プライマリー・ケアと農村地域医療 若月俊一

日医ニュース 昭和54年(1979年)8月20日 
長野県南佐久郡臼田町 佐久総合病院院長 

・はじめに

私どもの農村地域の中での、いわゆる「健康管理」活動が、
そのまま今日のプライマリー・ケアに当たるものかどうか。

ともかく、私ども佐久総合病院は、終戦直後から、
その道を歩き続けてきた。
簡単にいうならば、地域の住民の医療のニーズに沿って、である。
正確にいうならば、それに沿ったつもりで、である。
住民のニーズといってもなかなか、これを正確につかむことは難しい。

その馬鹿の一つ覚えによる仕事でも、30数年も経てば、
いちおうの結果をまとめて、内外から、あれやこれやと
批判を受けることが必要であろう。
その意味で、今日、日本医師会から、日本の農村における
プライマリー・ケアの1例として、それを発表させて頂く機会
をえたことは、この仕事を続けてきた責任者の一人として、
たいへんありがたいことである。

思えば、今から15年前、昭和39年(1964年)4月の
第16回日本医学会総会のシンポジウム「医療制度の将来像」の時、
私は「農村医療の第一線の立場から」を発表した。
座長は故関悌四郎教授。
その時、医師会側を代表されて二人の演者が「医師会病院」案を出されたが、
演壇の直下に、武見太郎医師会長以下が、ずらりと並んで、とくに会長が
私などの話を熱心に聞き入っておられた光景を忘れることはできない。
いわゆる「地域医療」の日本的プランは、
この時すでに始まっていたのではないかとさえ考える。
そして、それが今日のプライマリー・ケア問題に、
そのまま直結しているのではないか。
私には、そんな気がしてならないのである。

あの時のシンポジウムのテーマは、やはり、今日の医療の
あり方に対する、私どもの反省ないしは自己批判に根ざしたもの
ではあったが、それとともに、何とか、自分たちは自分たちなりに、
何かを将来に向って実践していかなければならぬという気持ちがあった。
もちろん医療のシステムに関することは、基本的には、
政府や大学などの指導がなくてはかなわぬものである。
しかし、それに対しての批判や要求だけでは、どうなるものではない。
ともかく、各地域の中で、前進を指向する具体的モデルをつくらねばならぬ。
その実践を通じて、社会に訴えるところがなければならぬ。
いや、今日のプライマリー・ケアの問題提起にも、
そのような精神が根源に横たわっておらねばならぬのではなかろうか。

・地域の実態の中で

私どもの仕事を語る前に、まず、私どもの地域を語らねばなるまい。
長野県は、信州、「日本の屋根」である。
その東部の関東につらなるところの佐久平。
北は浅間山、西は八ヶ岳連峰、東南は三国山、甲武信岳、金峰山。
その間を日本一高いといわれるローカルの小海線が走っている。
信越線の小諸駅から、このディーゼル・カーに乗って40分で
「臼田駅」に着く。
そこがわが佐久総合病院が所在する臼田町である。
つい10年ばかり前までは、この駅の名は「三反田駅」であった。
その名のとうり、この地域の農家の平均の水田面積は3反しかない。
水田3反に畑が4反、それほど貧しい農村地域である。

現在の実状でいうと、この臼田町の所属する南佐久郡は、
人口48600人で、3町5カ村。
少ない人口に比べて広大な高原地帯といえよう。
その中に、後述する全村健康管理を行なっている八千穂村も入る。
特記しなければならないことは、現在でもまだ、この郡に2つの
「無医村」(北相木村と南牧村)が存在する事実である。

私どもの病院の、今日の診療範囲といえば、その他に、
隣の佐久市、さらに北佐久郡、小諸市を入れるべきであろう。
佐久市の人口は57100人。
北佐久郡は55200人、小諸市は41400人。
これら、2市2郡で総計約20万人に及ぶ。

この2市2郡の中にある公的病院は8。
国立1、市立1、日赤2、町立2、厚生連2である。
その他に私的病院が7で、総計15病院となる。
その中で、わが病院は、病床数940で、
それは地域全体の病床数のじつに45%を占めている。

以上のような現在の数字について、忘れてはならないことは、
今から30数年前、私がここに東京から赴任した頃は、
全然これと状況が違っていた。
佐久病院の公称ベッド数は僅か20で、診療所みたいなものであった。
もちろん当時の他の病院の数も、公的なものは国立1、日赤1に
過ぎなかったし、無医村も多かった。
典型的ないわゆる「無医地帯」であった。
それが、高度成長の好景気の時期を経て、大きく変化したのである。
その医療施設の、地域の中における異常ともいえる発展の中には、
私どもの病院の努力の影響も、多少はあったかもしれない。

