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山に生かされた日々

 

長野県南佐久郡南相木村国保直営診療所長  色平(いろひら)哲郎 

 

十七年も前になる。東大を中退して京都の医大の寄宿舎に入った。雲母(きらら)坂と

いう弁慶法師の通った比叡山の麓の山道を何回となく、登った。修学院離宮の裏手から

登って、月明かりの夜道を歩いて、琵琶湖畔まで行く。ムササビが飛び、ホタルの幼虫

が光る闇と月光の中をひたすら歩く。山頂に近づくと、延暦寺の堂衆が尺八を吹き鳴ら

していた。

中世の雰囲気であった。

 

近江坂本まで数時間のこの山道を寄宿舎の新入生に紹介した。毎年春新入寮生の何人か

をひき連れて赤山(せきざん)禅院から日枝山王社まで、スタスタ歩くことが習慣にな

った。

 

帰路は京阪電鉄に乗って山科を廻って洛中に戻る。へとへとになった寮生を木屋町に導

いて飲む。酔った勢いで角倉(すみのくら)了以の築いた高瀬川を二条から九条まで連

れ歩いて下る(南へ行く)。日銀京都支店わきの高瀬川一ノ船入(二条)から土佐藩邸

(三条)、

先斗町(四条)、新地(五条の悪所)、会津小鉄会(六条)、内浜の被差別部落(七条

)と風景は移る。

 

新幹線ガードを南にくぐると(八条)、高瀬川は鴨川と合流し(九条)。河原には朝鮮

人の街がある。「ていぼう」と呼ばれるこの街に下水道はない。地番のないこの街の中

央には倉庫があり、京都駅の周囲に暮らす路上生活者への支援物資が集積されていた。

ここで一服して若い寮生を解放した。私ひとりは伏見の酒倉までブラブラ歩き、三〇石

船と高瀬船を乗り継いだ河岸に立って往時を偲んだ。

 

例えば、保津川や木曽川でのように、舟運と造林とは、角倉父子以来不可分の関係であ

った。観光的な叡山を避け、京都北山の消えかかった杣道に分け入っていくと、古い記

憶が甦える。列島に生きた民衆の生活のありように触れることになった。用材、薪炭、

堆肥用の落葉、養蚕、焼畑、山菜茸とり、木地師、マタギ、博労、山の神、タタラ師に

いかだ流し。こういった高度経済成長によって、我が日本が失った日々を追体験してみ

たいものだと思いたった。記録映画「山に生かされた日々」(姫田忠義監督作品・民族

文化映像研究所)の自主上映会にとりくんだことがきっかけだった。

 

上賀茂社から北へ鞍馬、花脊別所を越えて廃村八丁から久多に出る。三国岳のヤブをこ

いで由良(ゆら)川源流域から江若国境を抜け、若狭国、若狭彦神社まで三日間残雪の

山道を歩く。野生のサンショウの棘に痛い思いをし、シャクナゲの花の色に心を奪われ

る。奈良東大寺二月堂のお水取りと対をなす、お水送り神事で有名な古社が終着となっ

た。奈良朝以前であれば、大陸や半島からの文物は若狭の小浜の港よりこの道を南にた

どって、明日香に至ったのだと納得できた。歩く峠の道が生きていた時代が長く続いて

いた。

 

途中、立ち寄った由良川は清流であった。京都府北桑田郡美山町の最奥にある京大農学

部の芦生(あしう)演習林。由良川の源流にあたるこの別天地に足を運び、学ばせてい

ただいた。林道沿いに渓流沿いに、春夏秋冬に及び歩いた。ブナ林に、積雪に、想い出

深いものがある。古来の日本人の生き方の痕跡に多少なりと触れ得たように思う。この

時代、日本人は土地に縛られ身分に縛られ家に縛られていた。そして経済的には貧しか

った。先達宮本常一先生の事蹟を想い起こしつつ芦生に通った。

 

地域というものは外からの援助では決して、よくならない。そこに実際に住んで日々の

暮らしを送っている者、自らがつくっていかなければ決して良くならないんじゃ。

 

宮本先生の言葉である。通いではなくそこに住んで、現場で働きながらムラづくりに参

加してみたいと思った。等身大で地域の中でとりくんでみたいものだ、と願うようにな

った。

 

道を求めて、あちこち放浪し、いろいろぶつかりながら、さまざまな人に世話になった

。そしてこんなに世間が広く学校と違うところで、こんなに多くの人が生きているのだ

ったら、その大海原に入っていきたいと考えた。やがて私はアジア諸国の村々を旅して

廻るようになり、庶民がどっこい生きているという中で、同じアジア人である彼らに大

変世話になった。

 

長野県東南部、人口一三〇〇人の南相木(みなみあいき)村。現在の私は、鉄道も国道

もないこの村に、初代診療所長として家族五人でくらしている。自家用車が普及するま

で、人は最寄りの鉄道駅小海(こうみ)まで三里の山道を歩いたという。養蚕や炭焼き

などの山仕事しか、現金収入のなかった時代だ。今は村営バスが走り、農作業も機械化

されたが、

患者さんのほとんどは、そんな村の歴史を知るお年寄りたちだ。

 

診療の合間に、その口から語られるのは、遠い記憶である。今はない分校に子どもたち

の歓声が絶えなかったこと。足ることを知り、隣近所が支えあったくらしぶり。山に生

かされた日々であった。しかし、天保七年の飢饉では村の餓死者百二十余人。明治三十

年七月の赤痢、寺への収容者二五〇名中、死者四〇余名。

 

今も村に残る篤い人情に感激する一方で、ひもじさと感染症流行の生々しい記憶があっ

た。

分け隔てのなさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝きの一方に、みてくれ、ぬけがけ、あき

らめといったムラ社会の狭さがある。このような二面性は、かつて放浪し、へき地医療

にとりくむきっかけになった東南アジアの村々を彷彿とさせた。

 

「風のひと」として、この村に移り住んだ外来者である私たち家族は、隣人である「土

のひと」たちに、日々大変お世話になっている。七〇〇年の歴史をもつ自然村相木郷(

あいきごう)の包容力に感動しつつ、進行する高齢化と過疎化の波に「ムラの自治」の

将来を案ずる内科医としての日常がある。毎年百数十人の日本の医学生、看護学生、社

会人をムラに受け入れて、消えゆくムラの確かな何かをお伝えすべく地域の友人たちと

とりくんでいる。

 

村人の持つ生き抜くための知恵と技、ずるさと逞しさには、日々圧倒される。どしっと

座ったクマ撃ち名人の老人に、あなた方は今何を見るか、と問う。彼ら百姓は、文字通

り、百の技能を持つ。山仕事から自分の家まで建ててしまう。しかし、今様にGNPに

換算すれば、マイナスになってしまう生き方である。彼らのかっこよさ、すさまじさ、

パワーは、

私が若者にお伝えする以外にない。だから私は、十年後もへき地で働く医者でありたい

 

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