戦後ソ連軍に捕まってからの、収容所での長くて暗い危険な夜のはなし。

零下二十五度の冬、夜のうちに亡くなった人のからだが室内でたちまち凍ってしまう。

虱たちが周囲の暖かいほうへ逃げ出して来る。生きている人のからだへ乗り換えてくる

しらみたちのたてる、音にならない音。それはまた、「朝になれば死者から余分の衣類

がもらえるな。」ときこえる音でもあった。発疹チフスで、周囲の子どもたちがどんど

ん死んだこと。錦州から葫蘆島を経て日本に引き揚げたこと。ソ連侵攻直前に召集され

て、結局シベリアから帰ってこなかった夫を待ちながら、三人の息子を育てあげた、、

 

山に生かされた日々

 

苦しかったゆえにこそ助け合った「山に生かされた日々」をご老人方の語りを通じて追

体験させていただくことで、次第に「ものがたる」ご老人自身への尊敬の気持ちが心に

湧いてくるのを感じた。都会の病院医療とは全く異なる、ゆったりした時間の流れと、

ご当人のものがたり。これらに接することで、生きるということについて、ご当人がど

う考えているのかについて伺い知ることのできる、大変貴重な機会を得たことに気づか

された。

 

みんな長生きしてほしいけれど、人間はいつまでも生きられるわけではない。とすれば

、どう看取られるのか、このことは一人ひとりにとって重要なことである。ムラのご老

人方は「死に方の作法」を心得ているように見えた。すがすがしさを感じてしまうこと

さえある。もちろんこのような感慨は、医療者側の勝手な想いにすぎないものだ。しか

しこと入院にあたっては、身辺をキチンと整理して臨むムラの老人の生きる姿勢に感ず

るところがあった。

 

非常に魅力あるこの山の村。しかし700年続いたこの相木郷は、いま700年ぶりの

急速な変貌を遂げている。「百の能力」を持つ百姓が少なくなってきた!若者が「山に

生かされていた日々」のことに関心を抱かなくなった。若者がムラに残らない。残って

もヨメさんが来ない。来てもムラではなく、街場マチバでくらす方を好む。責めている

のではなく、むしろ当然のなりゆきでこうなっていく。賃労働と機械化の導入で、ムラ

の人間関係は急速に変貌した。

 

ご老人をひとりお見送りすることで、小さなムラは一冊の歴史の本を失ったかのように

変貌する。大きな図書館と違って、小さな図書室では一冊一冊の本の存在感が大きい。

「百の能力」が伝わらずに消えてしまった。もっと聞き取っておけばよかった、、あの

人ならこんな事態にどう対処し、どう助言してくれるだろう?現代社会の変化が激しく

、なかなかご老人の知恵が生きるという場面が少なくなったことは確かにそのとおりで

、残念なことだ。医師の私との出会いそのものが、なにかしらの病気やけが、痴呆症状

の出現等をきっかけにしてのことであった。私の仕事の一環としての在宅での看取りに

よって、或いは私が紹介した入院先でと、人は時間の経過とともに次第に記憶の中に引

っ越ししていってしまう。医師としての英語のカルテにではなく、「心のカルテ」に強

烈な或る心象を残して、去って行ってしまう。

 

私のムラには年間150人ほどの医学生、看護学生、社会人らが都会からやって来て合

宿をする。希望者は多く、全国からやってくる。どこでこのムラのことを聞きつけたの

だろう?リピーターも多い。卒業してからもやって来る。かれらには元気で活発な、野

生のご老人の姿をお伝えしたいものだ。山中の陋屋に二人でくらす老夫婦の生活。確か

にGNP換算すれば、マイナスになってしまうのだろう。いつもお金に換算しなくとも

よい。地域の中でどっしり根をおろし輝いている姿、そのカッコよさ、すさまじさ、パ

ワーをお伝えしたい。

 

風と土

 

