「義」の経営で地域を支える住民立の「おらが診療所」

==遠い過疎地の美談ではなく大都市部の明日の姿==

群馬県東吾妻町には、国内でも珍しい「住民立」の大戸診療所がある。
地域そのものを病院に見立て、癒しの大空間をつくっているという。
前身の国立結核療養所・長寿園の存続運動から「義」を背負って
経営を仕切る人がいる。

「脱混迷ニッポン」  医療法人坂上健友会常務理事 今野義雄

こんの・よしお 1946年、福島県浪江町生まれ。
福島県立小高工業高校卒業後、三菱金属鉱業に入社。
1975年、全日本国立医療労働組合に勤務。
全医労群馬地区協議会役員として国立結核療養所・長寿園存続運動に専従。
1994年に大戸診療所を設立し、事務長として運営にあたる。
2013年、第22回若月賞を受賞。

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無宿の博徒(ばくと)にして、任侠で鳴らす国定忠治こと長岡忠次郎が
大観衆の前で壮絶な磔の刑に処せられて160年余り。
その刑場だった大戸(おおど)の関所跡(群馬県吾妻(あがつま)郡東吾妻町)
を右手に三叉路を西に折れて国道をしばらく進むと
「医療法人坂上健友会・大戸診療所」がある。

ほかに例のない「住民立」の医療機関だ。
世帯数1100、人口3050人の坂上(さかうえ)地区の人々が資金を出し合って、
1994年にこしらえた「おらが診療所」である。

かつて忠治は天保の飢饉で、国定村の民にコメを配り、
沼の浚渫(しゅんせつ)も差配したという。
幕府への挑戦を承知で、治山治水に手を出した。
アウトローなりの筋を通したのだろう。

そして現代、住民の先頭に立って診療所を設立し、経営にあたる
今野義雄(こんの・よしお)にも「義」の一文字がよく似合う。


・地域全体が癒しの空間

今野が全日本国立医療労働組合群馬地区協議会役員として、
はじめてこの地に足を踏み入れたのは1978年だった。
山深い、上州屈指の豪雪地帯の第一印象が今野の網膜に焼きついている。

「雪が降って何時間経っても、玄関や庭先に足跡がひとつもない
家が何軒もあった。
その家の人はどうやって暮らしているのか。
遠い人は40分かけて国道まで出て、バスを使わなくては
病院にも行けません。
同じ日本国民で健康保険証を持っていながら、
医療を受けたいときに受けられない。
何とかしなくちゃという気持ちでずっとやってきました」

大戸診療所は開設以来、毎日、患者の送迎を続けてきた。
山間地の場所柄、医師を常駐させるのは難しい。
そこで発想を転換した。
内科や外科、精神科などの医師に日替わりで診療を託し、
「一週間通せば総合病院」という体制を築く。
介護部門の「デイケアおおど(通所リハビリテーション)」
「デイサービスセンターおおど(通所介護)」施設も併設した。
ケアマネジャーや介護福祉士、ヘルパーたちが
居宅支援、訪問介護にも取り組む。

今野は「地域そのものが病院で、診療所は診察室で、
それぞれのお宅が個室。
車での送迎は院内の廊下を移動しているようなもの」と比喩的に述べる。
地域全体を癒しの大空間に見立てているのだ。

診療所長の高栁孝行(たかやなぎ・たかゆき)医師は
「職員が地元の人なので患者さんとのつながりが深い。
それぞれの家庭事情も知っているので診療はやりやすい」と言う。
大戸では診療所を核に、医療と介護の垣根を越えて住民をカバーする
ネットワークが築かれた。

ただし、救急や急性の専門的治療を要する患者は、無理をせず、
12キロ離れた原町赤十字病院などへ送っている。
大学病院でギラン・バレー症候群という根神経炎の難病と診断された
高齢の女性は、大戸診療所での通所リハビリについて、こう語る。

「立てなかったのが、週に2回のリハビリに2年通い、
歩行訓練ができるようになりました。
今野さんには感謝しています。
今野さんは毎日40キロも離れた渋川市から通ってきて、
長寿園(後述)の存続運動から数えたら、
30年近く地域の医療を支えてくれている。
若月賞(注)にふさわしい人です」

長寿園とは、日中戦争が始まって間もなく、現在の診療所から
数キロ離れた山懐に建てられた国立結核療養所のことだ。
大戸診療所の創設は長寿園の存続運動を抜きには語れない。
国の理不尽な国立医療機関廃止策に住民と今野らは7年間も
立ち向かった。
激しい闘争は「住民立」の診療所を生みだす命がけの助走でもあった。
その前史を記しておこう。


