原理が全く異なっている

自由と信仰 仏週刊紙銃撃を考える

同志社大大学院 内藤正典教授

パリの風刺新聞シャルリエブドなどに対する卑劣なテロは
世界を震撼(しんかん)させた。
表現の自由はどこまで許されるか、信仰を侮辱することが許されるか
という議論が盛んに交わされた。
だが、衝突の原因は表現の自由だけではない。

フランスのイスラム教徒はかつての植民地だった北アフリカや
西アフリカから20世紀後半に渡った移民が多い。
第一世代の人たちは、
食べるのに精いっぱいで信仰の実践に熱心ではなかった。
ところが世代が代わるにつれて、イスラムに回帰していく若者が増えた。
多くが社会的、経済的に底辺層にとどまったため、
彼らはフランス社会の格差にあえいでいた。

2005年にはパリ郊外で起きた警官隊との衝突で、
少年が命を落とし暴動に発展している。
移民の若者はフランスの自由・平等・博愛を実感できなかったのである。
彼らの中からイスラムへの回帰が起こる。
イスラムは戒律の煩瑣(はんさ)な宗教だと思われているが、
人間に規範を示す一方、許された範囲では快楽を求めることが奨励される。

若者たちは、フランス社会に求めても得られなかった自由や平等を
ムスリムのコミュニティーに発見していく。
移民同士の思いやりや相互扶助、これもイスラムの根本的価値であり、
すさんだ生活から抜け出し、生きがいを見つけることができた。
だが、イスラムは内面の信仰だけでは成立しない。
規範が示されている以上、それを社会でも実践しなくではいけない。
社会を「聖」と「俗」に分ける発想はないのである。
そこでフランスと衝突が起きた。

フランスには、公の領分は宗教から中立という原則がある。
これは、長い教会との闘いの末に、フランス共和国の市民が勝ち取った
権利であり絶対に譲れない。
フランスは宗教から切り離された世俗の国なのである。
言論空間でも自由は高度に保障され、
教会や神を冒涜(ぼうとく)するのも権利のうちとされる。

信仰の道を進もうとする若者たちは、イスラムを表に出した途端に
国から制止された。
成人したイスラム教徒の女性は髪やうなじなどに羞恥心を感じるので
スカーフなどで覆う。
フランスは法律で公教育の場での着用を禁じた。
スカーフはイスラムのこれみよがしなシンボルだというのである。


フランスの自由とは「神から離れることによる自由」であり、
イスラム教徒の自由とは「神と共に在ることによる自由」である。
イスラム教徒にとって、預言者ムハンマドは、彼がいてくれたからこそ
今の自分があると言ってよい存在である。
シャルリエブドはその預言者を執拗(しつよう)に嘲笑し風刺した。
フランス市民にとってはこれも権利の一つだが、
イスラム教徒にとっては自己を全面的に否定されるに等しかった。
暴力に訴えない圧倒的多数の信者も怒りを胸に秘めていることに
疑いの余地はない。

イスラム教徒にとって預言者の冒涜はヘイトスピーチでしかない。
フランスでも人種や民族をあざけることは禁じられる。
フランス人にとって信仰は選択的なものだが、一度覚醒したイスラム教徒
にとっては選択の余地のない、人種や民族と同じ属性なのである。

この問題について歩み寄る余地はない。
双方が全く異なる原理に基づいていることを一刻も早く認識し、
共存の道を見いだす以外に衝突回避の道はないのである。


ないとう・まさのり
56年東京都生まれ。
東京大大学院中退。
一橋大教授を経て10年から現職。
専門は現代イスラム地域研究。
著書に「イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北」など。

(信濃毎日新聞 2015年1月17日掲載)

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