「風のひと」としてこの村に移り住んだ外来者である私たち家族は、隣り人である「土

のひと」たちに日々大変お世話になっている。七百年の歴史をもつ自然村相木郷の包容

力に感動しつつ、進行する高齢化と過疎化の波に「ムラの自治」の将来を案ずる医師と

しての日常がある。

 

風に根はないが、種を散らすことができる。土は根をはって動けないが、文化を育むこ

とができる。風はとかく土を鈍重であるとバカにし、土はとかく風を根無しと笑う。し

かしこのようにお互いが悪口を言いあっている仲では、一緒になってムラの再生にとり

くむことができない。いいところを認め合ってお互いが大事だと思えるようになるには

、一体どうすればよいのか?

風の中にも土の要素がある。風は土になれないが、土の魅力を感じ、土から学ぶことが

ある。土の中にも風の要素があるだろう。土は風にはなれないが、風の魅力を感じ、風

から学ぶところもあるだろう。

 

現在私のくらしている山のムラにはかつて、「ひもじさ」と隣り合わせの、分け隔ての

なさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝きといったすばらしいものがあった。その一方で、

みてくれ、ぬけがけ、あきらめといったムラ社会の根性の狭さもあった。このようなム

ラの二面性は、かつて放浪し、へき地医療に現在とりくむきっかけになった東南アジア

の村々を彷彿とさせた。

 

老人は弱者であろうか?

 

老人は決して、単に弱者ではない。確かに車がないと言う意味では「交通弱者」と言え

るかもしれない。しかし根っこを引き抜かれ、あきらめのなかに置かれた病院や施設で

のご老人方の姿から、「老人は弱者である」と決めてしまうのは、間違いであると私は

考える。そして家庭の中で自身の祖父母と語り合わず、知りあわずにいて、実習として

はじめて施設内のご老人と接することで「老人は弱者である」と医学生や看護学生が考

えてしまいがちなことも、今の時代当然といえば当然だが、大変残念なことである。

 

いま日本のムラで診療を始めてみると、都市の医療との対比でさまざまなことに気づか

される。もちろん基盤に医療技術がなければ困るわけだが、そうそう厳密なことが日々

要求されているわけではない。むしろ高度医療が必要な際は、佐久病院に転送すればよ

い。その見極めが遅れないことが重要である。

 

それよりも私がムラの歴史や文化、生活する村人のひととなりに関心を持っていること

が大切なのではないか。こちらが関心を持てば持つほど、ムラビトは歓迎してくれる(

ようにみえる)。そうすると私はもっともっと、このおじいさん、おばあさんはどんな

人なんだろうと知りたくなる。「人と人」「人間と人間」という関係性を楽しめるよう

になってくると、時には高齢の方については「この人はここで看取ってもいい」という

妙な自信も生まれてくる。“生きる”ということについてこの人はこう考えているとわ

かってくると、「ここで私が看取ってあげたい」とさえ思えてくる。

 

つる代さん

 

そして実際に看取らなければならない場面を迎えるのが、この職業のならいである。南

相木村に赴任する前に勤めていた隣村の野辺山へき地診療所で、村の最高齢のおばあさ

んを看取った。最初に彼女に会ったのは、病院に入院中の個室でだった。壁の方を向き

、表情のない彼女はじっとだまったままだった。退院した彼女の自宅を訪ねて、大きな

違いを感じた。彼女のベッドの上には一枚の写真が飾ってあった。米寿の祝いのときの

もの。一族全員が写っていて、孫の孫まで数えると百人以上の子や孫がいる。この写真

を前に周囲の近親者の語りに耳を傾けていると、このおばあさん――「つる代さん」の

人となりが自然に浮かび上がってきた。女性としてこれだけの数の一族を生みはぐくん

だ彼女。そういう一族の長としてのカッコよさ、重厚さへの尊敬の気持ちで相手を見つ

めた場合、残念だけれども、今回”九九歳”で看取ることになった、という納得がこち

ら医療者にも生じているのだった。

 

