護憲ではない、制憲を

「戦後」の墓碑銘  白井聡

10月24日に矢部宏治(やべこうじ)著
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社)が刊行された。
著者の矢部氏は、孫崎享(まごさきうける)『戦後史の正体』や前泊博盛
(まえどまりひろもり)編『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』
を含む「戦後再発見」双書(創元社)の仕掛け人の編集者である。
『戦後史の正体』の読者から矢部氏に来たメールには、こう書いてあったという。
〈三・一一以降、日本人は「大きな謎」を解くための旅をしている〉。
まことにその通りだと思う。
その旅とは、「戦後」を終わらせるための旅にほかならない。
本書はその水先案内の役割を果たすにふさわしいものであり、3・11以降
刊行された書物のうちで、私の知る限り最も重要なものの一冊である。

=合法的傀儡政府=

3・11以降、多くの国民が素朴だが決定的な疑問にとらわれている。
すなわち、なぜこの国では、ある分野の事柄については、どれほど合理的な反対や
批判があろうとも、民意は絶対に尊重されず、政策は強行されるのか。
その「ある分野」とは、米軍基地(日米安保体制)問題と原子力である。

福島第一原発の事故以降の光景は実に驚くべきものだ。
すなわち、福島の原発事故を遠くから見たドイツやイタリアが原発から足を洗う判断
を下したというのに、インチキな収束宣言が繰り返されるなか、
惨事を引き起こした当事者(東京電力)は解体もされず、誰の訴追もされない。
そして、原子力問題が選挙では誤魔化されるなか、原子力政策を推進した張本人たる
自民党が政権に復帰、推進政策への回帰が露骨に企てられている。
この過程で、事故によるあらゆる種類の被害は、当然否定され
隠蔽(いんぺい)されるであろう。

そして、米軍基地問題も基本構造は同じである。
沖縄でどれほど基地反対の声が高まろうとも、政府の姿勢はビクともしない。
米軍基地の場合、構図は原子力問題よりもさらに厄介(やっかい)である。
というのも、横田空域をはじめとして、首都圏、いや事実上日本全土が米軍にとって
好きなように使うことができる空間として規定されているという重苦しい事実は、
本土の人間の日常生活では滅多に意識されないからである。
オスプレイ輸送機の本土上飛行ルートについて日本政府が何ら容喙(ようかい)
できないという事情を、当時の野田佳彦(のだよしひこ)首相が口にしたとき、
この事実はうっかり表に出てしまったのであった。

矢部氏の新刊は、「基地と原発」を止められない理由を同一のものととらえる。
それは要するに、アメリカの意志と、アメリカに自発的に隷従することによって
国内での権力基盤を強化しつつ対米従属利権をむさぼる官僚・政治家が
日本の中枢部を牛耳っているという構造である。
矢部氏の新著の画期性は、かかる状態、言い換えれば日本政府とは米国の傀儡
(かいらい)にほかならないという状態が”法的に根拠づけられている”
という事実を、平易かつ誰もが認めざるを得ない形で(公開資料を根拠として)
提示したことにある。
すなわち、基地の場合は日米安保条約と地位協定、原発の場合は日米原子力協定ーー
これが日本の国内法の上位に位置し、かつこの優位性は、法的に確立されている。
1959年の砂川裁判により、安保条約のごとき高度に政治的な問題について
司法は憲法判断から逃避することを自ら決め、そしてダメを押すように2012年の
原子力基本法改正によって同法には「安全保障に資する」の文言が取り入れられた。
この二つを足し合わせれば、出てくる結論は次のようなものとなるだろう。
すなわち、福島原発事故の賠償問題も含め、今後原子力問題について憲法上の
人権保障とのかかわりで訴訟が起こされたとしても、司法は安全保障問題であること
を盾に憲法判断を回避できる、ということである。

