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        ボランティア

 

              奇妙な日本語への無自覚

 

”I need some volunteers.

(何人か、ボランティアが必要だ)”

――アメリカ映画の中のセリフだ。

 

「ちょっと、手を貸してくれないか?」との意味だが、

場面や状況によっては、

「誰(だれ)か、(決死隊として)名乗り出る者はいないか?」

との呼びかけにもなる。

 

このセリフが示しているように、横文字で”ボランティア”といえば、

「自ら志して参集する者」を意味する。

参加が有償であるか、無償であるかとは関係ない。

まるで、戦時中の特攻隊への参加呼びかけの場面のようだが、

「暗黙の強制さえ伴なってはいない」

という重大な相違点もあるのだ。

 

 

ボランタリー・サービスという英語が「志願兵制度」を指すように、

ボランティアとは、もともと軍事用語でもあったのだ。

ヨーロッパ諸国の伝統では、自治都市は自らを武装しており、

自治を守るためには、外部からの干渉に対し市民たちが自発的に武器を取った。

 

日本最初のボランティアは薩摩の人であった。

名は今に伝わっていない。

明治維新の少し前、ヨーロッパ大陸に渡ってクリミア戦争に参戦したこのサムライは

示現(じげん)流の使い手であったという。

「チェスト」の掛け声とともに大刀を操る剣の名手であり、

突撃隊長として、大いに恐れられた。

 

よう兵(メルセナリー)と志願兵(ボランティア)の違い、

それはカネで動くか、志で動くか、だ。

クリミア戦争に参加した薩摩のサムライは、志で参加した。

しかし、もちろん志願兵として高給取だったのだ。

 

 

昨今の日本では、”ボランティア”なる響きのいいカタカナ言葉が

「善良な市民による献身的な取り組み」として広まっているようだ。

「人間として人間の世話をする」行為そのものについて、ちゃかしたくはない。

すばらしいことであり、推奨すべきことであろう。

 

しかし阪神大震災の救援現場や長野五輪で、

わざわざ「志願兵」という意味の外国語を選んで、

安易に広めてしまうというのは、どういう意図なのだろう。

実際、長野五輪本番のころ、ドイツの放送局や北欧やカナダの新聞社から

山の村に住む私のところに問い合わせの電話が入った。

「日本語のボランティアって、どう訳したらいいのでしょう?」

 

 

志願兵制の一方にある徴兵制は英語では

「コンパルソリー・サービス」だ。

直訳すれば「強制・兵制」となろうか。

では、「コンパルソリー・エデュケーション」とは?

 

「強制・教育」となり、いわゆる義務教育のことになる。

外国では教育は「義務」ではなく「権利」なので、

仕方なくこう訳すのだそうだ。

 

「コンパルソリー」の対極が「ボランタリー」だ。

ボランタリー・エデュケーションとは、この日本では……

さしずめ「塾」にでもなるのだろうか。

 

 

つくづく、日本は発展途上国なのだ、と感じる。

納税・兵役・教育が「国民」の三大「義務」とされたのは、

明治の初めだ。

ボランティア、義務教育という奇妙な日本語に、

十九世紀の意識を引きずったまま、

自覚なく二十一世紀を迎えてしまった今の日本がよく見える。

 

 

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