これが都会であるとどうなるか?大学病院で修行していたから多少わかるのだが、残念

ながら患者さんは結局「一見(いちげん)さん」にすぎない。名前こそついているけれ

ど、背景のない単なる「患者さん」にすぎないのだ。病院での医療は、患者の生活につ

いての洞察や、どんな人生観を持った方なのか、という部分になかなか踏み込めずにい

る。診断後は生物学的に治療は進み、介護もケアされるべき弱者の「介護度」や状態に

応じて進行していく。

 

医療と介護はもちろん違う。しかし、もう治せない、となった場合の医療は、福祉や介

護と同じ方向を見つめようとすること。つまりその人の人生の、背景を含む生活全体を

見つめる眼をもつことが重要なのではないか?

医師は可能ならば、担当した全ての患者さんの家を訪ねておくことが望ましいのではな

いか、と私は夢想する。白衣を着た権威ある医師としてではなく、となり人として訪問

しておくことこそが肝要なのではないか。

 

関係性の中の老い

 

或る男性は山奥でのひとり暮しが無理になって、都会の息子のマンションにいやいや引

き取られて行った。だがしばらくすると彼は「脱走して」ムラへ帰ってきていた。痛み

のため、ほとんど自力で歩くことのできない筈の彼が言う。都会では、焚き火が自由に

できない、きのこ採りにいく山がない、川で魚を捕ることもできない。都会の団地で焚

き火をしたら、誰かが通報したのだろう、警察官が火を消しに来てひどく怒られた。こ

のままでは呆けてしまうと思って、逃げてきた。

痛みを止めるべく対処した後、私は尋ねた。「買い物にも困るだろう。息子さんの所へ

は戻らないのかい?」

「俺はここで死んで、本望だ。」

 

都市には、都会人の気づきにくい「管理の網」があるようだ。大自然から自分たちの生

活への制約には慣れっこになっているムラビトも、この網に身を任せることに無意識の

抵抗感を持っている。その人がその人でありつづけること、つまり自らのアイデンティ

ティ、に対するなにかしらの束縛と受けとめるからだろうか。ムラビトにとっては、関

係性の中で老いて死ぬことがあたりまえであり至福であった。都市の匿名性の中での老

いを受け入れることには、気がすすまないようだ。老い方や死に方には、都市と農村と

で明らかに差異がある。より正確には、老い方や死に方についての作法が異なっている

、というべきか。

 

外来者の私が、一方的に「ムラの魅力」や「ムラの限界」を語ることは出すぎたことな

のかもしれない。どうしても「好いところどり」になったり一方的な評価になってしま

うだろう。トータルなムラをでなく、「部分」を誇張して表現してしまう危険性もある

。しばらく、そんな行き過ぎを前提の上で読んでいただきたい。

 

ムラの女衆の本音として、「息子にはヨメが来てほしいが、娘には都会に出て(都会で

くらして)ほしい。」という、できすぎた表現がある。つまりムラの先輩女性としては

、「娘には自分と同じ苦労を味あわせたくないが、当然農家の後継ぎの孫は必要だ。」

との見解である。つい最近までムラには、「モンダ主義」が当然の如く通用していた。

ヨメは、、、するモンダ。息子は、、、するモンダ。老人は、、、するモンダ。もちろ

ん現代社会からのゆさぶりが都市から、特にテレビを通じてムラにも及んできているか

ら、近年ムラのモンダ主義はずいぶん変容せざるを得なかった。

 

もうひとつ、教育熱心な家ほど、もしかしたらさびしい老後をむかえている。息子たち

が勉強をして大都会で成功している。自慢の息子たちだ。しかしそれは盆暮れにしか息

子や孫に会えない、ということを意味する。少なくとも大家族を張ってムラでくらすこ

とはできない。ムラから見る「大東京」のイメージは切なく悲しい。

 

介護の社会化

 

