第21回若月賞
               

農村保健振興基金 



・第21回若月賞 授賞式次第(敬称略)

平成24年7月27日(金) 午後2時50分

佐久病院教育ホール 長野県佐久市臼田197


開会のことば

第21回若月賞の選考経過について

選考委員 井出孫六

選考委員 行天良雄

選考委員 樋口恵子

選考委員 宮本憲一


表彰

あいさつ 農村保健振興基金代表 盛岡正博

閉会のことば



・受賞者記念講演

7月27日(金) 午後3時20分から午後4時20分

「人間として人間のお世話をすること」

金持ちより心持ち

WHO世界ハンセン病対策プログラムチームリーダー(部長)

スマナ・バルア博士



・「若月賞」の制定について

第2次大戦中の混乱と疲弊から戦後の復興へ、高度経済成長から
今日のいわゆる経済大国へ、激動にあけくれた半世紀を、
若月俊一先生は長野県佐久の地にあって「農民とともに生き、
農民の健康を守る」活動に終始してこられた。

医師として、治療はもとより、健康づくり・予防・
リハビリテーション・社会復帰にいたる幅広い実践と組織化、
実践と研究を通じての農村医学の確立、執筆・講演・演劇・催しごと
などを通じての健康を守る社会運動など、
佐久地域のみでなく日本全国に影響を及ぼされた。
このことは医療関係者のみでなく、世の一般のひとしく認め
尊敬するところである。

今日、わが国が経済大国と呼ばれる中で、現実に妥協して安きにつく
風潮がある。
それに伴って、医の倫理がともすれば見失われることを私たちはおそれる。
理想を求めない医療、理想なき社会、理想なき人間からどのような
行動が生まれ、どのような結果が招来するであろうか。
そのことに思いあたるとき、慄然とせざるを得ない。
この際「若月賞」を設定して、人それぞれの信念と理想に従って活動して
いる方々を顕彰したいと考えたのは、以上のことを憂えるからに他ならない。

平成18年8月22日、若月俊一先生は惜しまれつつ逝去されたが、
その魂は永く私たちの胸に生きる。
「若月賞」は若月先生のような社会的に真摯な生き方を追求しようと
している方々に貰っていただきたい。
その分野は農村医学だけでなく、保健・医療・福祉のどの分野でも
広く対象としている。



・選考委員(敬称略、五十音順)

井出孫六(作家)

行天良雄(医学博士、医事評論家)

樋口恵子(評論家)

宮本憲一(大阪市立大学・滋賀大学 名誉教授)



・第21回若月賞 受賞者

スマナ・バルア博士(Dr. Sumana Barua)

WHO世界ハンセン病対策プログラムチームリーダー(部長)

《表彰理由》

スマナ・バルア先生は、1955年、バングラデシュのチッタゴン市郊外で
代々続く仏教徒の家に生まれた。
村で役立つ医者になりたいと、1976年、京都の大学に国費留学中
の兄を頼って来日した。
しかし日本の高度に専門化した医学教育は、そのまま学んでも
途上国では使いものにならなかった。
そこで海外に頭を切り替え、1979年、念願の「フィリピン国立大学医学部
レイテ校=School of Health Sciences(SHS)」に入学する。

レイテ校は、医師や看護士の海外流出に悩んだフィリピンが、村で保健や医療に
従事する人たちを育てようと作ったものである。
週のうち半分は教室での座学だが、残りの半分は先輩について実際に村をまわり、
手伝いながら見習いをする。
そこでまず助産士の資格をとりレイテ島では215人の赤ん坊を取り上げた。
その後、10年かけて、看護士、医師の資格をとり、バングラデシュへ戻り、
地域医療に取り組む。
その後は、べトナム、ネパール、カンボジア、日本などを回り、アジアの
途上国を中心に、医学生、看護学生、若い医師たちの教育に取り組んでいる。

2007年に、このレイテ校の図書館に、若月俊一、岩村昇先生の業績を
記念して「若月・岩村記念コーナー」が設置されたが、これには、バルア先生の
力添えが大きかった。

現在はWHO世界ハンセン病対策プログラムチームリーダー(部長)として、
日本や中国を含むアジア諸国を中心にハンセン病対策に力を入れている。




・受賞者略歴(敬称略)

バルア医師の地域医療実践の歩み


バルア医師は皆から「バブさん」と呼ばれている。

バブさんが、母国バングラデシュから「医師になる」と志に燃えて
日本の土を踏んだのは1976年。
しかし日本の医療界は外国人に対して固く門戸を閉ざしていた。
いくら日本語が流暢に喋れても、日本語の医師国家試験にパスしなければ
医師にはなれない。
加えて生活費の問題があった。

母国よりすべてにお金がかかる日本で生活するにはアルバイトを
するしかなかった。
バブさんは懸命に勉強しつつ「肉体労働」をこなした。
小淵沢インターチェンジの建設現場で汗を流し、静岡で茶摘み、
京都のレストランで皿洗い、トラックの助手席に座って
下関と東京を何度も往復した。
極寒の北海道で魚も獲った。
これは生活費と学資を稼ぐためであった。
いまでこそ「ぼくは外国人労働者のパイオニアだよ」と、
冗談めかしてバブさんは言うが、
あの頃の肉体労働の現場がどれだけ過酷だったか、想像に難くない。

