〈日本のアウシュヴィッツ〉

このままでは死ねない 

らいは天刑・業の病
その病醜は国辱
即ち神国日本にとって
けっしてあってはならぬ日の丸の汚点だといい
世界列強に肩を比べる面子から
国は明治四十年
ハンセン病患者の撲滅をめざした
官憲による患者狩りと絶対隔離
そして強制収容所内では
職員監視の下
同病の重症者看護から
死者の火葬にいたる過酷な強制労働の日々
そのうえ子孫根絶やしの断種と堕胎
さらに所長の「患者懲戒検束権」により
睨まれたら最後たちまち飢えと凍えの獄に繋がれ、、、

「民族浄化」「社会防衛」の名によるこれらの仕打ちは
日本ファシズムの軌に則して凶暴をきわめ
昭和六年には改めて
患者弾圧法=「癩予防法」を施行
国民をスパイに仕立ててまで
家の奥や離れに人目を忍ぶ患者のあぶり出しにかかり
収容と同時にこれみよがしの大げさな消毒で
ますます偏見差別の闇を深くした
こうして母も私と兄も次々と収容所へ追い立てられ
聖戦の名による
国の厄介者「座敷豚」呼ばわりの辱めに
日夜曝されなければならなかった
そして敗戦間近のある朝
母は眼を耳を声を奪われ餓死した

戦後ようやく国民主権の平和憲法が制定されても
なぜか「癩予防法」は依然として居直り続け
患者隔離撲滅の嵐は猛威をふるった
あの戦争のさ中アメリカで開発されたらいの特効薬が
日本でもみごと合成に成功
だがその薬にどんな驚異的効用があろうと
国は「飼い殺し」政策に必要なしとして省みず
ために全国各収容所に燃え上がった患者の怒りの炎が
しだいに国の体面をおびやかし
やっと治療薬の予算化をもぎとるその寸前
なんと兄は力つきて死んだ
同じ死の床にあった少年の私は
辛うじて治療に間に合い蘇生できたものの
この身を醜く刻んだ後遺症が
故郷を完全に喪失させた

しかし私たちは人間!
希代の悪法・人権侵害の「癩予防法」を打ち砕くため
全国組織を結成して患者運動に決起し
国に法の改正を迫った
まず偏見にまみれた「癩(らい)」という病名を
菌発見者アルマウエル・ハンセンに因んで
「ハンセン病」と改称することと
患者弾圧法から保護法への見直しを要求したのである
これに関し国はわざと収容所長らの証言を求め
その「強制隔離政策のいっそうの強化を」の声を受けて
昭和二八年「癩」を仮名の「らい」と変えただけの
患者隔離撲滅政策遂行の新「らい予防法」を国会に上程
患者たちの必死の反対闘争を押しのけて衆院を通し
参院ではさすがに世論をはばかり
「患者家族の援護」等申しわけの九項目と
「近き将来本法の改正を期す」の付帯決議をもりこむ

それからじつに四三年
患者組織の不屈の予防法改正運動は
隔離を許さぬ国際的知見を力に
しだいに国内世論を喚起し
平成八年まこと遅きに失したとはいえ
ついにこの手に「らい予防法」廃止をかちとった
法の廃止で当然私たち患者とその家族が
過去一世紀にわたってこうむった被害に対し
国は償いと謝罪をしてしかるべきなのにそれら一切なし
だとすれば到底このままでは死ねない
収容所開設以来
親族に看とられることなく
無念の死を遂げた者すでに二三、〇〇〇人
その恨みを必ず晴らすために
また世間の片隅でいまだに迫害を恐れ
じっと息をひそめて生きている家族の名誉回復と
現在生き残っている四、七〇〇人の
元患者の人間としての尊厳をかけ
私たちはここに〈日本のアウシュヴィッツ〉
その国家犯罪を裁判に訴え拳熱く新世紀への扉を叩く


ハンセン病国賠訴訟 谺雄二 こだま・ゆうじ

一九三二年東京生まれ・
ハンセン病国賠訴訟全国原告団会長・詩人会議所属・
著書に詩と写真集『ライは長い旅だから』(皓星社)
『死ぬふりだけでやめとけや』(みすず書房)などがある。

inserted by FC2 system