人間として人間のお世話をすること

金持ちより心持ち

WHO世界ハンセン病対策プログラムチームリーダー

スマナ・バルア

第21回若月賞受賞講演@第52回農村医学夏季大学講座

「農民とともに」No.236 2012年10月31日
 

スマナ・バルア先生
WHO(世界保健機関)世界ハンセン病対策プログラムチームリーダー
医学博士

1955年 バングラデシュ出身。
1976年 国立ティトゥミール短期大学卒業後来日、
働きながら日本語学校で学ぶ。
1979年 フィリピン国立大学レイテ校入学、助産師、
看護師、医師の資格を取得。
1989年 故郷の医科大学で教えながら地域医療に従事、
地元NGOの保健医療コーディネーターとしても活動。
1993年 東京大学医学部大学院国際保健計画学教室に
入学、各地の医学部や看護大学、小・中学校、
国内外のNGOで講演活動を続ける。
1999年 東京大学医学部博士号を取得。
2002年 WHOに勤務。



みなさんこんにちは。日本のいろいろなホールで講演を
してきましたが、このホールには一番思い出があります。
若月先生が亡くなった今、このホールに立つと、
涙が出てきます。

若月先生は、「医師はときに男芸者にならないといけない」
とおっしゃっていました。
私が佐久病院の病院祭に顔を出したとき、村のみなさんに
あいさつして回りましょうということになって、
お酒を持って、「みなさん、バブくんがまた来ましたよ」
という風に歩き回ったこともありました。
今日は若月先生から教えていただいた言葉を交えながら、
お話ししていきたいと思っています。


若い人たちの「架け橋」として

1989年、私はフィリピン国立大学医学部レイテ校で
の勉強を修了し、若月先生にそれを報告しに来ました。
そのとき若月先生は、現在名誉院長である松島先生と私に、
「私たち年配の者と、若い人たちの間のクッションになりなさい」
とおっしゃいました。
松島先生は、私には「架け橋になりなさいと言った方が
わかりやすいかもしれない」と言っていました。

その「架け橋」として私が何をしてきたかについてお話
しします。
1990年代に東京に住んでいたとき、7、8人の医学生が
週末私の家に集まることがありました。
そのとき私は学生たちに条件を二つ出しました。
一つは家内がカレーを作るので、お皿洗いをすること。
もう一つは私の小学生の子ども二人のいいお兄さん、
お姉さんになって宿題を手伝ってあげること。
これによって、私の家族に対して学生の気が楽になるだろう
という気持ちで言いました。
私たちに迷っていることなど、いろいろ話してくれるように。
 
若月先生は、「弱い人を、能力を持っている人が支えるのが、
私たちの責任」とよくおっしゃっていましたので、
私は学生たちのそれぞれのポテンシャリティーをどのように
生かせるか考えていました。
ただ、「あなた、ぼんやりとしてちゃだめだよ」と言う
のではなく、今まで人生をどのように考えてきたのか、
何に困っているのか聞いて、それにあわせてアドバイスをしました。
 
ある学生は、マザー・テレサの本を読んで医学部に
入ったそうです。
彼女はどうしても医者になってアフリカで働きたいと言いました。
私は若月先生の教えから、「医者として海外に行く前に
自分の国の現状を知るべきだ」と言いました。
「医者になる前に、保健師さんのかばん持ちとして一緒に
2、3週間過ごしてみたら、日本の事情がわかります」と。 
 
そこで私は、南牧村の保健師さんにお願いして、その学生に
3週間ほどかばん持ちになってもらいました。
その子は今、自分の夢を叶えてアフリカで働いています。
後輩に厳しく接することもいいけれど、優しく支えてあげると、
また違ったおもしろい結果が出てきます。
 
同時期に、聖路加国際病院の日野原先生の推薦でJICA
の研修コースのアドバイザーになりました。
これは日本の政府開発援助のお金を使って、それぞれの国で
病院建設や、衛生関係、母子関係のプロジェクトなどの専門家
になる研修コースです。
先ほども言ったように、若月先生は自分の国の現状を知らない人、
自分の国できちんとした仕事をできない人には国際協力は
とても無理だとお考えでした。