モンダ主義のような意識上の縛りは、ムラの介護風景をとても写真映りのよいものにす

る。ご近所もまたその介護を間接的に支え関心を持つ、という美談にかたむく。しかし

現実には、介護はおんなしゅうの仕事、とするモンダ主義の強制適用例もある。都市に

おいても同じだろう。どこでも皆が納得してとりくめているわけではない。近年話題に

なっている「介護の社会化」という美しい言葉がムラに届いた時、女衆の期待は極大化

した。関係性が濃厚に過ぎるムラ。カッコよく老いていくご老人方の介護の責任を、女

衆への負担転嫁によってなんとか乗り切っているという現状に、都会的な「匿名性の介

護」が待望されたヒーローとして登場した。しかしおかねを介しての匿名性の介護の実

現を、すぐには期待しにくいムラ社会の事情もあった。

 

すべてのムラビトになんらかの村内の役割があり、障害者もまたなんらかの居場所があ

って役割を受けもつ。こういった、お互いの生活がいつもガラス張りであるという「劇

場的な」伝統的ムラ社会の関係性のたち現われ方にも、変化のきざしが見うけられる。

現代の女衆は、自分たちの世代が当然、と考えてとりくんだ家庭内介護を、次世代には

期待できそうもない、、、将来の自分たちの下の世話は誰がしてくれることになるのか

わからないという困惑、、、関係性の急速な変容と希薄化の渦中にあるようだ。

 

日頃私たちが漠然と感じている老後への不安、、、近年話題になっている公的介護保険

制度とは「介護の社会化」を約束し、高齢者や障害を背負った方々を家族の手だけでは

なく、「地域で」看て支えていくことをめざしているものである。私がこのような社会

制度、その寛容な制度自体を支える理念、にはじめて出会ったのは18年前のことだっ

た。初めての海外旅行でヨーロッパのいくつかの国を訪ね、街角で見て考え、人に尋ね

て大変びっくりした。この体験後帰国した私は大学を中退し、国内外を放浪した。その

後京都に定住して医師になるための勉強にとりくみ、やっと医者になった。

 

市民の社会とムラの自治

 

介護や社会福祉にほとんど関心をもっていなかった当時の私であった。単なる観光旅行

のつもりだったので、訪れてずいぶん驚き、衝撃に感じた。単に障害者や弱者への施策

としてだけでない、亡命者や少数者へのまなざしのあたたかさが、いくつかのヨーロッ

パ諸国の社会には「共通に」あふれていた。単に当事者が権利として主張し勝ち取った

もの、とも違って見えた。どこかで市民たち自らが自分の問題として考え、ひとまかせ

にしないで自前でとりくむ、という姿勢が感じられた。とても感動した。国境の線こそ

あれヨーロッパは確かにひと続きの社会である、と実感した。

 

この旅でそれまで私が全く見聞したことのない雰囲気を感じた。もちろんこのような社

会全体にひろがる合意は、歴史的に闘いとられものなのであろう。昔からずっとそうい

う社会であった筈はなく、不断の努力によって合意形成がはかられたのだろう。そして

となりあう国と国が少しずつは異なるにしても、ほとんど共通して持つようになってい

た、まなざしのやさしい社会のありように本当に驚いた。もちろん付随するいくつかの

困難も見聞きした。しかし私は当時「介護の社会化」という言葉も知らずにいた。適切

な日本語があるのかどうかも知らず、ただ「やさしい社会」或いは「住みやすい、ゆと

りある社会」という言葉として、強い印象が脳裡に刻まれた。ヨーロッパといえば今も

、おちついた社会、市民の社会とのイメージを、感慨深く想い起こす。

 

ヨーロッパから帰国した私は、そのまま大学を卒業して社会に出ることにあきたらなく

なった。大学を中退して、進む道を求め(親不孝にも)国外国内を数年間放浪して歩い

た。この時期のいくつかの出会いがきっかけとなって、私は消えゆく日本の「ふるさと

」、山の村に関心をもつようになった。東南アジアの村々を訪ねる旅では、日本のムラ

がかつてそうであったような、互いに助け合う人々の織りなす、共同体としての「ムラ

の自治」に出会った。聞き取りをしながら、このような自治のありようについて、内実

を少しでも学びとるように努めた。若い日々、アジアのいくつかの国でこのような聞き

取りにとりくめたことは幸せだった。

 

