「日本の現在地」 内田樹

朝日新聞「オピニオン」2013年5月8日

日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。
「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問
いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。

それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝
統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく
言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを
政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が
侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関
心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だ
ということでもある。

この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型
が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確
実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、
「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。

ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。

起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、
株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国
籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが
(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。

トヨタ自動車は先般国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざ
るを得ないというコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法
人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである
。

外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に
「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国の)の国庫にせっ
せと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力と
いうのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害
規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考え
ている。このロジックはまことに正しい。

その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれ
すべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとして
その選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲に
してまで支援するというのは筋目が違うだろう。

大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再
稼働の必要性を論じた。

原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争
で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしない
なら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、
地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。

この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮して
欲すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がった
からという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼
らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか?自
分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわ
れわれが一部負担してもいいと言うだろうか?雇用確保と地域振興と国土再建のために
あえて日本に踏みとどまると言うだろうか?絶対に言わないと私は思う。こんな危険な
土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと
日本列島から出て行くはずである。

ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出
す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家
は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。

汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電
はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コス
トの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道
路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。大学に向かって「英語が話せ
て、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海
外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバ
ル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。

要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて
、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。

繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化
をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国
民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのは止めて
欲しいと思う。

だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」と
いう名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すな
わち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だか
らである。

だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という
問いを執拗に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人
の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。

そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はど
こまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小
化される。

ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてく
れるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということ
である。

日本のメディアがこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。

もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」と
いう等式はその本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とす
るということである。

グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実
際には、これは「同じコインの裏表」である。

国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせ
て企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。

そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化
を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業
の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求
を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的
な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民に飲
み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞ
れの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい
」と目を血走らせるようになるだろう。

国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進
は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤
勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うこ
とを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の
収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。

私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)
の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。

現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメステ
ィックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵であ
る。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメ
リカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資
産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せず
にいられようか。

今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の
舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに
見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。

よいニュースを伝えるのを忘れていた。

この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世
界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心
が晴れるかも知れない。

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