脱混迷ニッポン/レシャード・カレッド医師(上)
             
   山岡淳一郎 【週刊金曜日】 2012年5月25日
  


島田市民の気持ちに応えて地元で医療&介護を開拓

静岡県島田市で「介護医療一貫ケア」を確立させたレシャード・カレッド医師。
アフガニスタン出身だが、ソ連軍の侵攻で帰国できなくなり、
現在は島田市民とともに生きる。
そんな彼の波乱に富んだ人生を2回で紹介する。

山岡淳一郎  【週刊金曜日】 2012年5月25日

1950年、アフガニスタン・カンダハール生まれ。
93年、静岡県島田市でレシャード医院を開設。
その後、介護老人保健施設アポロン、社会福祉法人島田福祉の杜、
特別養護老人ホームあすかを設立。
著書に『知ってほしいアフガニスタン―戦禍はなぜ止まないか』(高文研)。



大井川を渡ってきた風がレシャード・カレッド医師の白衣を揺らしている。
静岡県島田市、陽光あふれる町の一角に古びた木造平屋の家があった。
「おじゃましまーす」。
レシャードは埃まみれの引き戸を開けて、三和土(たたき)で靴を脱ぐ。
土台が腐朽して傾いた廊下を踏みぬかないように静かに歩いて窓のない部屋に入った。
ムッと異臭が鼻をつく。


「”難民”がたくさんいる」

暗い空間で72歳の女性がベッドに横たわっていた。
もう2年寝たきりだ。
独身の息子が仕事に出ている昼間は一人きり。
背を向けた女性の耳元にレシャードが顔を近づける。

「サチコさーん(仮名)。
誰かわかるかね。
ごめんね、ちょっと目を診ますよ。
手が痛いの?
その手、動かさないと胸の前で固まって大変だよ。
口で返事してよ。
お願いだよ。
ちょっと喋ってくれんかね」

反応は鈍い。
同行の看護師が血圧を測る横で、
レシャードは介護福祉士や訪問看護師からの申し送り票に目を通す。
〈失禁で小、中パット、カバーもぐっしょり濡れていたので交換しました。
顔拭き、オムツ交換で、しかめ顔。
発声なし。
口腔ケアには協力的です〉。

もともと糖尿病で体が弱かった女性は、長年、寝たきりの夫の世話をしていた。
その夫が逝ってガクッと衰える。
一時、レシャードが理事長を務める介護老人保健施設「アポロン」に入って
好転したかにみえたが、自宅に戻って認知症も進み、起きられなくなった。

レシャードは床ずれの処置をする。
女性は往診を受けている間、ずっと眉間に深い皺を刻んだまま無言だった。
彼女の「食べる」「寝る」「排泄する」という生命維持の三大行為は、
毎日通うヘルパーが担う。

レシャードは語る。

「ここにも”難民”がいるでしょ。
地方には独居の”介護難民”がたくさんいます。
現実は、世話をする家族がいるかどうかで全然違う。
絶対的な人手が足りません。
社会全体で介護を支える介護保険の役割は大きい。
でも細かくメニューを決めて点数をつけたために、
かえって使いづらい面もある。
たとえば昔なら民生委員が独居の要介護者をしっかり把握し、
医療機関に状況を伝えていた。
今は民生委員が遠くなった。
だけどね、もう医療だ、介護だ、福祉だ、とタテの枠組みでは対応できない。
一緒にやらなくてはいけません。

ケアのタテ割りを突破するために彼は、1999年にアポロンを創設した。
当時、島田市内に老健施設はなかった。
介護保険制度が施行される前で、滑り出しは困難続きだったが、
今では総合的な窓口の「地域包括支援」から「居宅介護支援」「通所リハビリ」
「ショートステイ」「訪問介護」「訪問看護」と幅広い機能を備える。
医療面はレシャード医院や島田市民病院などがバックアップし、
「医療介護一貫ケア」とでも呼べそうなモデルが確立されている。

その日、72歳の寝たきりの女性を皮切りに戸建てで暮らす7人、
施設で生活する8人の高齢者を往診した。
介護施設にレシャードが入って行くと、利用者の顔にパーッと光がさす。
「先生、先生、どうしてた」「来てくれるのを待ってたよ」と声がかかる。
紛れもなくレシャードは高齢者医療&ケアの開拓者だ。

だが、彼の「顔」はそれだけではない。
母校の京都大学医学部の臨床教授で、この3月までは島田市医師会長を
4年間務めた。
そして、祖国アフガニスタンの医療と教育を支援する
NGO「カレーズの会」の理事長でもある。

