危機とそのただ中にある「超安定社会」日本の課題を考える


           ──大都市近郊の医療・介護問題  
  (JC総研レポート 2012年夏号 基調テーマ リスクへの備えと地域・農業)
  JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部地域ケア科医長  色平哲郎(いろひら てつろう)

1 はじめに

日本医科大学の医療管理学教室に、私の尊敬する長谷川敏彦教授がいる。

長谷川先生が作成したケース教材「君ならどうする? 
Aさんの2030年10月3日 24時(Twenty Four)」
の冒頭部分を引用(ただし引用内容は、筆者がデフォルメしている)
させていただきながら、これからわが国が直面する課題を「ケース教材」
風に描いてみることにしよう。

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Aさんは19年前の2011年秋にM大学の公共政策論の講義に参加した
ことがあるM大学卒業生である。
今は40歳となり、8歳と4歳の子どもがいる。
外資系(タイ資本)企業で働き、大都市郊外のB市のマンションに
家族と共に暮らしている。
母は近くに住んでいるが、父は遠くにある介護施設に入所している。

12日前には衝突は免れたが、小惑星が地球に接近する騒ぎがあった。
今年、中国の人口が16億人に達したが総人口は減少に転じ、
インドに抜かれたことを新聞は報じている。
中国の高齢者人口(65歳以上)は1億1000万人となり
日本の総人口と並んだ。

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2030年10月3日(木)【7:00(午前)】
──私は朝食を食べながら昨日の騒ぎのことを思い出していた。
妻は子どもたちの世話で忙しい──

2軒隣のマンションの住民が「異臭がする」と騒ぎ、警察が駆け付けて
調べると、屋内には荒らされた跡はなく、独り住まいの老人が亡くなっていた。
 
妻が教えてくれた。「タンスに3000万円の現金が放置されていたのよ。
今回は見つかったけど、全国では
多額の現金が気づかれずにゴミとして燃やされているらしいわ」

そういえば、先日も近くで同じような騒ぎがあったばかりだ。
あの時も「独居者の高齢化と無縁化が進んでいるからなあ」
と民生委員のMさんが嘆いていた。

それに認知症の老人が突然いなくなって空き家となり、
住宅の所有権が宙に浮いた家が、この近くだけでも10数軒ある。

去年は、500m先の空き家が放火され崩れかけた。
そのままでは隣家が危険なので、隣のC市に住むこの住宅の所有者の高齢者
とB市の担当者が交渉したが、
私有権を盾に行政の介入を拒否したというトラブルもあった。(略)

私の母はすでに要介護認定を市に申請して介護保険によるサービスを
受けているが、「財政難で十分な介護を受けることができず、
先日紹介されてきた介護士は外国人で、あまり言葉が通じない」と嘆いている。

いや、それ以前にこの辺にはずっと医療施設がない。
高齢者のいろいろな相談に乗ってくれる医師がいないのだ。

この20年、大都市近郊は急速に高齢化したのだが、
医療供給がそれに追い付かなかった。
母はずっと大都市の病院まで通っていたが、
体が不自由になってからはほとんど通うことができずにいる。

健康保険が適用される診療行為が次第に限られ、自己負担が増えている。
年金が月額一律5万円になったため高額な医療費はとても払えない。
母は「結局治らんのに」と言いつつも困っている。(略)

それと、大都市圏には入所介護施設が少ない。
父は400kmも離れた北陸地方の福祉施設に入所せざるを得なかった。
これでは母は会いに行くことができない。
かわいそうだと思う。

人口構成の将来予測で若い人が高齢者を支えることは、
どだい不可能となることは以前から分かっていたが、何もしなかったのだ。
高齢者医療福祉戦略を考えると、老人同士が支えあうこと、
むしろ老人に若い人を支えてもらわないとならないことははっきりしている。

【8:00(午前)】
──上の子は小学校に出かけた。
下の子を「子供園」に連れて行き会社へ──
 
子供園に寄ってから、会社に行くためバス停に向かうと、
歩いているのはほとんどが高齢者である。
今では人口の5人に1人が75歳以上、
50歳以上が半分を超えているのだから当たり前なのだが。

バスに乗車すると、子どもの時からの知り合いのおじさん
(Dさん・80歳)が乗っていて、不安げに話し掛けてきた。
「財布をとられた。
大切にしていたものが昨日から見つからない」
と3日前にも聞いた話を繰り返す。
ニコニコして相づちを打つと安心したのかにっこり笑った。