私はいろいろと考えて、研修員に佐久病院に来て講義を
受けてもらったり、川上村に宿泊して私のお兄さんのよう
な存在の藤原村長から講義をうけてもらいました。
フィリピンなどの外国にも連れて行ったり、
いろんなことをやりましたね。
その研修員たちは今、外国で日本人の専門家として活動しています。
これが先ほど言った、若月先生の知恵がどのように私に影響を
与えたか、それに従って私が行動した結果です。
 
これは学生たちに伝えたいことです。
そして日本の世代問題にも関わる話です。
1カ月に4、5回週末がありますね。
若者にとって、映画に行く、デートをするというのは
みなさん当たり前にやりたいことでしょう。
しかし、1カ月に1回でも老人ホームに行って、
お年よりの話を聴いてあげると心理的な面で満足があります。
お年よりたちは、みなさんが大学生になっても
こんな時間を作ってくれるなんてうれしいと思うでしょう。
 
自分が教わった先生のお墓参りをすることは、
当たり前のことです。
私も国に帰ったらおじいさん、おばあさん、
お父さん、お母さんのお墓参りをします。
でも現在生きているおじいさん、おばあさんを少しでもお世話
するというのも、当たり前の人間性だと私は思います。


医者としてのアイデンティティ

私の医者としてのアイデンティティをみなさんにお話しします。
あるとき小学校に行こうとしている私の目の前に、
近所の家から、母が泣きながら出てきました。
「お母さんどうして泣いているんですか」と言ったら、
「いいから学校に行きなさい」と。
またさらに歩いていくと今度は姉が泣きながら出てきました。
どうして泣いているのか聞いたら、
「おばさんがお産のときに亡くなった」といいました。
私はこんなことで世の中のお母さんたちが亡くならないように
と思い、医者になることを決めました。
 
また、若月先生との出会いも大きく影響しました。
松島先生をはじめ佐久病院の方々はよくご存知だと思うのですが、
1976年に、若月先生が関わる地域医療に、
三つの大きなできごとがありました。

一つ目は、この年、若月先生が、「農民とともに」を根底とした
地域医療活動を評価され、アジアのノーベル賞と呼ばれる
「マグサイサイ賞」をもらいました。

二つ目は、1978年、プライマリ・ヘルス・ケアに関する世界宣言
であるアルマ・アタ宣言が採択されたのですが、
その準備は1976年に始まりました。
そのときに、地域でプライマリ・ヘルス・ケアの活動をしたところ
はどこにあるか探しました。
当時、国際農村医学会のことは知られていましたから、WHOの
事務総長から相談を受け、若月先生はジュネーブまで行きました。
マグサイサイ賞受賞者のなかで、プライマリ・ヘルス・ケアの
基礎の種をまいたのは、若月先生一人でした。

三つ目についてです。
日本ではいろいろな理由で残念ながら農村医科大学ができず、
現在、農村保健研修センターになっていますね。
しかし、若月先生がマグサイサイ賞をもらった後、
フィリピン国立大学の先生から相談を受けて、
佐久の経験を生かしながら、若月先生の知恵を得てフィリピン
のレイテ島に、フィリピン国立大学医学部レイテ校という階段式
の学校ができました。

この三つのことから若月先生は世界で、「地域医療のお父さん」
とも呼ばれ、日本以上に知られているかもしれません。
 
その1976年に偶然、私は日本へ勉強にきました。
しかし、日本の医学教育は専門的すぎました。
当時、私の村には電気も水道も通っていなかったので、
日本の技術を持ち帰ることはできなかったのです。
私は外国人労働者のパイオニアになってしまいました。
八ヶ岳のふもとにある富士見高原のゴルフ場の芝張りや、
トラックの運転の手伝いなどもしました。
それからみなさんもよく通ると思いますが、
小淵沢インターの建設労働者の一人でした。
 
そういうなかで、若月先生のお名前を聞いて、私はぜひ
お会いしたいと電話をしました。
私は、「先生のように地域のなかで活動する医者になるという
夢を持っています」と言いました。
すると先生は、「おお、君は夢を持っているんだね。
じゃあ来なさい。
人間はね、夢を持っていないと動物と同じだよ」とおっしゃいました。
片言の日本語を使い、小淵沢の駅から小海線に乗って臼田まで
会いに来ました。