・口を滑らせた中曽根

長寿園は、群馬県各地で「結核患者の施設など真っ平ごめん」と反対運動で
計画が次々と潰された末、1939年に坂上地区に建設された。
当時の県知事が無医地区だった坂上にやってきて
「一般患者の療養も受けつける」と村人を口説いた。
戦後、医療技術の革新で結核患者が減ると、
入院ベッドの8割を地元の高齢者が占めるようになる。
長寿園は「お迎えを待つ」ために、なくてはならない病院となった。

84年8月、当時の中曽根康弘首相は「建物の老朽化、赤字、遠距離」
を理由に国立医療機関の統廃合の第一号に自身の選挙区になる長寿園を選んだ。
行政改革に向けて「まず隗(かい)より始めよ」
と自慢するためのパフォーマンスのようだった。

厚生省(現厚生労働省)は86年4月に西群馬病院
(現国立病院機構西群馬病院)に長寿園を統合すると発表した。
だが、代替の診療所や特別養護老人ホームの新設プランはあやふや。
全医労地区役員の今野は、地元の顔役で福田派の自民党町議だった
高太(たか・ふとし)(故人)を訪ね、長寿園存続運動への協力を請うた。
すると高は斬りつけるように言った。

「おまえら、今まで何をやってきたんだ。
公務員の身分にあぐらをかいて、ましな医療をやってこなかったから、
こんなことになったんだ」

急所をズバリ突かれた。
この人は手ごわい。
ただ話がわかれば味方になってくれると今野は直感した。
高のもとへ通いつめる。
高は運動の住民代表に就いた。
今野はふり返る。

「先行した国鉄分割・民営化への反対運動を見て、
組合だけではダメだ、もっと住民と結びついた運動をしなくちゃいけない、
おれは絶対に住民と一緒にやろうと思ったんです」

高ら有志はバスを連ね、30回近く霞が関の厚生省に陳情に通い、
ムシロ旗を立ててデモをした。
高は86年3月、今井勇厚生大臣に直談判した話を次のように記している。

「(住民が)聞いてもらいたい話を切り出すや『ハイ次ぎ』と言って、
無視した大臣の態度に、私は前後の見境もなく食いつきました。
言葉はよく覚えていませんが、大臣が激怒顔面蒼白となり立ち上がり
部下に支えられて退席しました」(『長寿園存続運動7年の記録』)

今井はとりなされて交渉の席に戻るのだが、高も今野も必死だった。

そんなおり、参議院予算委員会で長寿園問題の答弁に立った首相の中曽根は、
「(長寿園は)ちょっと近代性がないんですね。
それで吾妻町の坂上という山の中の奥山の中にあるんです」と口を滑らせた。
見下された住民は怒りに震える。
高は今野に黙って、同僚の自民党員を糾合して高崎市の中曽根事務所に
「脱党届け」を叩きつけに行った。
高もまた胸奥に「義」を抱える熱い人だった。


・「患者を殺す気か」

86年の統合期限から3年、4年と長寿園は存続した。
焦った厚生省は膠着状態に決着をつけようと、90年3月末日をもって
長寿園の入院患者18人全員を強制的に西群馬病院へ移送する方針を打ち出す。
長寿園の敷地には立ち入り禁止の杭が打たれ、私服警官の一団が状況を検分する。
強制移送の当日には、機動隊員1000人を動員する手順が整えられた。
住民側は移送車輌の前に寝転んで止める方法を話し合う。

土壇場での交渉が始まった。
90年3月29日、住民、全医労、患者同盟と厚労省幹部が向きあう。
住民は「国民の命を守る厚生省が、息も絶え絶えの患者をベッドから引き剥がして
1時間以上かかる病院へ運ぶのか。
患者を殺す気か」と迫った。

30日未明、厚生省は「移送を3ヵ月延期し、円満に行いたい」と折れた。
加えて「地域医療を守る立場から、地元から医療機関・施設等の相談があれば
厚生省として最大限の努力をする」と約束した。
組合運動が先細るなかで、「蟻がライオンを食い殺した」と関係者は自賛した。
もっとも厚生省が患者移送を強行していたら、いくらバブルで世の中が
浮かれていたとはいえ、メディアの集中砲火を浴びていただろう。

