ーー卑屈・矮小な為政者への我慢を止められるかーー

7・3つけ「週刊金曜日」掲載
「戦後の墓碑銘」18    白井聡 しらい さとし
京都精華大学専任講師。著書に『永続敗戦論』(太田出版)など。


暑い夏になりそうだ。
あらゆる徴候が示すところによれば、
いよいよ永続敗戦レジームの総決算が間近に迫りつつある。
新安保法制問題は、永続敗戦レジームがその存立条件を失っている
にもかかわらずその崩壊を無期限延期している、
という矛盾をその極点にまで推し進めるであろう。
この法案は、昨年7月の閣議決定による実質的な解釈改憲
(集団的自衛権の行使容認)、並びに昨年末の衆議院総選挙の結果の
必然的帰結である。
この間、安倍政権は日米安保新ガイドラインをめぐってアメリカと合意し、
今年5月には首相が訪米、議会演説において前代未聞の貢物(こうもつ)
の約束をし、後述するように、歴史認識をめぐって
これまた前代未聞の卑屈な言辞を弄(ろう)してきた。
そしていま、天王山を迎えつつある。

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日本の法体系は二重

三人の憲法学者が国会参考人として新安保法制を違憲と断じたところから、
政治状況は俄然(がぜん)騒然としてきたわけであるが、問題は、
法の字句において同法案が憲法違反であり、立憲主義の原則に反している
ということにとどまらない。
このような無茶苦茶を冒そうという試み自体が、戦後日本の法秩序の
真の構造を暴露している。
すなわち、矢部宏治氏が指摘したように
(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』)、
日本の法体系は二重の法体系をなしている。
一方には、日本国憲法という公然の最高法規があるが、他方には、
日米間の無数の密約という非公然の法体系があり、両者が矛盾する場合に
優越するのは後者である。
要するに、日本の法体系全体が、決定的な場面において無効なのだ。
官僚組織や御用学者の絶えざる努力によってこの真の構造は注意深く
隠されてきたが、今般の事態は、安全保障政策の根本転換
(消極策から積極策へ、つまり、戦争しないことによる戦後日本型安全保障
から戦争することによるアメリカ型安全保障へ)に際して、
この構造を隠しおおせなくなったというものにほかならない。
アメリカとの約束(カネだけでなく血も差し出す)を守るためならば、
日本国憲法などどうでもよいーー
赤裸々に露呈したのは永続敗戦レジーム支配層のこの本音であり、
いまや年来の改憲派であった人々までもが新安保法制に対して強力に
反対している事態の根源は、ここに見出されるべきであろう。

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「ミネルヴァの梟(ふくろう)は夕暮れ時に飛び立つ」(ヘーゲル)。
永続敗戦レジームの終焉(しゅうえん)が近づけば近づくほど、
その真の姿は明瞭なものとして立ち現れてくる。
見えてきたのは、世界にも類を見ない特殊な対米従属体制、
「極東バナナ共和国」である。
世界中に傀儡(かいらい)政権は多数存在し、
また対米従属政権も多数存在する。
むしろ、いかなる意味でも対米依存していない国家など、
現代世界にはほとんどない。
日本の対米従属の異様性は、この従属が温情主義の妄想によって
オブラートに包まれている点にある。
すなわち、世界のほかの対米従属政権においては、従属はあくまで
利害得失に基づいて選択され、またその政権が私益に基づく傀儡である場合、
その傀儡性を当該国民はよく理解しているのに対し、日本では、
日米関係は「真の友情」によって成り立っているという
巨大な幻想が生き続けてきた。