私は日本で働きながら、自分が勉強したい学校がどこにあるか探していました。
シンガポール、マレーシア、韓国にも行きました。
今は携帯電話やメールなどいろいろな通信手段があるけれど、
当時はFAXもありませんでした。
医学部長の返信を待っていてもらちがあかない。
だから現地に行って自力で学校を探さなければなりませんでした。
そのためのお金はどこから出てくるかといったら、
労働するしかなかったんです。
 
写真はそれよりだいぶ後のものです。
撮ってくれたのは、NHKのディレクターの川村さんです。
川村さんは若月先生のドキュメンタリーを3、4本作りました。
彼は、なぜ農村医科大学を作れなかったのかを掘り出したかったのです。
二人で行くと、若月先生は、「実際のことは言いにくいよ」
と言いました。
「我々医者はすごく鼻が高い。
世界で自分が一番偉いと思っているんだよ。
でも本当はそうじゃないよ。
村の人々を動かしてみなさんの協力がないとこんな病院建てられないでしょ。
そういう活動の面では医者は弱い。強くないんだよ」と。
先生とはone to one でいろいろな話をしました。
メモをとろうとしたら「バブ、メモはとらなくていいよ。
頭に入れた方がいいよ」とよくおっしゃいました。


お金にかえられないもの

私は国際医療福祉大学へも、大谷先生に頼まれて週に2回
教えに行っていました。
そこでは学生たちを対象にして個別相談をお願いされていました。
日本で講義し、その後フィリピンなどの現場に連れて
いくという形をとっていました。
 
60人ほどの修士課程の学生に、ミャンマー、ラオスなどの、
アジアの経済的にそれほど発展していない国々から学生たちに
日本に来てもらって、日本からも現地訪問をしてもらいました。
その連絡で私は国際電話をよく使いましたから、夏休みの前に
なると1カ月の電話代が12万円くらいになるときもありました。
お金にならない仕事でしたが、時間が経つと、
お金にかえられないものとして返ってきます。
 
これは、週末東京の私の家に集まっていたある学生の話です。
医学部を卒業するときに、お母さんに
「恋人を連れて挨拶に行きたい」と電話をしました。
でもお母さんは「家に連れてくるよりもバブさんのところへ行って、
バブさんと奥さんに挨拶した方がいい」と言って、
すぐにお母さんが私へ電話をしてきました。
私の家内は当時はまだ日本語が話せなかったのですが、
二人が来たら涙を流して、
「まるで息子が恋人を連れて帰ってきたみたいね」と言いました。
そういう風に関わった学生たちは、
今社会のためにいろいろな活動をしています。
世界20数カ国で国際協力をしています。
それは全部、若月先生の知恵を生かそうと私ができることをやってきた
結果です。


世界で活動する仲間を増やす

私が通っていたフィリピン国立大学医学部レイテ校の話です。
これは世界で一番小さな保健・医学校と言われています。
地域を中心にして村人の推薦で生徒が選抜され、勉強、実習
をして村に帰って活動します。
最初に助産師になって、看護師になって、お医者さんになります。
私も学校に通いながら、村々で働きました。
 
写真はレイテ島での写真です。
私と私の同級生です。
川があるけれど橋はない。
川の中に住血吸虫がいっぱいいるので、
気をつけなければいけませんでした。
私が左手に持っているのは、赤ちゃんを取り上げるために必要な
カルテやはさみが全部入っているかばんです。
カルテには、以前関わったお母さんたちの健康相談などの情報が
載っています。
 
村に電気はありません。そういう村を渡り歩き、
215人の赤ちゃんを取り上げました。
医療従事者は誰もいなかったので、現地のお母さんたちや
伝統的な産婆さんたちに、自分たちで出産ができるように
ずっと訓練をしていました。
レイテ島の村では、日本みたいに診療所はないので、
小学校を借りたりして、お母さんたちに栄養指導などを
しなければなりませんでした。

人生は旅する方がいいです。
私は最初、自分の村に戻って医療従事者として働こう
と考えていました。
しかし、いろいろな村で活動するうちに、
自分の故郷と同じ医療事情を抱えるアジアやアフリカの村が
たくさん見えてきました。
しかし世界は広すぎるので、仲間を増やして一緒に
働かなければならないと考えました。

ネパールのある村の話です。
お母さんたちは畑から帰ってきたら赤ちゃんにおっぱいを飲ませます。
一日中働いてほこりで体が汚くなって、汗もかいているのに、
それが子どもの口に入るということに考えがいかない。
赤ちゃんの口に入るということは、
やっぱり体を拭いて清潔な状態でなければなりません。
 