私の友人のうちで4分の1が両親のいずれかの認知症で悩んでいる。
「老人は耳が遠いためか自分の言いたいことだけ言って人の話を聞かないよね。
その上、世話をしてもらうことが当たり前のように思っている」
というのが友人の愚痴だ。(略)

結局のところ、医療も福祉も交通もすべてが町づくりだ。
 
友人のEがこんなことを言っていたのを思い出した。
 
「特に大都市郊外は企業戦士だった団塊世代が退職してから
急速に町が高齢化したよね。
職がない高齢者が昼からブラブラしていた。
それがそのうちポロポロ引っ越して、町が空洞化し、
しかも建物や施設が老朽化してしまった」

20年も前から海外の「コンパクトシティー」の取り組みが紹介されて
はきたが、この大都市近郊の町でも、いくつかの団地を集約して、
高齢化に対応した建物の構造・配置、道路の整備、店舗や医療福祉施設の
建て替えなどが必要だった。
それもバラバラに取り組むのではなく、複数の町が資源を濃縮し共有し、
物理的環境だけではなく、人のつながりにも配慮しつつ、
新しい社会、コミュニティーを一から「創り直す」必要があったのだ。

【9:00(午前)】
──会社に到着──

国際電話がかかり、ベトナム語でしゃべりだした。
「うーん、分からない。」
英語は大学で練習したので自信があるのだが、東南アジアの言語は苦手だ。
社内もミーティングは英語だが、タイ語が飛び交っていて、
悪口を言われても分からない。
「日本語がアジアのビジネスの標準語だったらいいんだけどなぁ。」
入社した時は日本資本だったが、10年ぐらいでタイの資本に買収された。
最近ではインドの会社が買収を狙っているという噂を聞く
・・・(以下、略)・・・・。

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危機とは英語ならcrisis、この語には”分岐”という意味もあるという。
 
イタリアの思想家アントニオ・グラムシは、危機について以下のように記した。

「危機は、古いものが死んでも新しいものが生まれてこないという、
正にこの現実の中にあるのだ。
かような空白期間には多種多様な病的現象が起こるもの」
(「獄中ノート」)
 
P・F・ドラッカーの言うとおり、未来を予測することは難しいが、
現在は「すでに始まっている未来」である。

本稿がそうした意味で、すでに始まっている未来を明らかにし、
リスクが噴出する世界で何をなすべきかを考えるきっかけとなれば幸いである。


2 「超安定社会」だった日本の今後

(1)     世界を覆う「リスク」とその正体

世界を覆う危機状況は、ナオミ・クライン著
『ショック・ドクトリン──惨事便乗型資本主義の正体を暴く』
(岩波書店、2011年)に詳しく書かれている。
 
また、堤未果著『政府は必ず嘘をつく──アメリカの「失われた10年」
が私たちに警告すること』(角川SSC新書、2012年)
にサマライズされて出ている。
 
ある時期から資本主義は余裕を食いつぶすようになってきていると感じる。
皆のコモンズを食いつぶす形で延命し、生き延びようとしている。

そしてマスメディアを含め、学者・オピニオンリーダーたちは、
その流れに乗る以外に解決策はない、というふうに言い募っている。

私は、いつも隣国・中国のことが気になる。

中国人はわれわれと同じような顔をしているが、全然違う人たちで、
恐ろしいリスクに備えていて、本当に恐ろしいリスクのなかを生きている。

今、にわかに中国が海軍力を増強し、アジア全体の脅威になってきた。
だがこれは、ここ1000年間のうちで昨今20年間くらいの例外期である。
ヨーロッパ人が大西洋を渡ってアメリカ大陸に達する、そのまた以前、
明の時代に鄭和(ていわ)の艦隊が大規模にアフリカ大陸にまで航海した。
鄭和の艦隊による海洋進出を明がやめたのは、北にリスクがあったからだ。

北のリスクとは、モンゴルであったり、ロシアであったり、
ソビエトであったり、その後も一貫して続いたが、20年前ソビエト
の崩壊によって中国はこの1000年間で初めて「北の脅威」がなくなった。
これは鄭和の時代に戻っているという意味で「例外的な時期」だと見ている。