人間として人間の世話をすること

 

日本の国内を放浪していた時、いろいろぶつかりながら、さまざまの人に世話になった

。大変感謝している。世間の広さと自分の狭さを

実感する旅であった。こんなに世間が広く、職人の世界をはじめ、学歴と関係のないと

ころでこんなに多くの人々が“どっこい”生きているのであれば、その大海原に入って

いきたいものだと思った。それまで医者というのは、なにか鼻が高くて嫌なやつだと思

っていた。しかし漠然とながらも医学というのはアジアや辺境地に行けば民衆の役に立

つのではないかと考え直した。それに、広い世間のいろいろな人と付き合ううえで、医

者であることは「とっかかり」になる。それで医学部に行こうと思った。

 

医学生として「人間として人間の世話をする」という観点に立って考えるようになった

。すると世俗化した近代ヨーロッパの市民の社会と、アジアと日本の村々に共通する「

ムラの自治」とが重なって、二重写しに見えるようになった。いずれも「自前でとりく

む」、という姿勢を重視し、自らの誇りとしている自治のありようであった。一方は市

民革命後の近代社会、他方は封建制度下の農村共同体、とみなされてきた。むしろ対極

にあるとされてきた両者に共通する何かを発見し得たとき、私は大変うれしかった。

 

ヨーロッパで垣間見た、自治都市の伝統をひきつぐ「市民の社会」は私にとって大変こ

こちよいものだった。しかし現実の日本社会の目標たり得るものであるかどうかは、全

く別の問題であろう。現代日本にあっては都会では自治が形成されておらず、むしろ農

山村にかろうじて残った数百年来の「ムラの自治」の中にこそ、日本における自治的伝

統の痕跡を探り得るのかもしれない、と考えるに至った。どうひいき目に見ても、日本

のマチは、残念ながら市民の社会とはかけ離れていた。しばらくは各地で修行し、いず

れ日本のムラに家族で住んでムラの医療にとりくみながら、「ムラの自治」のありよう

を探求しようと考えた。

 

「地域というものは、外からの援助では決してよくならない。そこに実際に住んで日々

のくらしを送っている者が自らつくっていかなければ、決してよくならないんじゃ」

放浪生活で出会った、尊敬する民俗学者宮本常一氏のことばである。いずれ自分もムラ

に住んでみることに挑戦してみよう、と想い立つきっかけになった言葉である。

 

以下さまざまな場面で「周辺化」され、少数者とされた人々との出会いについて、21

歳の夏、1981年の私の旅の経験にさかのぼって述べてみたい。

 

多民族国家ソ連

 

一週間シベリア鉄道に揺られ、モスクワで乗り換えてたどり着いたのはヴィボルグとい

う街、フィンランド国境の乗り換え駅だった。ルーブルは国外持ち出し禁止だったので

、使い残しをクヴィタンツィアという領収書に換えてやっと税関を抜けた。列車内では

床板をはずし、警棒で天井板の上まで探り、持ち物をひっくりかえすという検問を、制

服姿の警備兵から受けた。重苦しい雰囲気のロシアから、いよいよ「自由の国ヨーロッ

パ」に抜けるのだった。

 

一週間乗りつづけた車内で知り合ったロシア人夫婦、カザフ人家族、モンゴルの大学生

、、、彼らの人情にとても感動していた私だった。ひしめき合うさまざまな人種民族の

顔、なけなしの飲み物食べ物をも分け合う底無しの人のよさ。しかし一方で、軍人が闊

歩し、役人がいばりくさって、強く主張しなければ、コネがなければ何も聞いてもらえ

ない社会。何度「パチェムーニェット!(なんで売ってくれないんだ!)」と叫んだこ

とか、、、金があっても客ではなく、叫ばなければモノを売ってもらえない社会。また

訪れて人情味にふれたいという気持ちと、「もうたくさんだ」という気持ちがないまぜ

になった国境線。国境線は遠かった。

 