そういう自分の村のような村がたくさんあったから、
仲間作りの活動をしようと思いました。


先輩たちの教えに通じるもの
 
写真はバングラデシュの私の実家の近くの写真です。
そこでは飲み水がとても大切です。
10個の井戸を掘って、お母さんたちに
手入れについて指導しました。
 
そのときに2人の男の子がいました。
私は彼らの姿を見ると、おばあさんの教えを思い出します。
私は小さいときにおばあさんから、
「立派な大人になるためには早く起きることが大事だよ」
と言われて育ちました。
4時半から5時の間に起きて、おばあさんと一緒にお花を摘んで、
お寺参りをして、それから学校に行くということを習慣に
していました。
自分が起きられるようになったら、おばあさんに、
「自分が起きることは大切だけど、その後は、兄弟たちを
起こしてあげることがもっと大切だよ」と言われました。
 
言い方は違うけれど、若月先生に出会ったときに同じこと
を言われていると思いました。
自分が起きた後に、つまり苦労して人生の道を見つけた後に、
後輩たちを育てることが大切だと言っているのです。
これは私にとって一生の仕事になっています。


思い出のある農村医学教育ホール

最初にもお話しした、なぜこのホールにとても
思い出があるかという話をします。
 
東大に入学したとき、日本で初めて、国際保健の大学院ができた
わけで、地域医療の現場を経験することが大事だ
ということになりました。
日本でどのようにしたら外国でも適応できるように教えられるか
と考え、教授たちに相談したり、若月先生と松島先生に東大まで
足を運んで講義していただいたりもしました。
国際医療福祉大学で教えていたときには、佐久病院の
「アジアの地域医療を学ぶ会」の講師として招かれ、
栃木県からの帰途、大宮で乗り換えて何度か佐久に足を運びました。

アジア・西太平洋地域にある保健学部と公衆衛生学部の学部長たちの
会議体があります。
東大の医学部長が順番で国際会議の担当になったときに、
私に「どこでやったらいいか」と聞いたので、
「最初のオープニングセレモニーを本郷の医学部でやって、
その後は佐久でやったらどうですか」と提案しました。
まさにこのステージでやったんですよ。
次の日の午後のセッションは、川上村の大ホールでやりました。


レイテ校で日本人学生らを受け入れる
 
若月先生の知恵をお借りして作られたレイテ校には、
同じくマグサイサイ賞を貰った岩村昇先生の影響も大きかった。
岩村先生は日本人の学生を毎年連れてきて、
私は1981年からレイテ島で日本の医学生たちや看護学生たちを
受け入れてきました。
この先生たちお二人の影響を受けていましたから、
先生たちが亡くなられたということで、
私たちができることをしようと考え、学校の図書館の一部に、
お二人の先生の名前をつけた「若月=岩村コーナー」を作りました。

写真の左から数えて2番目にいらっしゃるのが、
国際基督教大学の田坂興亜名誉教授。
3番目にいらっしゃるのが、群馬大学の元学長の鈴木守先生です。
一番右のフィリピン人女性がレイテ校の校長です。
右から2番目の男性がマニラにある医学部本校の学部長です。
「若月=岩村コーナー」を作ったおかげで、佐久病院の若い先生たちも、
気楽にレイテ島へ行くことができるようになりました。
これからもみなさん、ぜひレイテ島へ行ってみてください。


私たちには人間としての責任がある
 
こんな詩があります。
「彼の名は今日」という詩です。

=======
彼の名は今日( His Name is“ Today”)

われわれは多くの誤ちや間違いを犯している
しかし最大の罪は子供達を見捨てていることだ
この生命の泉を無視していることだ
多くの必要なことは待つことができる 
しかしこの子にはそれができない
今、彼の骨がつくられ、血がつくられ 感覚が育っているのだ
この子に対して私達は“明日ね”と言うことはできない
この子の名前は “ 今日” なのだ。
        
ガブリエラ ミストラル (チリ)
======

みなさん、この詩について、もう少し深く考えて、
これから私たちはどうするべきかということを考えてください。
1987年にレイテ島で大きな台風の被害がありました。
私はその現場に医学生、看護学生のボランティアたちを
連れていきました。そのときにある女の子をその子の家の前
で見つけました。

