130 患者を「監視」していないか?

日経メディカル 2017年3月29日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201703/550696.html

日々、病院で働いていると、患者さんのプライバシーへの配慮がおろそかになってい
ないだろうかと自問することがある。忙しさのあまり、プライバシーを二の次にして患
者を「監視」してはいないか、と。生命にかかわるような急性期疾患で頻繁な観察が必
要な場合はともかく、そうした状態ではない入院患者さんにとって、プライバシーは実
に重大なファクターだと思う。

「パノプティコン」という言葉をご存じだろうか。日本語では「一望監視」ともいう。
18世紀英国の社会改革家、ジェレミー・ベンサムが考案した刑務所のデザインだ。

少ない運営者が大勢の収容者を監督するために、監視塔を中央に置き、その周りをぐ
るりと囲むように収容者たちの個室を配する。看守からは個々の収容者の様子が一望に
見渡せる一方、収容者からは看守が見えない。極めて功利主義的に構想されたデザイン
である。

たとえ監視塔に看守が不在であっても、収容者には「看守の不在」がわからない。収
容者全員が、各自の独房で背筋を正して一方向に行儀よく座り、監視塔を仰ぎ見続ける
という様子を想像すると、ちょっと怖い。

当初、刑務所の一様式だったパノプティコンは、20世紀のフランスの哲学者、ミシェ
ル・フーコーによって近代制度のモデルとして再認識された。フーコーは、刑務所だけ
でなく、軍隊や学校、工場、そして病院にもパノプティコンの自動化された監視が組み
込まれ、患者は監視を受け入れるように教育される、と看破した。患者は、健康を取り
戻す代償として監視を受け入れざるを得ないのだ。

現代の病院は、外形的にはパノプティコンのような建物は皆無だが、ITの発達で、よ
り効率的に監視ができているともいえる。また、街角のいたるところに監視カメラが設
置され、権力機関はネット空間でも監視の目を光らせる。個人情報も取ろうと思えば、
簡単にとれる。


スノーデンの言葉に考えさせられる

権力側は、しばしば「やましいところがなければ、監視されるのを嫌がらなくてもい
いだろう」と言う。だが、そこが問題なのだ。人のプライバシーは、それほど軽いもの
ではない。米国国家安全保障局(NSA)の元局員で、NSAによる個人情報収集の手口を告
発したエドワード・ジョセフ・スノーデンは、インタビューにこう答えている。

「政府はよく監視について『隠すことがないなら恐れることはないだろう』と人々に
向かって言います。このフレーズはナチスのプロパガンダから来ています。けれどプラ
イバシーはなにかを隠すためにあるのではありません。プライバシーはなにかを守るた
めにある。それは個です。プライバシーは個人が自分の考えをつくりだすために必要な
のです。人は自分の信じるところを決定して表現するまでに、他人の偏見や決めつけを
逃れて、自分自身のために考える自由が必要です。多くの人がまだそのことに気づいて
いませんが、だからプライバシーは個人の権利の源なのです」
(小笠原みどり『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』
173ページ、毎日新聞出版、2016)。

監視それ自体と監視される側の行動の善し悪しとは全く関係ない、とスノーデンは指
摘し、同書でこう述べている。「この問題はそうではなくて、市民社会と最も特権と影
響力を持つ役人たちとの間の力のバランスの問題なのです。プライバシーがなくても構
わないと主張する人は、表現の自由なんかなくても構わないと主張しているのと同じで
す。自分には言うことがなにもないから、と」。

病院で働きながら、ふと感じるプライバシーへの懸念の根本を言い当てられたようだ。

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