中国のリスク状況を考える。
 
例えば上海に飛行機で着くとする。
そこは21世紀の未来社会だ。
なにしろリニアモーターカーに乗るのだから。
そこから鉄道に乗り、バスに乗って、歩いて、
奥山にまで行くと、今度は弥生時代に行ってしまう。
2000年の歴史がそっくりあの国の現在のなかにあるという意味で、
われわれとはまったく違う。
想像も及ばないほど、すごすぎる。

中国ではそれをリスクと呼ぶ。

われわれの日本はあまりにも国内が平準化していて、少し変動しただけで
リスクと呼ぶが、向こうではそれをリスクとは思っていない。

例えば政権交代するたびに、大混乱と粛正が起こるのが中国の常識。
日本では首相が毎年代わってもほとんど社会変動が起こらない。
これは実は日本が「超安定社会」だということである。

どうして中国について述べてきたかというと、中国社会が、あの「多すぎて・
広すぎて・貧しすぎた」1980年代初頭、ある決断をしたからだ。

当時、ケ小平(とうしょうへい)がミルトン・フリードマンを招き、
新自由主義なるものを中国に導入することにした。

中国は、最初は「世界の工場」として酷使されるが、そのうちに「世界の市場」
として、そしていずれ「世界の覇者」になっていくという道だった。

当時はそれしか選択肢がなかったと思う。
北にソビエトがあったからである。
アメリカや日本からなんとかして資金と技術を導入し経済発展しようとした。
 
彼らのやったことは「中体西用」ということである。
「和魂洋才」と似ているが、和魂洋才は「魂は和だ」といっても
「見た目には西洋」になっているわけだが、中体西用では、
「体しているのは中国」なのである。
 
中国は、譲らないところは絶対に譲らない。
西洋的なものは用いているだけだということになる。
頭のなかは絶対に中国のままで、という前提で、しかし新自由主義にギアを入れた。

世界史の皮肉というべきは、中国がギアを入れてから10年ほど経ったところで
ソビエトが崩壊し、ロシアになって、ここでも新自由主義にギアが入ってしまった。

アメリカも「9・11」の同時多発テロという”ショックのあと”で、
新自由主義にギアが入ってしまった。
世界の多くの地域で、EU以外の極のほとんどすべてに
新自由主義のギアが入ってしまった。

「資本主義バージョン4.0」という言葉をご存じだろうか。

アナトール・カレツキー著『資本主義4.0、新しい経済の誕生』
(“Capitalism 4.0 ─The Birth of a New Economy” 
Bloomsbury Publishing Place, 2010.)が指摘する
資本主義の性格区分・発展段階論である。

最初の資本主義、つまりバージョン1.0は赤裸々な市場原理主義を
あらわにしたもの、当時、マルクスが批判せざるを得なかったもの。
次の2.0がケインジアンの修正資本主義。
3.0がハイエク、さらにフリードマンの新自由主義、
その後に4.0が出てきたというのである。

バージョン1.0のときには苛烈な資本による収奪が行われたので、
農民たちは協同組合を作って自衛した。
2.0のとき、日本では戦後だが、日本社会は存外にハッピーで、
協同組合の必要性が薄れそうになるぐらい「超安定社会」が続いた。

そして、いまになって日本は3.0の新自由主義に突き当たっている。

これは、欧米と比べると1周どころか2周遅れている。
欧米ではすでにリーマンショック以降、3.0は終わり、
いまでは4.0に入っている、というのがカレツキーの主張。
カレツキーが展開するのは、3.0の時代はすでに終わり、
これまでの金融資本主義ではもたないので、
「新たな協同の時代」に入らなければならない、というような感覚である。

さて、ここで問題となるのが、バージョン5.0である。
これは中国バージョンである、という。

このため世界の大勢が、資本主義がバージョン3.0から4.0に移行しつつ、
どこかでうまくソフトランディングできるというハッピーエンドにならず、
中国のような奇型、つまり変型が出現し、政治はまったく民主化せずに、
中国的な権威主義を保ちつつ、経済と軍事だけがどんどん大きくなり
ナショナリズムと呼応して拡張するというバージョン5.0のギア。
このギアに入れることの効率が非常に良くて普遍性がある、という恐るべき
結論が出るのかもしれないということで皆がおどおど、びくびくしている。

これがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の背面にある本質的変貌であろう。

海上輸送力が飛躍的に向上し太平洋が「隔てる海」でなくなり、
沿海部が結ばれて世界経済の大動脈を形成しつつある。

そこで、10年ほど前から「太平洋に線を引くな」とアメリカが主張。
それがいよいよはっきりしたのが、2010年11月に横浜で開催された
APEC(アジア太平洋経済協力会議)でオバマ大統領が宣言した辺りだった。

大きなリスクは、米中の間でせめぎ合いが起こっていることであろう。

一方にコーポラティズム(協同組合を意味する「コーオペラティブ」ではない)
の問題があろうか。
「中間団体」をどう考えるかという哲学的問いにもなる。
フランスの政治思想家モンテスキュー(1689−1755年)の時代には、
国家と個人の間に中間団体があった方が民主主義が健全であるという洞察で、
教会、そしてさまざまなアソシエーションが形成されてきた。
日本の農協も中間団体の1つである。

ところが、中間団体が国家と「ボス交渉」でどんどん決めてしまうと人々の意見
が反映できない、ということになって、コーポラティズム批判が出てきた。

前出の堤未果さんの本では、コーポラティズムという中間団体が仕切って
やっていくことで大問題を生んでいるとある。
歴史的に考えるとコーポラティズムが良かった時代と悪かった時代があった。
われわれが福祉国家だと考えて賞賛してきた北欧、
あれはコーポラティズムがつくったものだし、
オランダのような「失業が生まれないような国内の合意形成」も
コーポラティズムが働いてできたもの。
一方でファシズムもコーポラティズムがつくったもので、善にも悪にも働きうる。
今日のようにリスク状況が高まるなかであればこそ、分断された日本社会に
散在する個人の小さな声を集約し、国や地方の政策形成に影響力を
持ち得る健全な中間団体が必要なのではなかろうか。


(2)     日本の「リスク」とは
 
世界はすでに激動期に入った。
にもかかわらず日本列島は安泰だなどと考えていると
「ゆでガエル」になってしまう。
翻って考えて、戦前の日本社会は安定していなかった。

私は産業組合あってのJAだと思っているが、戦後の安定社会になる以前、
戦前の産業組合運動こそ農協の始祖だと考えている。

途上国では経済や社会が安定を欠く、足下が揺れている所で、
協同組合運動を今つくり上げていこうという、
矛盾のなかで皆が苦闘の歴史を始めつつある。
ヨーロッパや日本では過去に一度そんな歴史があって、
その後、平和な時期に多少まどろんでいた。
今日リスク化する社会などと言われているが、これは一度、昔にあったことだ。

今後われわれは小国に立ち戻らざるを得ないのだろう。
人口的にもそうだ。
近代の百数十年掛けて日本は大国だと思っていた。
アジアの先頭を走ってきたという自負もあった。
その遺産のいくつかもまだある。
多少危うくなったとはいえ、国民皆保険も機能している。

しかし日本は、エネルギー政策も食料政策も行き着くところまで行ってしまって
いるので、有事に非常に危うい状態になっている。
が、そのことに気付くこともなく、国内的に意識が閉じている。
国外のことを考える余裕がなくなった。
日本のリスクがなんなのかと考えると「国外のことを考える必要はない」
という頭のなかがリスク要因として最大であろう。

山岡淳一郎著『震災復興の先に待ちうけているもの 
平成・大正の大震災と政治家の暴走』(洋泉社新書Y、2012年)
に描かれているように、産業組合が困難な時期を経て戦争時代に入った
その同時代史を見ると、1923(大正12)年9月1日の関東大震災の前後には、
1921年11月に原敬首相が東京駅で右翼青年に刺殺され、
1930年11月に浜口雄幸が狙撃される、といったテロが起きている。
今後も同じように、何かが台頭してくるのではないか、
というのが大状況として、今一番大きなリスクではないだろうか。
 
余裕がなければ餓死者が出るような危険なバランスの上に、
日本の首都東京が乗っているという恐ろしさ・きわどさをあの東日本大震災で
感じた向きも多かったのではないか。
人口の少ない東北地方でもあれほどの被害だった。
当日の東京の帰宅難民の状況もひどかった。
洞察力を持っていれば理解できるリスク要因だと思う。

幕末の安政の時にも、開国したり不平等条約を結んでいる間に、
安政大地震で藤田東湖が圧死するというようなこともあった。
現在、地震列島が動き始めている以上、食料でも人手でも多少とも
余裕があった方がよい。
現状、カツカツで効率を追うようになって、
それぞれの業態ごとにぎりぎりの勝負をしている。
ということは皆でいっしょに飢え死にしかねない、という状況になっている。