・農村病院の特徴として

私どもの病院は、農業協同組合・厚生連合会に所属する。
いわゆる「農協病院」である。
これが、かつての「組合病院」の連続であることは、いうまでもない。
昭和初年、第一次世界大戦後の不況のかげに、
医者にもかかれず死んでいった多くの農民があった。
村には医者が居なかったし、居ても、医療費が高くて診てもらえなかった。
当時はまだ、国保がなかったのである。
そこで、農民は自ら立ち上って、医療組合運動を展開した。
自分たちの力を結集して、自分たちの「組合病院」を作ったのである。
このような歴史は、世界にも類が少ない。
これには、当時の産業組合の先輩たちの人道主義的な努力があった。
賀川豊彦らの大正デモクラシーの影響もあった。
これが、今日、私どもが病院から農村の中に出て行って、
公衆衛生的活動を行なう原動力となっている。
いわゆる「健康管理」の仕事に特別な力をつくし、
プライマリー・ケア的活動をしているといわれるもののすべては、
ここから始まる。
私どもには、そのような伝統があった。

私どもが、このような公衆衛生的活動を病院として行なうについては、
もちろん細心の注意を払った。
Hospitalというものは、都市的な西欧の定義に従えば、
重症な入院患者の治療サービスが重点であるべきである。
ところが、農村の実状の中では、
そのような専門的立場にあぐらをかいているわけにはいかない。
病院のまわりは、すべて無医村的であって、
外来にもそうとうの力を尽さねばならない。
今日でも私どもの病院を訪れる外来患者は毎日1000人を越している。
その3分の1は新来で、診療所の先生から紹介されてくる者などは、
指で数えるくらいしかいない。
率直にいって、今日、病院と診療所の機能分化など全く見られない。
したがってHospitalといえども、外来に力を尽さねばならない。
ここからアメリカ流のプライマリー・ケアの必要性が起ってくる。
さらに、農協の組合員や一般農民から、
病気の早期発見や予防のための仕事をしてくれという要望がある。
これは先述したとおり、「組合病院」の本来の建て前でもある。
ところが、地域の保健所には、このような仕事に力をかす余裕がない。
結局、これらの、余計と思われるような仕事も、
地域の総合病院が引き受けねばならないのである。
これが農村病院の特徴ともいえようか。

私どもは、このように拡大した仕事への、病院の力の配分について、
「5・3・2の方式」の原則をうちたてた。
病院の仕事の全体の力を10とすると、そのうち先ず5の力を、
入院患者サービスに、つまりホスピタリゼーションに。
次に、3の力を外来クリニックのサービスに。
さて、最後の2の力をもって、村の中に入っての健康管理の仕事に尽す。
この最後の仕事がすなわち、WHOが唱える「開発途上国用」の
プライマリー・ケアに当てはまる、というわけである。

もし、病院が、それ以上に、外来や或いは保健活動にその力を割くならば、
今日の医療と保険のシステムの下においては、経営や財政の面でも、
運営のスタッフィングの面でも、必ずや大きな無理がくるにちがいない。
このようなバランスをくずさないようにやることが、
今日ではとくに大切であることを強調したい。

・プライマリー・ケアと農村医療

最近、有名になったプライマリー・ケアには、アメリカ流の「先進国用」のものと、
ごく最近(1975年)WHOが言い出した「開発途上国用」のものの二つが、
大きく区別されるように思う。
もちろん、その底を流れる発想には、同じ精神、――医療と保健を広く
地域住民に平等に供給しなければならないという、ヒューマニズムがあること
はいうまでもないが、しかし、その両者の間に、
その原理においても、その方法においても、若干の差があるようだ。
いや、農村医学者にとってはその差を認めることこそが大切のように思う。

私どもがとくに指摘したいのは、わが日本の国においては、
その両者の立場がそれぞれ必要だということである。
高度に成長したわが国の、セカンダリー・メディシン、
オンリーの「病院医学」主導型の医療のあり方は、
まさに「アメリカ流の」矛盾を大きく抱いているといえよう。
したがって、そのプライマリー・ケアが必要となる。
軽視され続けてきた地域の診療所活動は、
これをなんとかして正しい形にもどさねばならない。
他方に、無医村やへき地の医療問題が、
今日でもまだ重要な社会問題として、残っている。
「開発途上国用」のプライマリー・ケアが、
無医村地域における医療と保健の供給に重点があるとするならば、
わが国の農村地域にも当然その中に適用すべきものがあるはず。
ことに農村地域で活動する私どもにとっては、この点を看過するわけにはいかない。