闘い終わって日が暮れて、全医労と住民の連絡役を担ってきた今野の心には
寂しい空っ風が抜き抜けた。
結局、患者移送は伸びたけれど長寿園はなくなったのだ。

「あんたたちは転勤できるから、いいよな。
おれらはここから離れられねぇ」。
そんな住民のひと言が胸に刺さった。
今野は腹を決めた。
逃げない。
診療所をつくってやろう。

土地や建物、医師、スタッフをそろえて診療所を立ち上げるには
1億3000万円の資金が必要だった。
運営主体の医療法人も新設しなくてはならない。
今野は長寿園の存続運動にかかわった住民や関係者に
法人社員になってくれるよう呼びかけた。
100万円、200万円と「普通の人」が金を持ち寄る。
長年、国立病院で栄養士だった独身女性は「持って行くところがないから」
と2000万円を提供した。
1口1万円で「友の会」を結成すると、1500万円が集まった。

合計6500万円の「身銭」が積み重なった。
それを基金として金融機関からも借り入れる。
94年の医療法人認可では、厚生省も”裏”で「最大限の努力」を払ったようだ。
と言うのも、医師ではなく住民の医療法人申請を県が認めたケースはきわめて珍しい。
通常、国の強い意向がなくては、県レベルでこのような判断は下せないものだ。

地元で運送業を営む轟榮(とどろき・さかえ)は
「診療所が続くかどうかもわからなかったが、みんなで協力した。
今野さんが大ごとしたんさ。
経営の手腕がないとできねぇな」と心情を口にする。

かくして大戸診療所は船出した。
今春まで看護師長だった篠原惠は
「開設当初は、夜中でも患者さんから自宅に電話があった。
便秘がひどいので浣腸ないか、なんてね(笑)」と懐かしそうに言う。


・人を集めたければ祭り

診療所が開かれて20年が過ぎた。
歳月は、診療所を中心とした医療・介護ネットワークを地元に定着させる
とともに、地域自体を変容させた。
この間に坂上地区の人口は800人近く減り、
60歳以上がほぼ半数を占めるに至った。
すでに、「超高齢社会」。
このまま5年、10年過ぎれば、どうなるのか、、、。

「地域・産業・若い世代の受け皿づくりが、最大のテーマです。
診療所は介護部門を手厚くして、ショートステイの準備もしています。
つい最近も、デイケアに来ていた女性が車椅子に座ったまま息を引き取られました。
いつ、誰が、どこで亡くなっても不思議ではない。
だから診療部門のスタッフにも介護資格を取ってもらいます」と、今野は語る。

大戸診療所の挑戦を遠い過疎地の美談で片づける人もいるだろう。
しかし、自らのまわりを見てほしい。
大戸の現状は、首都圏を含む大都市部の明日の姿である。

2025年、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる。
年間の死亡者数は現在の120万人台から160万人台、
認知症の高齢者数は230万人から320万人に増える。
死を迎える場所の見通しが立たない「看取り難民」は、
47万人に達するともいわれる。

厚労省は、こうした状況に医療と介護の「地域包括ケア」
で応じる施策を打ち出しているが、病院や施設は偏在している。
何よりもネットワークの構築は、能動的に動く「人」が鍵を握る。
その人を育てる方法は手探りの状態だ。

今年8月24日、大戸診療所に近い坂上小学校に人が押し寄せた。
長寿園存続運動のころから続く「健康まつり」だ。
模擬店や歌謡ショー、元首長の「地域づくり」の講演会が開かれる。
「人を集めたければ祭りをすればいい」。
昔、ラジオから流れてきた永六輔の言葉を今野は実践している。
日が落ち、向かいの山から尺玉の花火が打ち上げられた。

「きれいだねぇ、今年も見られたね」
と子どもを連れて帰郷した男性が老いた母に囁(ささや)く。
この日、祭りには約6000人が集まった。
地区の人口は2倍に膨らんだことになる。
地域が溶けてなくならないよう、今野は懸命に踏ん張っている。
(敬称略)


(注)長野県佐久市で佐久総合病院を育て、農村医療を確立した外科医・
若月俊一の功績を讃え、地域医療に貢献した人物に贈られる賞。
1992年に制定。


写真キャプション: 
==「診療所は命の綱」と通所リハビリに通う女性は語る。大戸診療所外観。
==介護サービス利用者も診療所の患者とは別便で送迎する。デイケアで。
撮影筆者


筆者: 山岡淳一郎 やまおか・じゅんいちろう 
ノンフィクション作家。
著書に『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、
『放射能を背負って 南相馬市長桜井勝延と市民の選択』
(朝日新聞出版)ほか多数。

「週刊金曜日」2013・10・18(964号)掲載:

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