歩行者にやさしいフィンランド

 

フィンランドの最初の街はタリン。拍子抜けだった。街がとてもきれいだ。ものに触る

と指先が黒く汚れるロシアと違って、油じみたベタベタした感触がない。ひとびとが、

街をゆったりと歩いている、、、これにびっくりした。馴れとは恐ろしい。生存競争の

厳しいロシアにすかっり染まってしまっていた。

一番驚いたのは、歩道に私が立ち止まっていると、車道を通りかかった車がすっと止ま

ったこと。何のことか、しばらく意味が分からなかった。つまり、東洋人の私が車道を

横断するようなら、と運転手が車を止めてくれたのであった。

 

亡命者の住む街ロンドン

 

北海を渡って英国はロンドンへ。下町のイーストエンドはお祭り騒ぎだった。下町の住

人のほとんどが白人ではないようだ。すぐそばのセントポール大聖堂でチャールズ皇太

子とダイアナの結婚式があった頃だ。宿を出て歩き廻っていて出会った色の黒い若者の

一団。カリブ海の島国ハイチからの亡命者たちだった。お互いへたな英語で喋りあった

祖国は独裁下で生きられない。英国は受け入れてくれた。とても感謝している。しかし

英国人は大嫌いだ。??英国人はわれわれを二級市民と見ている。われわれは愛国者で

ある。それゆえデュバリエ政権下では殺される。しかたなく逃げてきた。今僕らは英語

で喋っているけれど、英語は大嫌いだ。

とても言葉につくせない言葉だった。亡命者を受け入れる英国の、度量の寛さと苦悩の

深さを垣間見た。

 

英国からベルギーへ渡るフェリーの中。ポーランド人の老夫婦と話した。亡命者だった

。夫は第二次大戦の前、ポーランド空軍のパイロットだった。祖国がドイツとソ連につ

ぶされて大戦が始まった時、彼は飛行機を盗んでルーマニア経由でマルタ島に逃げ、大

戦中はロンドン上空でドイツ空軍と戦ったという。もちろん彼はそのまま祖国へ帰れな

くなった。彼が忠誠を誓ったポーランドのロンドン亡命政府は戦後共産化された祖国で

非合法とされたのだ。娘のひとりがベルギーに嫁いでいるので、孫の顔を見に行くフェ

リーの旅とのことだった。

その後ベルリンの壁が崩れた89年、私は彼ら白髪の老夫婦を想い出した。存命でさえ

あれば、待望の祖国へ帰れることができるのだと。

 

オランダの身体障害者

 

アムステルダムの街にはひとつ想い出がある。駆け足旅行だったのに印象に残っている

のは、車椅子の青年に会って少し話したからだ。最近日本で話題になった本に「五体不

満足」があるが、オランダ人の彼は片手片足だった。足は動かないようだった。身振り

手振りもはっきり覚えている。握手もできたし、「車の運転もできる」と言ったのには

びっくりした。

彼に出会ったのは、地下鉄の工事現場だった。大きく段差になっているところがあって

、彼の車椅子を何人かの通行人が持ち上げて運んでいる場面に遭遇したのがきっかけだ

った。目を見張って立ち止まった私のすぐとなりに着地した彼に、「ハロー」と言われ

て喋り始まりまった。彼がはたちの大学生で、バスと地下鉄を乗り継いで毎日通学して

いると聞いて、すごいなと思った。私は、祖母の一人が目が不自由だったので少し日本

の視覚障害者の世界を知っていた。それで、「日本では想像もつかない自立した生活だ

ね」と彼に言った。「周囲の健常者が支えてくれているのさ」と彼は答えた。彼との立

ち話は五分程だったろうか。金髪の彼は「それじゃ、いい旅を」と英語で言い残して、

すっと去って行った。しばらく私はその場に呆然と立っていた。

 