ある日、トラックでの仕事の途中、中央高速道のパーキング・エリアで
休息をとっていたバブは、一念発起して電話をかけた。
相手は佐久総合病院院長・若月俊一ドクターである。
当時、若月医師は「農民とともに」をスローガンに地域医療に取り組んでいた。
その農山村における医療実践は国際的にも高く評価されて、
それは途上国のノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」受賞へと
つながるのだが、バブさんにとって若月ドクターは希望の星だった。

院長業務に忙殺されていた若月は、見ず知らずの外国人の
若者の面会申し込みを受け入れた。
バブは、語る。
「トラックの運転手に、『ぼくは医者になるため、これからどうしても
行かなければならない用事ができた、申しわけないけど、ここで降ります』
と言ったんだ。
運転手は、快く、『いいよ、行きなよ』と応じてくれた。
バスに乗って、小海線に乗りかえて、小さな電車にコトコト揺られて、
臼田で下車した。
若月先生は、ものすごく忙しそうだったけど、
応接室で1時間も話を聞いてくださった。

幼いころ、近所で赤ン坊を産んだ女の人が医師の手当てが受けられずに
亡くなったのを見て、医者になろうと決心したこと、貧しくて、
病気にかかっても満足な治療を受けられない人たちの命を救いたいこと、
日本での生活、いっぱい話したよ。

若月先生は、話を聞いて、こうおっしゃった。
『きみ、だいじょうぶだ。
きみは、必ず、医者になれる』。
あのひと言が、とっても大きな支えになった。
何年かかろうが医者になろうと決めたんだ」と。

3年間、バブさんは勉強と肉体労働にあけくれたが、医師への道は険しかった。

日本では、いくらやる気があっても医療への扉は開かない。
彼は方針を転換し、「英語圏」のフィリピンに渡った。
英語でなら道が開けると確信して、、、。

バブさんが入学したのは「フィリピン大学医学部レイテ校」。
レイテ島は、第二次大戦中、日本軍が米軍の攻撃で壊滅的な打撃
を受けた戦地として知られている。
戦後もレイテ島はフィリピン国内で最も貧しい地域のままだった。
このような地域からは、優秀な人材が国内の都市や海外に流出してしまう。
「頭脳流出」に悩まされるフィリピン政府は、地域に根づく医師を養成すべく、
レイテ島に医学校を設立したのだった。

レイテ校の「医師教育」は、出色である。
医学生たちはキャンパスで講義を受けるのと同時並行で、
実際に町や村に出向き、医療実践に当たるのだ。
そして現実に即したキャリアを積みながら、医師へとステップ・アップしていく。
バブさんは、この学校で、まず助産士になるために215人の赤ン坊をとりあげた。
そして看護士の資格を取り、地域医療を専攻して学位取得、
晴れて医者となった。

じつは、私がバブさんと出会ったのは、このレイテ島でだった。
80年代の後半のことである。
当時、京都大学の医学生だった私は、卒業後、どのような方向に
進むべきか決めあぐね、あちこち放浪していた。
たまたま人の紹介でレイテ校を訪ね、大きな衝撃を受けた。
医学の「知識」で頭がコンクリートのように固くなっていた私には、
レイテ校の医学生たちの実践ぶりがまぶしかった。

バブさんにくっついて、筏で川を下り、村に入った。
彼が何を問診し、どんな薬を与えているのか皆目分からなかった。
実習が、そのまま「ケア」であり、医療行為だった。
いまから思えば、バブさんのやっていたことは鑑別診断の基本的なことだった。
患者にインタビューし、感冒か、流行性感冒か、または肺炎か、結核か、
いくつかの枝分かれする病気のどれに該当するかを探っていた。
同じ医学生ながら私は、まったく人の役に立たず、ただ見ているだけだった。

「もっと学びたい」と思って、バブさんにいろいろ尋ねてみた。
すると、彼が学んでいたレイテ校は、若月ドクターが提唱した
「農村医科大学構想」がフィリピンで結実したものだと教えられた。
そして「日本で修行するなら、佐久病院で修行するといい」と勧められ、
私は、大学卒業後、佐久病院に入り、今日に至っている。

レイテ島で10年の修行を積んで医師になったバブさんは、その後、
バングラデシュに戻り、地域医療の臨床医、NGOの保健コーディネーター
として活躍した後、93年、再び来日。
東京大学医学部大学院国際保健学教室に入学して勉強する傍ら、
国内外の医学部や看護大学、NGOで講演活動を展開し、
修士号、医学博士号を取得した。

現在、WHOの医務官としてマニラの地域事務所に家族で赴任し、日本や
中国を含むアジア太平洋37ヶ国のハンセン病を軸に地域医療を指導している。

(色平哲郎・佐久総合病院地域ケア科医長) 

(大阪保険医雑誌 05年4月号より)



・若月賞 受賞者一覧(省略)



・若月氏のことば

尊敬する諸先生から「若月賞」のご提案を頂いた。
医療・保健・福祉の、第一線で真摯な活動を続けている、
信念の方々を顕彰しようというのである。
ただ、この重大なイベントに、私ごとき者の名を冠するのはどうかと恐れるのみ。

今や国際関係も大きく変わり、国内諸情勢にも大きな転換が来るのは必然。
その中で真にこれからの日本の医療を守るのは何か、誰か。
その地域内実践の経過をしっかり見つめ、正しい評価につとめたい。
(若月賞発足時)


・若月氏・略歴(省略)


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平成24年7月27日

農村保健振興基金 代表 盛岡正博

事務局 長野県佐久市臼田197 JA長野厚生連 佐久総合病院内

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