運命変えられた住民 犠牲 福島県南相馬市長 桜井勝延

4年前の3月11日に起きた大地震。
市議会一般質問中、突然の縦揺れだった。
経験したことのない大津波がやってきた。
南相馬市では海岸沿い41平方キロが破壊され、
1800世帯が壊滅した。
12日、東京電力福島第1原発で爆発が起きた。
テレビで1号機建屋が吹き飛んだと確認し、
屋内退避を呼びかけた。
13日、14日と事態は悪化し、3号機建屋も爆発。
ほとんど睡眠も取れない中で、市職員は対応に追われた。

市内に物資が入らなくなり、市民は自力の避難を余儀なくされた。
16日、泉田裕彦新潟県知事から「南相馬市民を全て受け入れる」
と申し入れの電話。
九死に一生の救いだった。
原発から20キロ圏内は避難指示、30キロ圏内は屋内退避
と国は決めたが、詳細な情報はほとんど入らなかった。
物資も入らず、まさに兵糧攻め。
避難指示、、、どこへ?
屋内退避、、、いつまで?
誰が責任を持つの?
方法も時期も示されず、住民無視ではないか。
市民は隣の飯館村へも、浪江町にも避難した。
ところがそこは、汚染度が極めて高い場所だった。

国は「原発は安全。クリーンだ。コストが安い。
温暖化対策に有効」と言い続け、事故を想定してこなかった。
30年経過した原発も「60年は大丈夫」と言い、
プルトニウム・ウラン混合酸化物燃料を燃やす
プルサーマル発電も許可した。
だが原発事故は国と東電の言い分を全て覆した。
「危険で、大放射能汚染を起こし、コストは莫大(ばくだい)
で算出さえできない」と。
都会は優雅な生活を送り、福島の住民が犠牲になる。
住民の命は、首都圏の生活より軽いのだ。

「3・11」前に人口7万1千人だった南相馬市から、
一時的に約6万人が避難した。
今も約1万2千人が戻れない。
約8千人が転出をした。
放射能の恐怖から、子どもたちを中心に若い世代の多くが
帰還できずにいる。
帰還した市民、避難中の市民も、国の発表、決定に左右されながら
不安と不信の中にある。

国は原発促進のためにさまざまな交付金を出してきた。
地方は地域振興策として原発を受け入れ、
交付金で自治体運営をしてきたと言っても過言ではない。
私は東電、東北電力の株主総会で脱原発議案に賛成をした。
もちろん電源立地地域対策交付金(原子力分)
などの申請を見送った。
全ての市民の運命が変えられ、
いまだに放射能の恐怖に苛(さいな)まれているからだ。

南相馬で地震・津波による死者は636人。
原発事故の避難によって400人以上が亡くなり、
自殺者も後を絶たない。
原子力推進にいまだ固執する東電や国は「フクシマ」を
真剣に捉えないと、同じ過ちを繰り返すことになる。
広島の平和記念公園には「安らかに眠って下さい
過ちは繰返しませぬから」と書かれている。
今、政治家は、当たり前のことを住民目線で、
国民目線で、現場感覚で、決断することが重要だ。

さくらい・かつのぶ 
1956年福島県原町市(現・南相馬市)生まれ。
岩手大農学部卒業後、26年間酪農と稲作を営む。
南相馬市議などを経て2010年から現職。
福島第1原発事故を受けて発足した「脱原発をめざす首長会議」世話人。
共著に「闘う市長」。

(信濃毎日新聞 2015年3月8日)

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