アジアの旅

 

ヨーロッパを2ヶ月旅した21歳の私は日本へ帰る途上、インドとタイに立ち寄った。

混沌たるインド世界と人々のあまりに多様な生活ぶり。のんびりとしたタイの農村風景

と南伝仏教(上座部仏教)。とても印象に深いものになった。その後フィリピンをはじ

め東南アジア諸国と中国大陸の農漁村をずいぶん廻り、旅の過程でたくさんの人々にお

世話になった。この感謝の気持ちを忘れてはいけない、といつも心に念じている。

辺境であればあるほど、そして不便なところであればあるほど、人情味に出会った。一

方の都市や中心地には混沌とした、しかし生活を楽しむ気持ちがただよっていた。カネ

やモノだけの人生ではない、とする庶民のこころいきと常識感覚があった。学歴や権力

と関係のないところで生きるひとびとの、生き残るための知恵と技に感服した。外国の

マチやムラを訪れて、日本のムラを再発見することになったのかもしれない。

 

訪れた場所ごとにアジア人東洋人の世界観、宗教観はとても多様であった。そして必ず

と言ってよいほど「老いと死」について若者向けに公に教えるという習慣があった。若

いときから教えこまれていることに驚いた。ふりかえって現代日本の公教育で「老いと

死」についてふれずにいることが、むしろ世界的には例外であることにすぐ気づいた。

共産主義体制をとる国々を除けば、世界中で善悪の判断の基準はその地の宗教の教えに

よっていた。医療や介護がこの世に出現するずっとずっと以前から、ひとはひとをケア

してきた。医師として、以前に「人間として人間の世話をする」というあたりまえの医

療の原点を、私はアジア放浪から学んだ。

 

次第に、自分は自分の人生の持ち時間とお金を使って何にとりくむべきなのだろう、と

考えるようになった。

アイデンティティの問題といえようか。祖父母や親たちの世代が苦労して築き上げた現

代の日本、そのなかで一人ひとりがどこから来て、なにを目指し、なににとりくむのか

、、、英語で言えば、以下のようになろうか。

Who am I? Where did you come from? How did I come here?

Where shall I go from here? What shall I do there?

 

南方仏教の生きるムラ

 

一昨年日本の或るテレビ局のディレクターに相談されて、アジアの生きた仏教の姿につ

いての取材に協力した。以下は昨年放映されたバングラデシュの或る農村の光景である

。私も家族を連れて数年前訪れた村だが、医療や介護というものの原点についてずいぶ

ん考えさせられた。日本の私のムラにも、ひとつ仏教の寺院がある。この日本の寺院の

原点は当然遠くインド亜大陸にあった。伝わってくる時間と空間のあまりの大きさを感

じる。そしてその間にかなり内実の変化をみたように思う。日本の中だけにいては知る

ことのできない変化。

 

バングラデシュの農村、ムラはずれのご老人の家。死期が近づき意識のかすんできたお

ばあさんの枕元に、黄衣の僧が訪れて「枕経」をあげていた。上座部仏教に共通の「私

は仏に帰依します。法に帰依します。僧に帰依します」という決まりのお経、三宝帰依

がパーリ語で上げられた後、僧が説法の題材に選んだのは、ブッダ最後の旅を記した「

マハーパリ、ニッバーナ、スッタンタ(大般涅槃経)」であった。

 

