85 終末期患者の「自分らしさ」とは?

日経メディカル 2013年6月28日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/201306/531296.html


地域密着医療の現場で、高齢者の方々の在宅ケアをしていると、
「何を目指して」取り組むべきか、日々、課題を突きつけられる。

「病名」が先にくる「患者さん」としてではなく、世界でたった1人の
「その人らしく」最後まで生き抜いてもらうために、寄り添い、
生活を支えることが大切なのだなと常々感じるのだ。

人生の終盤の状況だけでは見えてこない、その人の歩んできた道のりや、
人生の起伏も分かった上で、お世話ができれば一番良いのだ。

こういった考え方は、一人ひとりの患者さんときちんと向き合う、
という意味では決して間違っていないと思う。

しかし、改めて「その人らしさ」「自分らしさ」を最後まで尊重する、
といったような表現で、ケアの方向性を抽象化しようとすると、
どうも消化しきれないものが私の心の底に残るのだった。

例えば余命宣告を受け、いずれお迎えがくると分かっている状況下で、
彼や彼女はどのように「自分らしく」生を全うしたい、と願うのだろう。

癌を告知され、家族に支えられてぎりぎりまで旅行をした人、とか、 
人生の回顧録を書き上げた人、とか、食べたいものを病床でも食べ続けた人、とか、
やりたいことをやりきって旅立っていった、そんな彼、彼女がいた。

北欧の高齢者医療、介護現場を視察してきた同僚たちによれば、
向こうは「自分らしさ」を最優先している、という。
余命を宣告されても、多くの人が趣味を全うしようとするらしい。

食べ物を口から食べられなくなって、「胃瘻の処置をしますか」と尋ねたら、
大多数の人が「信じられない。私じゃなくなってしまう」と反応したのだそうだ。

それをもって、われわれ日本人は、「北欧は『その人らしさ』を尊重している」と言う

だが、本当に北欧の人たちは「自分らしさ」を望んで、そうしているのだろうか。
もっと単純に自分の「好きなこと」を「好きな人」と一緒にやりたいだけではないのか

「好きな人と好きな所で暮らし続けたい」だけではないのか。

末期癌で苦しみながら家族と旅行をするのは、
必ずしも自分らしさを究めたいという求道精神からではなく、
極限での安らぎが欲しくて、なおかつ、それを実行できるある程度の余裕
(当事者の経済面ばかりではなく、社会インフラなども含むもの)があるから
できているのではないのか。

思想家で武道家の内田樹(たつる)氏は、現代人に共通する「自分らしさ」志向につい
て、
こう記している。


「現代人が自我の中心に置いている『自分らしさ』というのは、
実はある種の欠如感、承認要求なのです。
『私はこんな所にいる人間ではない』
『私に対する評価はこんな低いものであってよいはずがない』
『私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない』
というような、自分の正味の現実に対する身もだえするような
違和感、乖離感、充足感、それが『自分らしさ』の実体です」
(『呪いの時代』[新潮社]の41ページ)


「本当の自分」がきちんと評価されていないと憤る、
その裏返しが「自分らしさ」志向だという。

だとするなら、人生の終末期に至ってまで「自分らしさ」にこだわるのは辛い話だ。
好きなように生きる、ではいけないのだろうか。

======

inserted by FC2 system