90 台風で破壊された「レイテ分校」 再建に向けて

日経メディカル 2013年11月21日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201311/533653.html

台風30号がフィリピンのレイテ島に壊滅的被害を与えた。最大瞬間風速90mもの暴風
が家々をなぎ倒し、高潮が街に浸入した。メディアが伝える惨状に肝を潰しながら、私
自身の医療の原点でもあるフィリピン大学医学部レイテ分校(SHS、School of Health
Sciences)の学生たちや教師、友人や関係者の安否が気になって仕方なかった。

SHSはレイテ島のタクロバン市のすぐ南、パロという町にある。初めてSHSを訪ねたの
は、私がまだ医学生だったころ、二十数年も前の話だ。そのときの様子を、後にうちの
家族も一緒にレイテ島を訪問したノンフィクション作家の山岡淳一郎が、以下のように
描いた。冷静に振り返りたいので、少し長くなるが引用したい。



レイテ島は、第二次世界大戦末期、日本軍とアメリカ軍の激戦地となった場所である。
一九四四年十月のレイテ湾海戦で、日本海軍連合艦隊は二九隻の艦艇と約一万人の人命
を失い、事実上壊滅した(中略)。
色平は史的文献からレイテ島の知識をためこんでいた。日本が酸鼻をきわめる戦闘を
展開していたとき、地元のフィリピン人たちはどうしていたのだろう。そんなフィール
ドワーカーとしての興味を抱いての訪問だったかもしれない。
ジプニー(編注・乗り合いバス)に乗り、熱帯の花々が咲き乱れる道路からわき道に入
った。
密林を切り開いた一角に、その学校はあった。
『フィリピン国立大学レイテ校』だった。
 
高床式の大きなお寺に似た建物である。
若者と地元の人が数名、木造の階(きざはし)を上がり、なかに入っていく。
学生は白衣を着ていない。
建物は校舎だが、保健センターとしても使われているようだった。
広い床下の地面を子連れの豚が、そぞろに歩いている。
 
日本の医学校のイメージからはほど遠い、開放的な空間であった。
ここで、生涯の友となり、兄貴分となるスマナ・バルア医師、愛称『バブさん』と出会
った。
バングラデシュ出身のバブさんも、ちょうどそのとき医師になる勉強をしていた。
だが、同じ医学生でも、医療の学び方は水と油ほど違っていた。
バブさんは現場からのたたき上げで医師を目指していた。

京大の医学生は、その実習に同行し、脳天を雷に打たれたような衝撃を受けた。
バブさんが村や町の人々と対面し、何を問診し、どんな薬を与えているのか、
さっぱり理解ができなかった。なんだ、これは!
実習は、そのままケアであり、医療行為だった。
(『風と土のカルテ-色平哲郎の軌跡』まどか出版より)



SHSの学生は、週の半分を学校で勉強し、残りの半分は町や村に出て医療活動をして
いた。助産師として赤ん坊を取り上げ、看護師、保健師の免許も取ってケアを地域で実
践する。

地域の人々の推薦を受ければ、医師の国家試験も受けられる。バブさんは、そうして
医者になり、現在はWHO(世界保健機関)の医務官として世界を飛び回っている。

実は、SHSは佐久総合病院の若月俊一名誉総長が目指した「農村医科大学」の理念を
体現した学校である。SHSへの訪問がきっかけとなって、私は佐久総合病院に勤めるよ
うになった。ご縁をいただいた学校である。その「心の母校」が台風によって破壊され
た。学生や講師の中には、命を落とした人もいると伝わる。

伊澤敏・佐久総合病院統括院長は「病院として、現地の医療活動の早期回復のため、
最大限の支援を行う」との声明をホームページ上で発表した。院内の国際保健委員会の
メンバーを中心に「レイテ分校友の会」を立ち上げ、長いスパンでの支援を続けていき
たいと考えている。被災地支援の活動の内容は、佐久総合病院のホームページで紹介さ
れているので、ご参照いただきたい。

http://www.sakuhp.or.jp/ja/1212/002061.html

なお、SHSについては、山岡淳一郎が著した『医療のこと、もっと知ってほしい』
(岩波ジュニア新書)に詳しい。

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