彼女に聞くと、「ここは玄関だった。
それだけは覚えている。
しかしお母さん、お父さん、兄弟たちがどこにいったか知らない」
と言いました。
私たちが話しかけても、最初は声がでなかった。
少し経つと急に「お母さんどこ」と泣き出したんですよ。
こういう子どもたちに安全な寝る場所を、私たちは
ベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)として作って
やらなければいけないと思います。
 
また、安全な飲み水の確保も重要です。
彼ら若い世代のために、安全な飲み水を与えなければならないし、
安心させなければならない。

写真はネパールの山奥で撮りました。
私はそこで責任を感じました。
なぜならその村には小学校がなかった。
教育の光が自分たちの後ろにあって、
目の前にくるチャンスがなかった。
写真を撮ったのは1994年です。
今だに彼らに字を読めるチャンスが与えられたかどうか、
わかりません。
それも私たちの責任です。
 
医者になって、看護師になって、社会人になって、
日本で仕事をしていればそんなことは考えなくてもいいんです。
でも一人の人間として、ほかのアジアの兄弟たちがどうやって
生活しているのかということも、考えなくてはならないですね。


“Life means sharing”
あるものを分かち合うこと

写真中央に写る彼は、ハンセン病回復者です。
ベトナムとカンボジアの国境の近くで彼と会いました。
実はハンセン病は治る病気で、早い段階で発見され、
半年間薬を飲めば、手指の変形障害もおこらないし、
病気も治ります。
しかも薬は無料でもらえます。
半年の治療で治る病気なんです。
回復者の方々に健康教育をしてもらうと、
当事者が他のみなさんの先生になります。
そうすると病気について理解してもらいやすくなります。
日本と違って、ハンセン病のみなさんは、
ほとんど自分の家や地域のなかで暮らしています。
 
ハンセン病にかかると2、3年後に指先がなくなります。
だから早い段階で患者さんを治療にのせることが大切です。
行政にも参加してもらいながらWHOのハンセン病対策
の仕事をしてまわっている間、彼に出会いました。
彼の指先は形が崩れていました。
私はたくさんの方々とお会いしますが、
彼はとても明るい人でした。
「あなたはどうしてそんなに明るいんですか」と聞きました。
そうすると彼は、「生きてるんだもん、だから幸せなんです」
と言いました。
 
彼は百姓の仕事をしていたときに、地雷が急に爆発して、
目の前で奥さんと息子2人のうち1人が亡くなったそうです。
自分も片足をやられました。義足を引きずりながら、
お米を作っていると言いました。
そうやって生活していると、3、4年後にまた地雷が爆発して、
今度は右目がやられた。それを乗り越えたあとにハンセン病にかかった。
周りに医者も看護師もいなかったので、病気の発見が遅くなり、
彼の指先は崩れてしまいました。
それでもお米作りを続けていた。
私は悲しく思い、なんと声をかければいいかと思いました。
しかし彼はこう言ったんです。
 
「僕はうれしいですよ。
生きてるんだもん。
家内と一緒に死んだらそれでおしまいだったけど、
片足だけとられちゃったけど、まだ生きてるよ」と。
それで「どうしてうれしいんですか」、ともう一度質問したら、
「私はお米を作っています。例えば100キロのお米を作ったとする。
村の周辺にお米を作っていない人、土地をもっていない人
がたくさんいるから、100キロのうち30キロはみんなと分かち合う。
それでみんなが私たちと同じように食事をしていることがうれしいです。
それが私の心の満足。
それが“Life means sharing”」と教えてくれました。
 
私がみなさんに考えてほしいこと。
それは、ほとんど何も持っていない彼が
「Life means sharing =あるものを分かち合うこと」
と言って人生を分かっているということです。
みなさん今日お帰りになったら、
自分にどんなことが分かち合えるか考えてみてください。
何も遠いカンボジアのためだけではなく、自分のために、
自分の将来のために、孫たちのために、そういうことを考えてください。
日本、とくに長野は私の第二の故郷だと感じています。
愛国者としてみなさんにこういうことを考えてほしい。
25年後、日本はどうなりますか。
若月先生も「30年後、僕は生きていないかもしれない」
と私におっしゃったことがありました。
私も残りの人生が少なくなってきましたからみなさんに
こういうことを考えてほしい。
これからも兄弟として、仲間として協力していきましょう。

============
inserted by FC2 system