これは、農業や農協の問題ではない、田舎や郡部の問題でもない。
グローバルな変化で列島がどう立ちゆくのか、
という国民全体の生命と生活に関係する事象だ。
また、女性たちが子どもをもっと産み育てたいという国に変われるかどうか、
ということでもあって、けっして農山村のことではない。
国民全員の自分の老後がどうなるかということでもある。


3 大都市近郊で噴出する医療・介護・福祉の課題

残念ながら今「地域」はだいぶ痛んできていて、
昔あったようなリスク社会に立ち戻ってきている。

われわれの先達は市場化されることによって生活がきつくなった際、
それ以前の「互酬」や「再分配」に立ちかえって協同の営みを始めた。
今また戦前のように、地域の人々が自前で、
自ら何をなすべきか決断しなければならない事態に立ち至った。

高齢化・過疎化が極限にまで進行してきた農山村の医療がどうなるか
という話題になるが、実際は、大都市近郊にこそ問題とリスクが噴出する。
今後は都市化が進んだ場所にさらなる高齢化が押し寄せ、
建物が老朽化し、人が高齢化する。
戦後日本のダイナミズムの源泉・都市集中の結末が半世紀後に
急激な高齢化・老朽化を引き起こす。
これが日本最大の政治課題になるのだ。
世界中がそう見ている。
「鏡」として学ぶべき日本社会で、高齢化が極まった時、
どういう社会にソフトランディングできそうなのか、老人の居住環境は
どうなるか、認知症の人たちのケアや生きがいはどう担保され得るのか、
ここを世界が注目していることを、よく自覚しなければならない。

ケアを必要とする人たちが増大してきている。
急増し続けるケア需要を介護の現場や医療者に頼めば、
すべてなんとかなる、というわけでは決してない。
 
くさか里樹著『ヘルプマン!〔HELPMAN〕』(イブニングKC、
講談社、2007年)というコミックの第8巻に、すでに地域はあるいは
家族親族はずいぶん痛んでしまっていることが赤裸々に描かれている。

東京でも三多摩(かつての北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡)と
3県(千葉・埼玉・神奈川)の問題、これら野放図に緑地を失った所で、
高齢化現象は慢性的に広がっている。
建物の老朽化、社会システムと社会資本の老朽化、さまざまなものが古びて
人間の高齢化が進み、どう看取(みと)るのか、という課題が
今後の30年くらい、急激に出現してくるだろう。

TPPをきっかけに、日本人が守り育てるべきものは何か、
もう一度国民の一人一人が考えていただく以外ないと感じる。
国民が、皆保険制度はいらないといった選択をするなら致し方ない。
だが、歴史の教訓を忘れないでほしい。

関東大震災の後、戦争時代に入っていくが、その戦争を支えるためにできた
諸制度の1つが皆保険制度だった。
私の友人の山岡淳一郎著『国民皆保険が危ない』(平凡社新書、2011年)、
その第4章に詳しく述べてある。

この時期は協同組合運動にとっても激動の時代だった。
戦争に入って行きつつ自前の取り組みに取り組んで、
国家もまたそれを支援したという、日本の農村問題を解決するため
の国家レベルの取り組みがあった時代であった。


4 おわりに

共同通信の取材で、TPPに参加したらどういうことが起こり得るかと質問された。
 
これに対して、一言で「想定外のことが起こる」と答えた。
 
特に、東京圏のような、これだけの人口規模でこれだけの都市がほぼ無防備。
備蓄もなく、周りに緑地もグリーンベルトもない。
大震災とその復興などということにでもなれば、それは世界史的大事件になる。

そんなショックを受けた後の「ショック・ドクトリン」たるや、
日本という国柄が大きく変わる曲がり角になりかねない。

これまで日本は「世界の人々の悩み」を悩んではいなかったのである。
つまり昨日と同じ明日があるというような国は世界中にほとんどないので、
日本の戦後こそ世界史的に例外だったのだろう。

今後、日本がさまざまなリスクに直面するなかで、どんな人間が求められて
いるのかといったことを考えるなら、それは、マニュアルに頼らない、
最善を尽くす、率先して行動する人間像、が求められているといえるのではないか。

マニュアルに頼り、ルールを作り・守り、指示を待つ人間、
彼らは災害やリスクにもろい人々ということになるのではないか。

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