レイテ島の医学生から学んだこと

「私たちを支えてくれた地域の人々のために、すべてを捧(ささ)げたい」

昨年11月の台風30号で壊滅的な被害を受けたフィリピン・レイテ島を
2月中旬、訪問した。やっと復旧作業が始まった被災現場で聞いた
20代前半の若い医学生らの言葉に、胸が震えた。


台風の爪痕

昨年12月、本欄でレイテ島パロにあるフィリピン大学
医学部レイテ分校(SHS)という小さな医学校を紹介した。
学生は地方自治体の推薦で選ばれ、入学後は助産師と看護師の
資格取得を義務づけられる。
その後、地方の医療機関で保健・医療活動の経験を経て、
初めて医学コースに進級できる教育制度を採用している。
医師になる前から、地域医療の現場で自分たちにどれほど
大きな期待が寄せられているかを知る卒業生の多くは、
収入の多い海外の医療機関への就職の道を選ばず、
進んで国内の地方医療機関の勤務を望む。
医療従事者の海外流出が深刻化する現実の中で、
私はSHSを「フィリピンの希望」と呼んできた。

その医学校が台風で壊滅したと聞き、同校と長い協力関係を持つ
「佐久総合病院」(長野県佐久市)の若手医師らと現場に向かった。
被災から3カ月たったのに、州都・タクロバンの空港ビルの天井は落ち、
壁や窓は壊れたままだった。
州都を離れると台風の爪痕(つめあと)はより鮮明になった。
幹線道路の周囲には、国際機関が配給したブルーシートやテントで
暮らす人々があふれていた。
教室を失った小学校ではテントを使った授業が始まっていたが、
子供たちの机にはノートが見当たらなかった。

2006年のレイテ島取材で知り合ったSHS出身の女性医師、ネミア・
サングランノさん(53歳)が勤務する、ダガミという町の診療所に行ってみた。
屋根と壁の仮修理が終わった診療所には、100人以上の患者が
列をつくっていた。
赤ちゃんを抱いた主婦、メルタ・ソリスさん(39歳)は「台風のとき、
この子は私のお腹(なか)にいた。被災してすべてを失ったが、
子供は無事に生まれた。この診療所と医師のおかげだ」と語った。

サングラノ医師は「機材も薬も足りない。
でも今は、これで頑張る」と、胸に掛けた聴診器をかざして見せた。


支援とは

SHSは、屋根が飛び、窓も扉もない無残な姿になっていた。
木造2階建ての本館内部には、ぼろぼろになったカルテや本が
散乱していた。教員と学生たちの姿はなかった。
タクロバン市内にある別の大学の敷地内で、SHSの仮設校舎と寄宿舎
の建設作業に従事していたからだ。
だが、パロの本校の敷地は地元自治体が返還を求めている。
彼らが安心して勉強に取り組むことができる新校舎建設のメドは、
まだ立っていないのが実情だ。

そんな厳しい状況に置かれた学生たちに「今の思い」を問いかけた
ときに出てきたのが、冒頭で紹介した「地域の人々のために、
すべてを捧げたい」という言葉だった。

なぜSHSの若者たちは、すべてを失った絶望的な状況の中でも
人々を救おうをいう強い使命感を維持できるのか。
その背景にあるのは、学校と地域が長い時間をかけて培ってきた
強い信頼関係だ。
日本からの資金提供や支援は重要だが、逆に、使命感を持った
SHSの医学生のような若者を育て、地域との信頼関係をつくる秘訣(ひけつ)
を、SHSから日本の医療教育機関へ”技術移転”する必要があるのでは
ないか。

先進国から途上国への一方的な支援は、やがて人々の記憶から
消えていく。
だが、相互に学び合う協力関係をつくることで、互いに本当の感謝の
心が持てるようになる。

また一つ大事なことを、アジアの隣人たちから学んだ。

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アジアのなかの日本  天理時報 2014年3月9日

大澤文護 毎日新聞客員編集委員(千葉科学大学教授)

写真キャプション タクロバン市内の大学で仮校舎建設に当たるSHSの学生たち
(2014年2月9日、レイテ島で大澤文護撮影)

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