歴史人口・家族人類学者、エマニュエル・トッド氏

毎日新聞 2011年1月13日 東京朝刊

◇生命力こそ真の力 

今後は、中国の民主化よりも、西欧が中国の政治制度を採用するかどうかが問題になる
時代かもしれません。政治家の指導力低下と民主主義の危機は、日本のみならず先進国
共通の現象です。西欧の民主主義は停滞し、世界の模範例ではなくなってきました。ア
メリカの地位も低下しつつある。結果、中国の成長が世界のモデルとなったら……。私
は、そんな未来を選びたくありません。 

民主主義の危機の原因には、まず、教育水準の向上による社会の再階層化があります。
さらに、信仰やイデオロギーといった集団的な価値の衰退も原因です。日本では「成長
神話」がこの集団的価値にあたります。 

... かつては、教育の普及による識字率向上が民主主義を後押ししてきました。ところ
が、さらに社会が進歩して高等教育を受ける人が増えると、学歴差による再階層化が進
みます。この再階層化と、人々の政治参加に必須な集団的価値の喪失が、民主主義の衰
退を招きます。フランスも米英も事態は同じです。 

また、自由貿易と民主主義は長期的に両立しません。今の自由貿易は富の偏在をまねき
、需要を縮小させ、格差を拡大させます。生活水準を低下させる経済の維持と、こうし
た経済を批判する可能性がある自由な政治的発言を許すこととは矛盾します。先般の経
済危機も世界規模の需要不足こそが原因ですが、各国の指導者層はこれを認めたがって
いませんね。 

現状を変えるのに必要なのは、文化的、歴史的に近い地域単位の経済協定です。協定の
参加国は互いに対して自由貿易的に、地域外には保護主義的に振る舞うようにする。地
域協定によって給与の再上昇と需要の復活がもたらされ、民主主義が閉ざされる可能性
も低くなると思います。 

日本も、将来はフィリピンやベトナムなど中国周辺の半島国家や海洋国家と地域協定を
結ぶべきです。これらの国とは家族構造も似ており、安定した関係ができるでしょう。
ただし、同じ環太平洋地域でも米国やオーストラリアと一緒は難しい。文化も歴史も日
本と違いすぎます。だから、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)については疑問
です。 

日中関係では、両大国がいわば「同時代の国」ではないことが、問題を難しくしていま
す。日本は毎年首相が交代することが示す通り、世論のぶれ幅がポピュリズム的に激し
く、民主主義の危機が進んでいます。とはいえ、穏健な先進国です。中国は、まだ、大
衆の識字化が終わりつつある、欧州で言えば1900年代の段階です。経済の急成長で
社会に緊張が走り、政府はナショナリズムでガス抜きをしている。この両国間の「時差
」が、東アジアの不安定さの背景でしょう。 

今後に楽観はしていません。政治指導者は歴史上、誤りが想像しうるときに、必ずその
誤りを犯してきました。だから私は、人類の真の力は、誤りを犯さない判断力ではなく
、誤っても生き延びる生命力だと考えています。

【聞き手・鈴木英生、写真・石井諭】

■人物略歴 ◇エマニュエル・トッド 1951年生まれ、フランス国立人口統計学研
究所所属の歴史人口学・家族人類学者。祖父は作家のポール・ニザン。76年の「最後
の転落」で乳児死亡率の上昇からソ連崩壊を断言。02年の「帝国以後」は米国の弱体
化を論じ、イラク反戦に影響を与えた。最新刊は「自由貿易は、民主主義を滅ぼす」(
藤原書店)。もっと見る
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