確かに、戦後憲法には民主主義の原則や基本的人権の尊重
やらが立派に書き込まれている。
しかしそれらは決定的な局面では必ず空文化される。
なぜなら、権力の奥の院ーーその中心に日米合同委員会が位置するーー
における無数の密約によって、常にすでに骨抜きにされているからである。
つまり、この国には、表向きの憲法を頂点とする法体系と、
国民の目から隔離された米日密約による裏の決まり事の体系という二重体系が存在し、
真の法体系は当然後者である。
言い換えれば、憲法を頂点とする日本の法体系などに、大した意味はないのである。
官僚・上級の裁判官・御用学者の仕事とは、
この二重体系の存在を否認することであり、それで辻褄(つじつま)が
合わなくなれば二重の体系があたかも矛盾しないかのように取り繕うことである。
この芸当に忠実かつ巧妙に従事できる者には、汚辱に満ちた栄達の道が待っている。

かくして、戦後日本には、世界で類を見ない体制が成立した。
それはすなわち、「世界一豊かで幸福な極東バナナ共和国」
とでも呼ぶべきものである。
傀儡政府は珍しいものではない。
しかし、かつて中南米に多数存在した「バナナ共和国」では、
もちろん誰もが傀儡政権の傀儡性を理解していた。
日本のそれこそ万邦無比(ばんぽうむひ)たる所以(ゆえん)は、
この傀儡性に社会全体が無自覚であり、
メディアを含む支配層が全力を挙げてこれを否認するところにある。
このメカニズムのなかで、この国の住民は、平和と繁栄を謳歌(おうか)し
幸福を享受してきた。
この精神状態がなおも続くならば、幸福の微笑みを浮かべる者たちは、
それが引きつった卑屈な作り笑いへと変質していることに気づかないままに、
幸せそうなふりをするのを止めた者たちを迫害するのであろう。

=占領の継続は当然=

矢部氏は、いわゆる改憲・護憲論争に対しても重大な論点を提起している。
護憲だろうが改憲だろうが、右に見た二重体系を解消できないのなら
何の意味もないという重い事実を、
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は突きつけている。

矢部氏は、これまでの護憲運動が反動的な改憲の動きをせき止めてきたことを
一定認めつつも、近代民主国家の憲法の原理的問題に言及する。
それはすなわち、外国軍の占領下で、その圧倒的な支配力の下に、
何らの民主的な手続きなしに民主主義を根拠づける憲法が制定される、
などという事態は、端的に荒唐無稽(こうとうむけい)であるという事実だ。
ここでは「内容が素晴らしいのだからいいじゃないか」
という護憲派の論理は成り立たない。
しばしば指摘されてきたように、欽定憲法たる大日本帝國憲法の改正プロセスに従って
民主主義憲法を定めたという事態が、旧体制(アンシャンレジーム)を利用しての
民主化という占領政策の矛盾した本質を濃厚に反映しているのであり、
ここでは誰が(当然それは国民自身でなければならないのだが)
この憲法を定めたのか、永遠に確定できない。
つまり、どれほど条文の中身が素晴しかろうが、それを定め、
国家に強制する主体=国民はのっけから存在していない。
この構造は、先に見た二重の法体系をつくり出すものにほかならない。

以上から明らかになるのは、これまでの改憲・護憲陣営の多くが、
どれほど的を外した議論で堂々めぐりを続けてきたか、ということだ。
そして、不毛な議論が続く限り、改憲でも護憲でもない、
民主制国家が必ず通らなければならない過程、
すなわち制憲の問題は、視野の外に置かれる。
このことはもちろん、永続敗戦レジームの延命に寄与する。
そして、制憲権力とは革命権力にほかならない。

われわれは知るべきであろう。
ポツダム宣言第12項、
「前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ
平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於イテハ
聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ」
は、厳密な意味で正しく履行されているということを。
この条項は、現在まで続く米軍駐留と矛盾するものだとしばしば言われる。
しかし、「責任アル政府」が現に存在しない以上、
占領が続くのはむしろ当然なのである。
(敬称略)

しらい・さとし・文化学園大学助教。著書に『永続敗戦論』(太田出版)。

(週刊金曜日、2014、11、7掲載)

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