WHO医務官に若月賞 ハンセン病対策に力注ぐ

    読売新聞 長野県版 2012年9月8日

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/news/20120907-OYT8T01346.htm

地域医療への貢献をたたえる今年度の「若月賞」に、世界保健機構(WHO)
世界ハンセン病対策プログラムチームリーダーのスマナ・バルアさん(57)
が選ばれた。
賞の由来となった若月俊一・元佐久総合病院長を「生涯の師」と仰いできた
バルアさんは「先生の名前がつく賞にとても感動した。
これからも先生の教えを伝えたい」と、地域医療への思いを新たにしている。

バングラデシュ出身のバルアさんが医師を志したのは、12歳の頃。
近所に住む女性が出産の際、医師や助産師がいないために亡くなったのが
きっかけだった。
泣きながら「自分の目の前にいる人を亡くしたくない」と強く思った。

医学を学ぼうと、1976年に20歳で来日。
学費を稼ぐため、建設工事の現場や農場などで働いた。
若月さんは地域医療への取り組みで「アジアのノーベル賞」
といわれるマグサイサイ賞を同年に受賞し、有名になっていた。
バルアさんは何度も電話をかけ、面会を実現させた。

片言の日本語で「先生みたいに地域の中で働きたい」と自身の夢を伝えると、
若月さんは「大丈夫。夢を持っているなら医者になれる」と励ました。
バルアさんは「人生の道を開いてくれた」と振り返る。

だが、日本の高度医療とバルアさんの目標にはズレがあった。
「顕微鏡もレントゲンもない発展途上国では、日本での勉強は生かせない」。
日本で稼いだ学費でフィリピン国立大学レイテ校に入学。
まず助産師の資格を取って電気のない村を駆けめぐり、
215人の赤ちゃんを取り上げた。
その後、医師と看護師の免許を取得し、東大の大学院でも学んだ。

現在はWHOの医務官としてアジア各国を飛び回り、ハンセン病対策に力を注ぐ。
忙しい日々を過ごしながらも、毎年一度は来日し、
佐久市内にある若月さんの墓参りを欠かさないという。

「若月先生のメッセンジャー」を自任するバルアさん。
7月の授賞式に合わせて佐久市を訪れ、
「学生たちに発破をかけるのが自分の役割。
日本に限らず、若い医師が志をもって働けるよう、
これからも若月先生の教えを伝えたい」と抱負を語った。


◇若月俊一・元佐久総合病院長 
1910~2006年。東京出身。
1945年、佐久病院(現佐久総合病院)に赴任。
「農民のために」をモットーに、無医村への出張医療などに取り組んだ。
八千穂村(現・佐久穂町)では全村民を対象に健康手帳や健康台帳を作成する
など村ぐるみの健康管理を推進し、病気の早期発見で医療費削減にも効果を上げた。

写真キャプション:受賞の喜びを語るバルアさん
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