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この想念が幻想にすぎないことは、ほかならぬ永続敗戦レジーム支配層の
カウンターパートたる米知日派が明言している。
リチャード・アーミテージは、2013年に共同通信のインタビューに応じて、
こう言っている。
「私は米国を愛するがゆえに日米同盟の仕事を喜んでやってきた。
多くの日本の友人がいるが、日本を愛するがゆえに私が何かをすることはない。
何が米国の国益かを私は知っている」。
要するに、アーミテージは、善意の「親日派」でもなければ、
悪意の「ジャパン・ハンドラー」でもない。
アメリカの政治家として、同国の国益を第一に考えて行動している。
ただそれだけの当たり前のことがここでは語られている。
この人物が、「親日派」(またそれの裏返しとしての「ジャパン・ハンドラー」)
と呼ばれる空間こそが、歪(ゆが)んでいるのである。

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実に哀れな安倍首相

しばしば誤解されるので、ここではっきりさせておきたいのだが、
「永続敗戦」の概念は、戦後日本の対米従属それ自体を批判するものではない。
先にも述べたように、対米従属の要素を一切含まない現代国家など、
世界中にほとんどない。
この概念が批判するのは、正確には、日本の対米従属の特殊性であり、
それが戦後の国体(戦前天皇制の代替物)となっているという事態である。
大日本帝国が「天皇陛下は赤子たる臣民を愛してくださっている」
という巨大なフィクションに支えられていたのと同様に、戦後日本は
「アメリカは日本を愛している」という国際化した虚構によって支えられている。
しかしながら、アーミテージの発言に明らかなように、日本の対米従属の問題は、
実は国際問題ですらない。
戦前戦中の政治が天皇の意思の輔弼(ほひつ)・翼賛によって成り立っていた
のと同様に、戦後日本政治はアメリカの意思に対する忖度(そんたく)
によって成り立ち、かつその傾向は対米従属の地政学的必然性が消滅した
(冷戦構造の崩壊により)後にこそ、逆説的にも高まってきた。
問題は、このような奇怪な権力と利権の構造をつくり上げてしまう日本社会
に内在しているのである。

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さて、この虚構がいよいよ維持困難になるなかで、安倍晋三の訪米、
米議会での演説は、このレジームの軌跡において記念すべきものとなった。
安倍は歴史修正主義者とかねてから目され、この第二次政権においても
靖国参拝に代表される言動によって、アメリカのみならず世界からの注目を
悪い意味で集めてきた。
その彼が、米議会での演説に選んだテーマは、「和解」であった。

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かつてあれだけの殺し合いをやった日米両国民が今日では深い友情を
育むに至った、というストーリーは、それ自体かなりの眉唾物(まゆつばもの)
であるが、ここではひとまず措くとして、注目すべきは「和解」を語る際に
安倍が持ち出した歴史的記憶である。
太平洋戦争の激戦地のいくつかに言及しながら、安倍は
「真珠湾、バターン」を口にした。
言うまでもなく、この二つの地名は、「和解」を成し遂げた今でも、
多くの米国人がわだかまりを持っている記憶にまつわるものだ。
そして、真珠湾とバターンに言及する一方、彼はついに広島・長崎には
言及しなかった。
これ以上に卑屈な振る舞いは想像すらできない。
日米両国民の和解を語りながら、その非対称性は明らかである。

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つまり、安倍の訪米は、実質面での朝貢(集団的自衛権に基づく
自衛隊戦力の米軍への差し出し)のみならず、イデオロギーの面での
完全敗北を印すものであった。
ポツダム宣言を気に食わないから読まず、侵略戦争の定義は定まっていない
と言い放ち、したがって、東京裁判の正当性に異を唱えながら、
その「勝者の裁き」の張本人の目の前で言えたのは、実質的には
「私たちだけが悪うございました」ということでしかなかった。
主人の赦(ゆる)しを乞い、愛を乞うその姿は、実に哀れである。

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新安保法制を通すために、国会会期は大幅延長された。
この夏は、長くなるだろう。
永続敗戦レジームが維持されるか否かが、これからの2箇月(かげつ)
あまりに懸かっている。
この卑屈・矮小(わいしょう)極まる為政者に下駄を預けている国民とは、
より一層卑小な存在にほかならないことを、どれほど多くの人が認識し、
我慢するのを止めることができるのか、そこに一切は懸かっている。
(一部敬称略)

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