74「環境問題に医者が出てくる時はもう手遅れだ」

日経メディカル 2012年7月31日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201207/526124.html


半世紀以上も水俣病と闘い続けた医師・原田正純氏が先月、77年の生涯を閉じた。

原田先生は、水俣病がまだ「奇病」と呼ばれていたころから患者に寄り添い、
差別に満ちた状況をねばり強く変革していった。

水俣病は当初、食中毒事件と捉えられ、熊本大学の医師たちが現地調査に赴いた。
その中に原田先生の姿もあった。
まだ青年だった原田先生に、胎児性水俣病の子どもたちは「先生、先生」
となついていたという。

水俣病を告発したノンフィクション「苦界浄土」で知られる作家の石牟礼道子さん
は、原田先生との思い出を、次のように語っている。

「私は(水俣病が奇病と呼ばれていた)当時、役場にあった
(奇病に関する)マル秘文書を読ませてもらっていた。
患者が『おめき声を出して死んでいく』というような、
すさまじい症状が書いてあった。
私は、あまりのことに、(「奇病」について)書きとめておかずに
おれなくなった。
当時、亡くなった患者さんは(大学で)解剖されておられた。
私はある程度書き進むうち、解剖を見たくなり、原田先生にそれをお願いした。
幾つかの医学用語についてお尋ねもした。
『そういうことを聞きに来た人は初めて』と言われた」
(2012年6月13日付西日本新聞)

医療とペン、それぞれの最前線で体を張るプロが出合ったことで、
水俣病は奇病から、企業の社会的責任が問われる「公害病」へと変わった。

それにしても原田先生ほど、患者に好かれ、愛された医師はいない。
訃報に接した患者や施設関係者は、先生への感謝を口々に述べている。

「いつも、ニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。
ありがとう、お疲れさま」

「この一か月は毎週、胎児性患者たちを連れてお見舞いに行った。
『元気をもらったよ』と終始、優しい笑顔で応じていた姿が忘れられない」

「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」

「水俣病問題に一生をささげられた功績は非常に大きい。
常識を覆して 胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に
世界的貢献をされた。残念でならない」

(いずれも2012年6月13日付読売新聞)

石牟礼さんは、「先生は非常に開放的な方で、広い牧場に牛が放たれたように、
人の心を伸びやかにし、遊ばせてくださいました」とお人柄をふり返っている。
厳しい状況に直面したときこそ、「明るさ」というのは、大切だとつくづく思う。

今年の2月には、初版から約40年が過ぎた原田先生の『水俣病』(岩波新書)の
中国語訳が出版された。まえがきに先生はこう寄せている。

「この本が(世界の)多くの読者をひきつけるのは、私の文章が
よいからではなく、水俣病自身が持つ重要な歴史と普遍的意義のためである」
(2012年7月26日付朝日新聞「水俣病見つめる中国」)

原田先生が2005年に若月賞を受賞される前だったと記憶しているが、
熊本大医学部の学園祭に招かれ、地域医療について講演した。

原田先生は熊本学園大の学生たちを連れて来られ、
終了後は飲み会にも来てくださった。
さらにご自宅で歓待いただき、奥様に熊本空港まで送っていただいた。
車の中で、“ご近所”に お住まいだった横井小楠の話題になったことが思い出される
。

「環境問題に医者が出てくる時はもう手遅れだ」

先生のお言葉が胸に残る。心よりご冥福をお祈りいたします。

=======
inserted by FC2 system