82 「重監房」と呼ばれた特別病室

ハンセン病患者への人権弾圧、忘れてはならない

日経メディカル 2013年3月29日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201303/529692.html

先日、国立ハンセン病療養所の「国立療養所粟生楽泉園」(群馬県草津町)を訪れた。
ハンセン病への差別と無知による歴史が刻みこまれた施設である。
今も108人の元患者が生活しているが(2013年1月中旬現在)、
改めて過去の国家権力の残酷さ、差別感情の凄まじさを思い知らされた。

日本では明治期以降、私立、公立(都道府県連合)の療養所が各地に造られた。
1930年代に入って戦時色が強まるにつれ、国による一括統治・強制隔離政策の推進
や各県の財政問題などもあって、私立療養所は閉鎖され、
公立療養所が国立に移管された。

粟生楽泉園は、1932年11月に開設されている。
もともと草津町には、温泉旅館でのハンセン病患者と健常者との同宿を避けるため、
町当局が「湯之沢」地区に患者居住地を用意していた。
湯之沢は、「患者自由療養地」として知られ、大正期に来日した英国人の
女性宣教師、コンウォール・リー氏によって貧しい患者のホーム、病院、
患者子弟の学校や幼稚園まで設けられていた。
町当局も湯之沢での区長、町議会議員の選出を認めており、
患者の生活と医療を支援する体制が敷かれた。
1930年には800余人が湯之沢で生活している。


ハンセン病患者の立場を一変させた「癩予防法」

ところが、1931年にハンセン病の撲滅を掲げる「癩(らい)予防法」が施行され、
状況が一変する。
湯之沢の解散と、粟生楽生園への患者の強制収容が進められた。
当初、患者は自由療養地の湯之沢からなかなか去ろうとしなかったが、
太平洋戦争の開戦前夜の1941年5月、群馬県が介入し、
自由療養地は解散に追い込まれた。

国家が人殺しをしている戦争中、ハンセン病患者の人権は徹底的に蹂躙される。
粟生楽泉園での患者虐待の象徴に「重監房」と呼ばれた特別病室がある。
園からの逃亡や反抗的な態度をとった患者は、鉄格子と南京錠で外界と遮断され、
便所を含めてわずか4畳半の独房に入れられた。
床も壁も板張りで電灯はなく、天井と壁の境目に縦13cm、
横70cmほどの明かり窓があるだけだ。

「食餌」は日に2食。朝は握り飯1つと梅干し1粒、薄い味噌汁1椀に水1杯。
午後の2食目は同じく握り飯とたくあん3切れ、水1杯。
握り飯といっても麦ばかりで握れないので箱弁当にして出される。
入獄者は、一切の会話が許されなかった。
施設側は、法で決められた2カ月の監禁最長期間を無視し、
患者を独房に長期間入れた。

この重監房に入れられた人たちの名簿がある。
備考欄には「獄死」「出所後逃走」「不明」―などと記されている。

そのうちの1人、当時まだ14歳だった秀雄少年は、1942年11月に楽泉園から逃げ、
神奈川県の自宅に潜んだ。
1944年、夜半に外出中、たまたま近くで女性の刺殺事件が起きた。
警察は秀雄少年に殺人の嫌疑をかけ、再び楽泉園に送り返す。
少年は重監房へ投獄され、あまりに過酷な仕打ちに耐えられずに精神異常に陥り、
1946年1月、18歳で獄死している。
入獄期間は439日、死因は「癩衰」。
 
医療の名における人権弾圧の歴史を、私たちは肝に銘じておかねばなるまい。

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