毎年、年末から年始にかけてカンダハールに帰り、
診療所や難民キャンプで黙々と診療を行う。
至近距離で地雷の爆発や自爆テロに何度も遭遇した。
それでも「早朝から並んで待っている患者さんがいるから」
と母国に足を運ぶ。

カレーズの会が02年に設立した診療所(医師3人)を訪れた患者の数は、
11年末までに27万8702人にのぼる。
医療とは何か。
人間が人間をケアするとはどういうことか。
レシャードの生き様は私たちの胸に鋭く問いかけてくる。
19歳で日本に留学して40数年、その波瀾に富んだ人生をたどってみよう。


日本語は「麻雀」で

レシャード・カレッドは1950年、花々が咲き乱れるカンダハールに生まれた。
父は歴史の大学教授で詩人でもあった。
9人兄弟の4番目で長男。
医療に興味を抱いたのは小学3年生のときだった。
近所の寝たきりの老人のもとへ医師が往診にきていた。
老人は結核で喀血する。
医師は老人を励まし、家族の相談にのっていた。
その光景にうたれた。

カブール大学医学部に進学するとフランスの大学への留学を薦められ、
帰国後の大学教員の職も保証された。
ところが、留学先に選んだのは日本だった。

「アフガニスタンは、シルクロードの要衝で文化や宗教、
戦争の十字路でもあります。
19世紀以降もイギリスがたびたび侵入してきた。
中学時代、当時、外交関係がよかったソ連に1年留学したけれど、苦労した。
どうも違う。
そのころ日本の戦後復興の本を読んで、驚き、感動したんです。
日本人のどこにそんなパワーがあるのか知りたくなりました」

69年、国費留学で来日する。
まず千葉大学留学生部で日本語と基礎科目を3年学ぶこととなる。
留学生寮に入って、英語が飛び交う環境に焦りを感じた。
日本語を身につけるには日本の家庭に下宿し、
じかに日本文化に触れなければと思った。
しかし外国人に部屋を貸す家などない。
肉体労働で貯めた金で新聞に「下宿先求む」と小広告を出した。

すると造園業を営む老夫妻が部屋を無償で提供してくれた。
彼らは毎日食事を用意し、日常会話もていねいに教えてくれる。
どうしてそんなに親切なのかと訊くと、満州からの引き揚げ秘話を明かされた。

夫妻は引き揚げ船に乗り遅れ、殺されそうな目に遭った。
そのとき、中国人のおばあさんに匿われ、日本行きの船の底に潜り込み、
命からがら帰国したという。
夫妻は「あの恩を、いつか誰かに分けたいと思っていた」と言った。
強烈な日本体験だった。
ただし、3カ月で下宿を出た。

「普通の老夫婦でしたが、中国では人を殺した側なんだね。
どうやって生きてきたのか、深い話を聞かせてもらいました。
目の前の日本とかけ離れた世界だった。
下宿を出たのは、金を受け取ってくれないからです。
タダは甘えること。
甘えるにはホドがある。
お客じゃ、長くいられません。
ご夫妻も余裕があるわけではなさそうだったので出ました」

レシャードは千葉大での3年を終え、京都大学医学部に編入する。
間もなく教育学部の女子学生、秀子と出会った。
ふたりは周りの反対を押し切って結婚。
若い夫にとって最大の難関が日本語だった。
医学部の授業を、辞書を引きながら理解するのは至難の業だ。
日本語を集中的に身につける方法はないかと思案する。

そこで挑んだのが「麻雀」だ。
一度に三人の日本人学生と友人になれるし、日本語でいろいろな話ができる。
問題は麻雀代である。
勝てるはずもないし、授業料は高くつく。
レシャードは堺港での貨物船の荷役、道路工事に英語教師と
アルバイトで金を稼ぎ、麻雀に注ぎ込んだ。
日本語を覚えたかった。

次第に副次効果が表れる。
麻雀仲間が、授業の要点をまとめたノートを貸してくれるようになったのだ。
やっと先が見えた。
医学部の卒業直前には長女を授かる。

だが、医師国家試験で落ちた。
漢字文化圏外の外国人に日本語の壁はとてつもなく暑かった。
奨学金を打ち切られ、乳飲み子を抱えた夫妻は極貧生活。
3度目の挑戦でパスしたとき、
「これで食べていける」と二人手を取り合って号泣した。