この世に生まれたら死ぬのが定めです。生まれてから死ぬまでの間が私たちに与えられ

た人生です。ブッダは、死とは何かを考えました。そして死を見つめ、その答えを見つ

けるために世俗を離れました。私たちも死の意味をとらえることができれば、生きてい

く苦しみにも耐えられるのです。ブッダは、クシナガラに滞在中危篤に陥り、弟子のア

ーナンダに説きます。「人はこの世に生まれたら必ず死ぬ」と。ブッダが言われたのは

、誰もが死を避けられずこの世に死の手から逃れる場所はどこにもない。ということで

す。今ここにいる信者の女性は、ずいぶん前から病気で苦しんでいます。私たちが彼女

にしてあげられることは、彼女にこの真理を聞かせてあげることです。そして、周りに

いる人々は、今日、この人がしてきたこれまでの善行を想い起こして、皆で知り、記憶

にとどめるのです。その人の善行を想い出すと、悪い想い出は消えていくでしょう。

 

僧がまだ生きている人に向かって「人は死ぬ定めです」と、いきなり切り出したのには

驚いた。しかし同時にこれが、紛れもなくブッダの教えの核心であったことも想い起し

た。僧は、葬式や儀式のためだけに存在するのではなく、仏教は生きている人々のため

にある。葬儀においても僧は、日本での様に仏壇や死者に向かってではなく、生きてい

る人々の方に向かって読経する。その様子は、かつてブッダその人が、人々の中に入っ

て自らの悟りを説き、さまざまな苦しみを持っていた人々の話しを聞いて、その苦しみ

の原因を指し示していったことと相通ずるものがある。バングラデシュには、こうした

ブッダの時代の仏教が原形をとどめている。

 

消防団と介護ボランティア

 

ひとびとの記憶や時代の証言を「生き証人」方から聞き取ることで、中世以来つづく信

州の山の村の姿に学ぶところがあった。「百の能力を持つ百姓たち」がくらすかつての

ムラは、「循環性」「多様性」「関係性」の三つを保持した「自主的自治圏」であった

と私は考えている。循環性とは、ゴミのでないシステム、つまりトータルリサイクルの

ゼロエミッションということであろう。廃棄物がでないし、廃棄物が出ても捨てる所が

ない。自分たちの故郷にゴミをすてるわけにもいかない。まさに江戸時代はそうだった

。多様性とは、農家が百の能力をもつ百姓でありつづけることだろう。多元多様な魅力

ある生き方を貫く姿勢を、農家にこそ持ち続けてほしい。関係性とはすでに述べたよう

に、農村のなかにこそ濃厚に過ぎるほど残っているものだ。浅薄な都市の匿名性に負け

ない豊かな関係性を再構築して、ムラの再生に役立てていきたい。

 

「自主的自治圏」という言葉は、幕末の日本を訪れた英米独仏の宣教師をはじめとする

外国人知識人が書いた当時の日本社会についての報告書を読んだヨーロッパの学者が、

「日本の農村」を評したことばである。変容著しい現代社会にあって、ムラは確かにか

つての姿そのままではない。またいくつかの点について現状に問題はあろう。しかし例

えば介護保険が、単に権利の問題ではなく、「自治」の問題であるとするなら、論点は

変わってくる。権利の問題であれば、介護はお金を代価として簡単に商品化されてしま

う。しかし自治の問題であるなら、どう自前でとりくんでいけるのかという、共同体と

しての意識が問われることになろう。例えば自分たちの家や山を守る消防団のとりくみ

のように、自分たちで介護にとりくむ、ということになろうか。

 

歴史は単に過去ではない。もしも歴史が単に過去であるだけなら、歴史は年号の羅列に

なる。歴史は現代を指し示すいとなみでなければ、意味を持ち得ない。降った雪をかか

なければ小学生が学校に行けないこのムラで、雪かきをやってみる。寄り合いや祭りに

も参加して一緒に酒を飲む。そういう共同体のメンバーシップとしての多様な役割を担

うことで、お金に換えられない価値観を発見するだろう。あえて挑発的に述べよう。本

当の「介護の社会化」を実感するためには、必ずしもヨーロッパに行かずともよい。日

本の山のムラに来て多少の不便さの中で歴史を学びなおすことこそが、先ず必要だろう

 

 

 

 

 

 

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