脱混迷ニッポン/レシャード・カレッド医師(下)
                   
   山岡淳一郎 【週刊金曜日】 2012年6月29日
  
混乱と破壊の祖国アフガンで黙々と患者と向き合う

前回(5月25日号)は、レシャード医師が静岡県島田市で 「介護医療一貫ケア」を
確立させるまでを紹介したが、
今回は祖国アフガニスタンでの医療活動が中心だ。
「カレーズの会」では28万人の患者を診たという。

山岡淳一郎 【週刊金曜日】 2012年6月29日


1950年、アフガニスタン・カンダハール生まれ。
93年、静岡県島田市でレシャード医院を開設。
その後、介護老人保健施設アポロン、社会福祉法人島田福祉の杜、
特別養護老人ホームあすかを設立。
著書に『知ってほしいアフガニスタン―戦禍はなぜ止まないか』(高文研)。

岩と砂の乾いた大地を地平線の彼方まで、ボロボロのテントの群れが覆っている。
2002年12月末、アフガニスタン・カンダハール郊外の難民キャンプのテントの隅に薄い布団が敷かれた。
レシャード・カレッド医師率いるNGO「カレーズの会」の巡回診療所の開設である。
ベッドもない。 聴診器と血圧計、体温計、舌圧子と懐中電灯が頼りだ。
痩(や)せこけた子どもたちが長い列をつくっている。
栄養失調で立てない二歳児、ジフテリアの高熱でぐったりした女児、 難聴といくつかの奇形を伴う男児、、、。

静岡県ボランティア協会常務理事でカレーズの会の副理事長・小野田全宏 (おのだまさひろ)は、その光景をこうふり返る。
「水が全然ありません。 日中は30度を超え、朝は氷点下。 ガチガチ歯を鳴らして大勢の子が待っていました。
木や草の根をしゃぶって水分を取ってきたと言ってね。 苛酷すぎる。
戦争しか知らない子が頭に器を乗せ、2時間以上かけて水を汲みに行く。
無力感で、言葉を失くしました」 同行した日本人医師は、「医者として情けない。
日本なら治せるのに、あと数日で亡くなる子どもに何もできない」 と嗚咽(おえつ)をもらす。
小野田も記録をとりながら涙を流した。 その横で、レシャードは黙々と患者に接していた。
早朝からひたすら患者と向き合い、心音に耳を澄まし、薬を処方する。
食事もとらず、午後3時までぶっ通しで診察した。 涙が涸(か)れたわけではない。
平静を保たなければ生かせる命を見落とすかもしれないからだ。 目の前の患者に集中する。
それが1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以来、日本との国交がほとんど 途絶えた祖国を支援してきたレシャードの流儀であった。

薬を詰めてアフガンへ.。
アフガニスタンは、冷戦下のソ連と軍産複合体が牛耳る米国の 覇権主義に翻弄されてきた。
19歳で日本に留学し、外科医の修行を積んで家族を連れて国へ帰ろうと 思っていたレシャードにとって、
ソ連の侵略は青天の霹靂(へきれき)だった。 親兄弟との連絡は途絶え、頭の中は真っ白になる。
人生が予想外に変転した。 ソ連の傀儡(かいらい)政権が樹立されると、
日本政府は 駐アフガニスタン大使に帰国命令を出し、後任の発令を止めた。
「国交はあるが承認する政府がない」という立場をとる。
レシャードは自分にできることは何かと考えた。 祖国の同胞は「ジハード(聖戦)」を宣言し、侵略に立ち向かっている。
多くの「ムジャヒディーン(聖戦の戦士)」がソ連軍にゲリラ戦を挑み、 アラブ各国の若者も加わった。
オサマ・ビンラディンらアルカイーダの主要メンバーもアフガニスタンに入る。
彼らは米国やアラブ諸国の資金援助を受け、 CIA(米中央情報局)に戦い方を教わった。
このとき、現代史の時限爆弾が仕かけられていたことを誰が想像できようか。
レシャードはリュックに薬を詰め込んでアフガニスタン難民キャンプへと向かった。
毎年夏と冬、病院勤務で貯めた金で薬を買い込んで通う。 「自分にできること」を実践した。
89年、ついにソ連軍が撤退した。 だがアフガニスタンはジハードの勝利に酔う間もなく内戦に突入。
ムジャヒディーン各派は政府に反旗を翻(ひるがえ)す。 首都カブールの日本大使館は閉鎖された。
混乱と破壊が続く94年、パキスタン側に逃れた300万人の難民の中から
イスラム原理主義を信奉する若者の集団タリバンが現れ、軍閥を蹴散らす。
反タリバン派のムジャヒディーン各派は「北部同盟」を結成するが、
パキスタンの援助を受けたタリバンは北のカブールへと進撃した。