帰国直前にソ連軍が侵攻

レシャードは、京大結核胸部疾患研究所、関西電力病院での研修を経て、
胸部外科医として歩み出す。
79年に天理よろづ相談所病院に赴任したころには一人前の外科医になっていた。
腕を磨いて、家族を連れて母国へ戻ろうと日夜診療に励んでいた79年12月、
ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻したのである。

「目の前が真っ白。
家族とは音信不通で、やっと連絡がとれたとき、妹は難民キャンプでした。
従兄弟は牢獄に入れられて命を落としました。
何とかしたくて翌年、パキスタンの難民キャンプに向かった。
リュックに抗生物質や注射を詰め込んで、
元軍医からもらった古い診療鞄に聴診器を入れてね」

薬は三日でなくなった。
キャンプの状況は酷かった。
ただ話を聞いて、慰めるしかない。
それもまた医療であった。
以後、夏と冬の休暇のたびに「遺書」をしたためて出かけた。

大学病院の人事は教授の差配で決まる。
82年に恩師の指示で島田市民病院に赴任し、7年間、島田市で過ごした。
その間に、二女、三女、四女が生まれ、日本に帰化する。

89年、JICA(国際協力機構)の「イエメン結核対策プロジェクト」チーム
のリーダーに選ばれ、家族を連れてサヌア市に赴任した。
外科から、今度は交渉ごとがつきまとう国際保健活動である。

結核予防は病気を軽視する住民への「意識づけ」が鍵を握る。
検査技師を育て、住民の痰を集めて「ほら、結核菌だろ」と見せなくては
始まらない。
保健師を育成し、患者に薬を飲ませる。
制度と人を同時につくらなくてはならない。
予算が下りるのを待っていたら進まないので、個人で借金をして調査費を捻出した。
日本の商社からも借りた。
商社側はイエメンでのレシャード人気に便乗したがっていた。
イエメン人との関係ができればモノが売れるからだ。

この個人的な資金集めはJICAに「めちゃくちゃ怒られた」が、調査は進んだ。
馬車馬のように働いた。
車の入れない山奥の村を訪ねた帰り、崖から転落して右足首を骨折。
シャツを破って足を固定し、這うようにして車に戻り、ひと晩激痛に耐え、
オフィスに戻った。
奮闘の甲斐があり、現在イエメンの結核治療成績は中東でトップをキープ中だ。

帰国し、京大医学部の人事で島根県松江市の病院に移った。
呼吸器科の創設が与えられたミッションだった。
苦労の末に呼吸器科を独り立ちさせたころ、
今度は島田市の人々がバスを連ねて松江の温泉宿にやってきた。
単なる温泉ツアーではない。
レシャードに「島田に戻ってきてください」と懇願する集まりだった。
人と人の接点を大切にしてきたことが、島田市民の心を動かしていた。

京大に戻るか、島田で開業するか、人生の岐路に立った。
悩んだ末に島田市民の気持ちに応える道を選ぶ。
とはいえ、元手があるわけではない。
融資を申し込んだ大手銀行にはけんもほろろに断られた。
が、レシャード曰く「捨てる神あれば、拾う神あり」。
地元の信用金庫の支店長が「先生、帰ってきてくれるんだね」
と二つ返事で融資を引き受けてくれたのだった。

93年、レシャード医院が開院した。
以来、島田の地に根を張り、医療と介護を育んできた。
この間、辛い別れも体験した。
泣き言ひとつ言わず、”内助の功”で尽くしてくれた秀子が06年に急逝。
四人の娘は、それぞれ独立している。

老健施設「アポロン」の廊下は、車いすが何台もすれ違えそうなほど広い。
見通しもよく、陸上競技のトラックのように楕円を描いている。
利用者に「自由に徘徊(はいかい)してもらう」ためだという。
これなら迷う心配もない。
その廊下を歩きながらレシャードが人生のモットーを口にする。

「後ろを振り向かない。
前しか見ない。
人との出会いは、すべてプラスに受けとめる。
反省は必要ですが、振り向き癖がつくと、あのときはあんなに大変
だったのだから、このへんでやめておこうと制限するでしょ。
そうじゃなくて、当たって砕けろ。
気がつけば、そんな生き方をしてきました」

(敬称略、続く)

妹は難民キャンプへ 従兄弟は命を落とした


写真キャプション(写真 筆者)

:往診に訪れたレシャード医師。「こんにちは」と声をかける。

:昨年オープンした「アポロン伊太」で利用者と言葉を交わす。


やまおか じゅんいちろう・ノンフィクション作家。
著書に『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』(ちくま新書)、
『放射能を背負って 南相馬市長桜井勝延と市民の選択』(朝日新聞出版)ほか。

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