プライマリー・ケアをアメリカではっきり打ち出したのは、
昭和41年(1966年)のミリス(Millis)報告あたりがもとではないか。
ちょうどその同じ年に、アメリカのいわゆる地域医療計画
(Regional Medical Program)と地域住民保健計画
(Consumer Health Program)が生まれている。
地域を中心とした、第一線の医療供給体制を良くし、
そこで予防にも積極的活動を行なって、住民のニーズにこたえると同時に、
限りなく増大する総医療費にストップをかけたい。
それには、国が思いきった財政援助をしようという法案なのである。

アメリカ流のプライマリー・ケアの発想の中には、
二つの基本的なテーマがあるように思う。
その第一は、プライマリーとセカンダリー(ターシャリーを含めて)の診療が、
地域の中で、正しい連けいをとりながら行なわれるべきであるという原則。
すなわち、医療の「地域化」(regionalization)の問題である。
第二には、第一線では、患者の治療だけでなく、予防やリハビリ、
生活指導などの健康教育を含めた仕事がなされるべきであるという、
医療の「包括性」(Comprehesiveness)の原則。

わが国の医療は今日、一般の国民の評判がいいとはいいかねる。
「医は仁術」でなく、算術になってしまったなどの悪評もある。
医療のシステムの問題についても、病院と診療所の機能分担はおろか、
相互のよい連携さえありはしない実状である。
病院どうし或いは病院と診療所がケンカしているところさえある。
お客さんの奪いあいをしている。
同じレントゲンをあちらでも、こちらでも撮影している。
予防や相談の仕事はどこへやら、ただ薬をもるだけ、注射をうつだけ、
それで金を儲けるだけ、という傾向が確かにある。

私はアメリカの農村医療の実態を見る機会を数回もったが、
アメリカのように高度の技術が発達し、しかも自由競争のさかんなこの国では、
専門技術主義に陥っているものとばかり思っていた。
ところが、案に相違して、プライマリー・ケアの普及に力を入れていたのである。
周知のように、これを行なう第一線医を「家庭医」(family physician)
と呼ぶのであるが、卒後の特別研修3年を経てから受けねばならぬ
American Board of Family Practice の資格試験の問題集を見せて貰って
たいへん感動した。
非常にpractical な問題ばかりで、個々のcase についての応急処置から、
社会的行動を考えてのアドバイスやカウンセリングなど、具体的なものばかり。
general な、そして、comprehensive な知識が要求される質問であった。
かつてのgeneral practioner に求めたものとは質的に違うようである。
Medicine というよりはHealth といった方がいいようなワイドな医学の内容であった。
しかも、この資格試験は7年に1回ごとに改めて行われるという。
ところが、この資格をもった医者が、すでに一万人も、アメリカ各地域の
第一線で実際に活躍していると聞いて、驚かざるをえなかった。

しかし、日本でも、このような方向への努力がなかったわけではない。
私どもの「農村病院」がかつて「組合病院」として、地域の中で
「無医村巡回診療」などを行なってきた、戦前の歴史については、先にも一言した。
そして、私どもの病院でも、戦後の三十年間、
それなりの、健康管理活動を続けてきた。

武見会長も、その若き日の、新潟県山間部における第一線医療の経験を、
情熱をもって語られる場面に、私はしばしば遭遇している。
また、機会あるごとに、とくに岩手の沢内村や、私どもの八千穂村の経験を、
農村における「地域医療」ないしはプライマリー・ケアのモデルとして
ノミネートして下さっている。

1975年1月、WHO執行理事会で初めて「開発途上国向き」の
プライマリー・ケアが打出されたことは周知のとおりである。
昨年(1978年)9月にはソ連のアルマ・アータで、
プライマリー・ヘルス・ケアの国際会議が行なわれ、
わが国からは厚生省の大谷審議官らが出席された。
このアルマ・アータ宣言によると「プライマリー・ヘルス・ケアとは、
自助と自決の精神に則り、地域または国家が、開発の程度に応じて
負担可能な費用の範囲で、利用できる実用的で科学的な保健サービス」
という定義づけで、「アメリカ流」のそれとはだいぶニュアンスが違う。
「国家の保健システムと地域住民が接触する最初の段階であり、
継続的な保健サービスの第一段階として位置づけられる」
という意義づけなどには、もちろん同一性が濃く見られるが、
開発途上国と先進国の発展の格差をなくそうという基本的モチーフにおいても、
自主独立の精神や住民参加、とくに地域の総合的社会経済開発との結合
を強く主張するあたり、甚だ「第3の世界」的発想が強くうかがわれる。