現在、レシャードが日本で運営する介護老人保健施設「アポロン」 の事務長を務めるアミンがロケット弾で重傷を負ったのは、
タリバンが支配権を急拡大している時期だった。
95年夏の朝、若き小児外科医アミンはカブール市内の大通りを 勤め先の病院へと急いでいた。
カブール大学医学部を卒業し、病院勤務は3年目に入っていた。日差しがとてもきつかった。
暑いなぁとウンザリして道の中央から建物の陰にひょいと身を寄せ、 1秒か2秒。
ヒューッと空気を引き裂く音とともにロケット弾が飛来した。爆発の衝撃で気を失った。
意識が戻ると、2−3メートル先の道路の真ん中に巨大な穴があき、 大木がへし折られていた。
前方には何十人もが倒れていた。
アミンは語る。 「服はロケット弾の破片が貫通して穴だらけ。 私は医者なので、まず自分の体を確認しました。
数ミリでもズレでいたら、あのまま道路を歩いていたら、、、、

神様はいますね。 ただ破片が膝を砕いて、脚の出血がひどかった。
手術をして3カ月入院、その後妻と幼い長女を連れてパキスタン の難民キャンプへ行きました」
アミン一家はペシャワール、カラチを経て96年10月、静岡に身を寄せる。
妻は医学部の一年後輩で、偶然にもレシャードの妹だった。
大使館が閉鎖されており来日は難しかったが、なんとか入国できた。
介護分野に転じたアミン。
アミンは日本語学校に半年通ったのち、 東京・清瀬市の小児病院で外科の研修を2年間受けた。
両親から子への腎臓移植の現場に接し、 自分もいずれと使命感をかき立てられる。
後遺症で伸びきった膝が曲がるよう懸命にリハビリにも取り組んだ。
だが、30歳近くで来日したアミンには、 日本語の医師国家試験の壁は厚かった。
二女、三女、四女と娘が次々と生まれる。 家族を養うためにアミンは介護分野へと転じた。
介護福祉士の資格を取り、静岡県の施設で研修を受ける。 当直もこなし、介護をゼロから学ぶ。

アポロンが創設されると職員の先頭に立った。 「在宅復帰支援がうちの方針。
リハビリスタッフは病院より充実しています。 認知症のケアなどは大変ですが、せっかくの命。
利用者さんには元気に過ごしてほしい。
それと、職員の教育は重要です。 昨年、看護師を含めて14人採用しましたが、辞めたのは3人。
それも結婚や妊娠、夫の転勤と理由が明らかです。 アポロンで3−4年経験したら、どこでも通用する。
接遇、介護ノウハウの教育には力を入れていますからね」 事務長らしく介護事業を語った後でアミンは、こうつけ加えた。
「高齢化で介護はますます重要になります。 ただ、自分自身では医者への道を諦めてはいません。
頑張ろうと思ってる。 試験が英語だったら、、、。

何とか方法を探しています」 図らずも異郷に根を下ろしたアミンの胸には、アフガニスタンの誇りが脈打つ。
深い傷痕が残る膝は、やっと90度くらい曲がるようになった。
アミンが日本に来たころ、アフガニスタンを制圧したタリバンにビンラディン が合流していた。
ソ連軍撤退後、中東やアフリカを転々としたビンラディンは乾いた大地に舞い戻った。
そして2001年9月11日、米国同時多発テロが起きた。 現代史に仕かけられた時限爆弾が炸裂した。
米国政府はアルカイーダが計画、実行したと断定し、 タリバンにビンラディンらの引き渡しを求める。
タリバン側は要求に応じなかった。 米国は「不朽の自由作戦」と名づけたアフガニスタン空爆で報復する。
北部同盟が反撃に転じ、タリバン政権は崩壊。

「ボン合意」を経て翌年、ハミド・カルザイが移行政権の大統領に選ばれた。
日本政府は13年ぶりにカブールの日本大使館を再開した。
患者は28万人以上 空爆が激化して間もなく、静岡市でレシャードの講演会が開かれた。
300人近い聴衆が集まり、十数万円の募金が集まる。 進行役の小野田は市民の関心の高さに驚いた。
後日、レシャードと小野田らは再会して話し合う。

