戦争体験記 少年飛行兵特攻隊員として

まるやま丸山 しげお重雄(松本市在住)

宇都宮陸軍飛行学校にて(18歳)

大正15年生まれの私は、昭和16年発生の太平洋戦争にさきもり防人として参加すべく出
生しました。小学生の頃は日中戦争の最中で、軍国主義教育を叩き込まれました。教科
書では日清・日露戦役の将兵が讃称され、巷全域には軍歌が流れていました。

小学校卒業近く、担任教師は男子の家庭訪問に奔走、卒業後は海軍予科練、陸軍少年航
空兵、満蒙開拓義勇軍へと、推奨していました。私は校長推薦で師範学校に決まってい
たのを断り、陸軍少年飛行兵学校を経て東京陸軍航空学校へ入校しました。16歳でした


学生服(軍服)を着ると一人前の兵隊に見られました。教育訓練は分刻み、休日無しの
苛酷なもので、国のために身命を賭す精神教育も徹底され、飛行機操縦も猛訓練でした
。やがて私は希望の戦闘隊に配属され、中国石家庄市駐屯の隼××部隊に赴任、九七式
戦闘機を単身で操り、自由自在に大空を飛ぶ心技は男みょうり冥利に尽きるものでした


ところが19年10月訓練中に高度2000?でエンスト、失速しないよう機首を下げ滑空降下
、身を屈め機内に潜ると同時に接地、激突転覆大破、意識回復後ようやく機内から脱出
し、救護隊に救出されました。

翌20年北京南苑基地に移動、3月に隊長から、軍司令部からの命令で航空各隊は特攻訓
練に移行すると告知されました。海軍が先行した件で、「遂に陸軍にまで来たか!」と
戦況危機を知りました。各人隊長室に呼ばれ、特攻志願の心意を問われましたが、部下
思いの隊長の苦悩に満ちた顔を見ると、「希望する」としか答えられず、後に全員希望
したと知りました。

翌日から降下訓練に挑みました。当初45度でも急角度ですが、「角度が浅い!」と指摘
され、限度の60度は垂直降下の感覚で、エンジン加速で降下しているので、機の制限速
度を越え、空中分解寸前、片手で楽に操れるはずの操縦桿はガタガタ振動、両手で全力
で機首上げ操作をしなければ地上に激突即死です。訓練中4名の同期が吾が目前で命を
絶っています。顔、原形なくかいめつ潰滅、無惨です。急降下しながら全力でUターン
し、上昇時強烈な遠心力で頭の血が下がり、一時失神状態になりますが、機は上昇を続
け、高度2000mに達したらまた急降下、繰り返し6回実施し訓練は終了します。着陸し
機外に出るとまともに歩けないほど体力を消耗しており、食事ものど喉を通らないまま
熟睡です。

休日無しで命がけの訓練続行。夕食時は18、19歳の青年ながら女性の話など皆無、冷酒
をがぶ飲み(特攻隊では18歳から酒・煙草支給)し、「ダンチョネ節」を大声で歌うの
が気晴らしでした。雨天なら訓練休止ですがほとんど雨は無し。?雨の十日もヨー降れ
ばーよいダンチョネ”の歌は、隊長以下全隊員の本音でした。

静岡県出身のM、18歳の淋しがりでした。大酒をあお呷り泥酔すると私が介抱役でした
。やけ自棄酒で気をまぎ紛らしていたのです。20年6月6日沖縄でさんげ散華したMの別
れ際の言葉、「丸山! 俺、先に行って靖国神社で俺の横に席を取って待っているから
な!」Mの声は68年後も私の脳裏に鮮明です。

練習機(赤トンボ)

60余人の同期のうち6~7月に3隊(1隊7~9名)が沖縄へ先発、残った者もいつ指名され
るか戦々恐々でした。皆疲労こんぱい困憊の上、死に臨む緊張もあり、食は特上の献立
でしたが栄養にならず、目は鋭く頬はこ痩け別人のようなぎょうそう形相になりました
。話す言葉少なくちんうつ沈鬱の毎日を送りました。

20年8月15日午前、全員営庭に集合、天皇の玉音放送を直立不動で謹聴しましたが、電
波状態悪く内容不明。翌朝隊長から「日本はポツダム宣言を受諾し、戦争に負けた!!」
と青天のへきれき霹靂、一同声を失いました。命がけの猛訓練に挑んで来たこと、貴重
な若い命を捧げた戦友の死は役に立たなかったのか? など悔しさで一杯でした。九死
に一生を得た、と感じたのは相当後のことでした。

11月に中国政府軍から飛行可能の機と操縦要員その他を要請された時、私はどのみち途
死んだ身とやけ自棄で志願し、10機の戦闘機と共に同期14名は中国空軍にこよう雇傭さ
れました。21年6月、米軍の視察があり、吾等は「カミカゼ」という危険人物と言われ
強制送還され、3回目の命拾いをしました。

米軍の船で長崎港に上陸し、懐かしの故国に帰着しましたが、敗戦の負い目を感じ顔を
隠しながら帰宅、早朝、家の炉端に横たわっていると、起床した母が「重雄じゃないか
!!」大声で叫ぶと同時に私にしがみつき、「よく無事で、帰ってきてくれた…」と涙、
涙でした。1年近く音信不通でしかも特攻隊員になったと感知し、母は茶断ちし氏神社
に日参して私の無事を祈っていたと弟から聞きました。

当時「特攻くずれ」と言われる者が都市部でやけ自棄になって悪さを働き、人々に忌み
嫌われていると新聞で知りました。2年近く隠遁の生活をした私は、25年に警察予備隊
(後に自衛隊)の募集に応じ、身を隠すように入隊しました。自衛隊に入って職務を与
えられ心機一転、自分は生かされて居るんだと自覚し、世の為人の為に尽力をと誓いま
した。

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昭和19年自分は19歳でしたが、ほとんどの人は16歳17歳でした。
訓練中、目の前で酷いことに墜落死していった‥
彼らの命は浮かばれない。全くの無駄死にでした。
国家総動員法がしかれ、それに反対するものは皆捕らわれた。今の国の方向が危ういと
思う。

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