この会議でマーラー事務局長は、その基調演説のまっ先に、
ソ連の革命後の保健政策、すなわち「予防と医療の統一」と、
「地域医療のシステム化」への努力を高く評価し、ソ連の総合保健政策こそ、
プライマリー・ヘルス・ケアのパイオニアであると称賛していたらしいが、
このような「WHO流」の考え方は、社会主義的なものに直通するのかもしれない。

私どもの知る範囲では、戦後のソ連のジスペンセリザーツィヤ運動などが、
まさしく今日のプライマリー・ケアにあたるものであろう。
昭和26年(1951年)のウクライナにおける農村地区における巡回集団検診、
継続的な観察などのヘルス・ケアの試みが高く評価され、
全国的運動の発端になったという。
これが第一線の「地区病院」の医師たちによって創造されたということは、
私どもにとって、非常に意義深いものがある。
今日、私どもが、農村へき地で行っている、集団検診、出張診療、保健教育
などは、その方法に非常に似ている。

これが同じ「アジア的」プライマリー・ケアといっても、中国の
「はだしの医者」(赤脚医生)の問題となると、だいぶ様子が違ってくる。
中国のような広大な「無医地域」におけるプライマリー・ケアの活動家の養成、
すなわちmanpower training の問題は、この場合最も緊急かつ重要なテーマ
であることはいうまでもないが、しかし、その方法や考え方は、西洋医学を
主体とするわが国やソビエトとは、また自ら違ったところがあるようである。
一般的診療を行うことのできる、この「医士」の資格が、学歴は単に小学校
卒業程度、あとは人民公社の推薦さえあればいいという点などは、
私どもの感覚には合わないものを感ずるのであるが、しかし、これも
「アルマ・アータ」宣言によれば、「その国の開発の程度に応じて」の
「適当な技術」すなわちappropriate technology こそが必要なのであるから、
現段階では止むをえないということであろう。

・八千穂村の全村健康管理20年

私どもが信州の山の中で農村医療の仕事を始めてから、もう34年になるが、
当初一番驚いたのは、農村では重症の「手遅れ」患者がいかに多いかという
ことであった。
病院で重症患者を治療することはもちろん大切だが、重症にならないうちに、
こちらから村の中に出ていって、早期発見をすることの重要性を認めざるを
えなかった。
ここにこそ住民の基本的ニーズがあると思った。

私どもは、無医村的地区に「巡回診療」を試みた。
部落の公会堂などに集まってきた人を大ざっぱな方法でもいいから
総合的に診療して、病気の早期発見をしようとしたのである。
「巡回診療」はしかし、こちらの都合がいい時に行なって診療して
やるということだから、その点首尾一貫した方法とはいえない。
そこでできるだけ計画的、「定期的」な集団検診をやりたいということになった。

病的症状を農民はよく自覚しない。
よく聞くと、いろいろな症状をもっているくせに、それを訴えない。
がんらい百姓には、あちらが痛いこちらが苦しいなどということは
当然なのであって、それを訴えることがぜいたくであるというような、
昔からの「健康犠牲の封建精神」が根づよくあるのである。
これが問題なのだ。

そこで、できるなら各人の自覚というものにたよらずに、
全住民の「一斉検診」をやりたい。
部落なら部落、村なら村全体が一人残らず検診するという方法を
とることが、農村では重要なのである。
農民は自分が何か重い病気にかかっていのではないかという心配
があると、かえって医者に診てもらおうとしない傾向がある。
なかには、働くのに忙しくて、検診などには行っておれないような
貧しい階層も確かにある。

また、私どもがとくに力をいれたことがらは、そのように検診に
よってふるいわけ(ヘルス・スクリーニング)をし、精密検診や
健康相談にもっていくと同時に、さらに、病気を予防する方法を
教えることの重要性である。
ごく一般的な医学知識も農民にはしばしば欠けている。
私どもは早くからこれに気づいて、巡回診療には必ず、衛生講話、
あるいは農村医学をテーマにした劇や映画をもっていった。

健康犠牲の百姓根性と闘うための啓蒙宣伝が、
検診活動にともなって行なわれなければならない。
私どもは村の中へ、自作の紙芝居、指人形などをもっていって、
衛生教育に力をつくした。