かくして中央アジアの地下水路「カレーズ」にちなんだNGOが発足する。
事務局は静岡県ボランティア協会内に設けられた。
医療と教育の支援に焦点をしぼったカレーズの会は、カンダハールに診療所を開設し、 難民キャンプや離村への巡回診療を始める。
診療所には患者が押し寄せ、たちまち資金不足に陥った。
レシャードは休日を潰して全国で講演し、募金を集める。
カレーズの会は、03年にJICA(国際協力機構)の「草の根支援無償プロジェクト」の 助成を受けて簡易式レントゲン装置を搭載した巡回医療車をアフガニスタンに送った。 村々では「青空教室」を開く。
しばらくするとカンダハールから48キロ離れたマンジャ村に学校と診療所を 併せ持つ施設をつくる計画が持ち上がる。
井戸を掘って公衆衛生を整え、大人にシャワーを、女性に洗濯場を、 子どもにプールをと「夢」は広がった。
強風が吹く朝、マンジャ村の青空教室を訪ねた日本人ボランティアは、 会報にこう記す。
「先生が到着した時、先生のマントの下から6、7歳のかわいい男子生徒が ゾロゾロ出てきたのだ。
こんな風が強く寒い日は小さい子は学校に来たがらない。
そこで、先生が一軒一軒家を回って学校に行こうと声をかけ、 自分のマントの中に入れて連れてきたのだった」(『カレーズ』第9号)

こんな先生のいる村にこそ学校をとレシャードは奔走する。
しかし、治安が急速に悪化しつつあった。 米国はカルザイが正式な大統領に選出されてからも
「タリバン・アルカイーダ掃討」 を掲げ、軍事作戦を続けた。
誤爆で大勢の市民が亡くなり、米兵は一般住居に押し入ってテロリストを探す。
人間の尊厳を踏みにじる行為に人々の反米感情は高まり、タリバンが勢いづく。
自爆テロが頻発し、医療機関も攻撃を受ける。 多くのNGOが撤退した。
しかしカレーズの会は踏みとどまり、活動を続けた。
マンジャ村での施設計画は診療所と学校の行政管轄の違いから見送られたが、 09年にカンダハール市内に念願の学校が建てられる。
カレーズの会の診療所で受診した患者の数は28万人を突破した。
この数字は単なる情報(データ)ではない。 血と汗と涙の結晶である。
なぜカレーズの会は危険なアフガニスタンで活動してこられたのか。
アミンの指摘が、ずっしりと胸に響いた。
「患者さんを差別しなかったから。 クリニックでは誰でも診ます。 北部同盟でもタリバンでも難民でも。 これは誰にでもできることではないですよ。 タリバンだって薬をもらったら絶対に診療所を守ろうとします」
アフガニスタンは、いまだ混乱と破壊の渦中にある。
ビンラディンが米国の特殊部隊に殺されても、大地にしみ込んだ憎しみは消えない。
つい最近もタリバンの武装勢力が、 カブール近郊のホテルに人質をとってたてこもった。
治安部第が突入して武装勢力は射殺されたという。 レシャードがしみじみ語る。
「アフガニスタンは、侵略者に対して防戦してきました。 文化や宗教、習慣を大切にし、あたりまえの生活を維持したい。
無欲の戦いです。 だから強い軍隊がきても負けない。 日本の政治家は保守、革新問わず、長いモノに巻かれて我慢しろと言う。
たかがここ60年の政治的発想で言う。 しかしアジア的視点で考えてほしい。
仏教はインドで生まれ、アフガニスタンで育ち、中国を経て日本にきた。
この流れを理解すれば、自ずと『ともに生きる』道が見えてくるはずです」

ふと思う。 なぜ人間は戦争をするのか。 「食っていくためです。 誰が食っていくかは別ですよ。
米国は戦争で産業をリフレッシュしないと食えない国になった。 でもね、戦争で大勢が死んでも、そこで終わりにはならない。
必ず人間は別の手段を考えて復興します」 とレシャードは言う。
「カレーズの会」は、もうすぐNPO法人に生まれ変わる。

(敬称略)

患者を差別しない 北部同盟もタリバンも難民も 写真キャプション :カンダハールで診察するレシャード医師(左)。(提供 カレーズの会) :「カンボジアの難民キャンプも訪ねたが、比較にならないほどアフガニスタンは 苛酷」と話す小野田さん。(写真 筆者) :「どんな患者でも命を助けたい」とアフガニスタンでの活動を話すアミンさん。  (写真 筆者)

やまおか じゅんいちろう・ノンフィクション作家。 著書に『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、 『放射能を背負って 南相馬市長桜井勝延と市民の選択』(朝日新聞出版)ほか。
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