ただ、農民の労働や生活や環境を改善するには、それらと健康との
関係を十分に解明しなければ、具体的な指導はできないわけであるが、
そういう社会衛生学が従来欠けていた。
日本の医学はとかく外国の医学であって、日本の国民の生活、
とくに農村のそれとは密着していない傾向にあった。
そこに私どもが「農村医学」を建設しようというモチーフがあった。
農民生活の実態の中での学問的解明がなされてはじめて、
具体的な健康教育、予防衛生の啓蒙ができるのではないか。

さて、私どもの健康管理の経験というと、八千穂村で20年間続けてきた、
いわゆる「全村健康管理方式」が、いちおうその代表的なものとして
あげられると思っている(図1参照)。
これは昭和34年(1959年)から始めたものであるが、
私どもの病院と、村にできた保健委員会とが主になって、
その間にはもちろん医師会や保健所とも十分な連けいをとって行なった。
とくに組織の面では、村の中の部落に重点をおいた。
仕事の面では、病院の技術者と村の医者、
それから国保の保健婦などが一体になってやった。
とくに部落から選出された青年団や婦人会の代表との連けいが重要であった。
私どものような医療保健の技術者のサイドでなく、
住民被検者の側からえらばれた代表(これを「衛生指導員」と名づけた)
20名の自主的活動こそ、この仕事を真に住民のものにするために、
大きな役割をはたしたと考えている。

八千穂村でこの方式を始めた頃は、初めは1人100円方式であったのが、
次第に検診内容も精密かつ多岐になって、昭和53年(1978年)度では
ついに4200円方式になった(表1参照)。

じつは、昭和48年(1973年)になると、私どもの病院に
「長野県厚生連・健康管理センター」が付設されるようになり(後述)、
そこでは、高度のヘルス・スクリーニングが行なえるような施設がととのった。
すなわち、血液のオートアナライザー(テクニコンの20チャンネル)、
中型コンピューター、心電図の自動診断機、
その他のオートマチックな計量機などが導入された。
そこで、現在では、八千穂村の集団健診の内容も、
それに応じた高度なものになったわけである。

今日では、健康に関する農民のニーズが(もちろん、まだすべての農民
というわけにはいかないが)、そこまで高まってきているのである。

昨年からは、小・中学生の検診も行なう
(それまでは、15才以上の村民を対象)ようになって、文字どおり全村民に、
健康手帳と健康台帳による健康管理がなされることになった。

また、健康教育と事後指導の方法も、大きな進歩を遂げたといえよう。
結果報告会の内容も複雑なものになったし、住民の参加も活発になった。
部落の健康相談や衛生教育はさらに進んで、新しく「健康教室」
とくに「糖尿病」や「高血圧症」の教室が好評をもって迎えられている。
脳卒中患者のリハビリテーションの指導も恒常的に行なわれている(図2参照)。

さて、このような健康管理の結果はどうなったか、といえば、
死亡統計では、脳卒中、呼吸器疾患、老衰などの死因が減少した。
乳幼児死亡率、周産期死亡率は、いずれも他地区にくらべて減っている(図3参照)。

しかし、村の有病率をみると、感染性疾患などは別にして、総体的には、
案外に減っていない。
減っているのは「手遅れ患者」なのである。
恐らく、それに大きく原因しているのであろう、
村の国保の総医療費が著しく減ってきたのである。
現在の健保財政ではとても「予防給付」などできない、と厚生省は言うが、
八千穂村の1人当り総医療費が検診事業を始めてから「いかに低くなったか」
を表でみると一目瞭然である。
検診を開始したての頃の同村は、同村の属する南佐久郡あるいは長野県、
全国の総医療費と比較して高かった(一般に山村などは、老人も多く、
潜在疾病も多いため都市部よりも1人当り医療費は高い傾向がみられる)
が、しかし、年々低下傾向がみられ、検診開始後6年目頃からは、
ずっと低くなってきた。

表2でも明らかなごとく、八千穂村では現在(昭和52年度、1977年度分集計)、
南佐久郡や長野県全体と比べても、1人当り医療費で12000円程低くなっている。
因みに、同年度の検診費は1人当り3800円
(個人負担700円、村負担3100円)であり、
「予防に金を使うことは結局、村の医療費を大きく減らしている」
事実を証明しているのである。

この健康管理にまだ問題がないわけではない。
農業の兼業化が進むに従って、近所の小工場に働きにいっている者がふえ、
それらの受診率が悪いこと、また健康手帳と病院の患者カルテの連けいが良くない
ことなどの問題がまだ残っている。

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