佐久病院の挑戦は実るか/ケアも超高度医療も
             
   「考」181 信濃毎日新聞 2012年6月24日 主筆 中馬清福
  

1945年3月、信州臼田の県農業会佐久病院に新しい外科医長が着任した。
若月俊一、34歳。
治安維持法違反で1年の拘留を経験していた。

カネがない、忙しい、周りの目が気になる、、、。
当時の農民は医師を敬遠した。
極寒地なのにトイレは外、台所は畜舎のすぐ隣。
こりゃだめだ、農民の意識を変え、暮らしを変え、働く仕組みを変えなきゃ。

若月は自ら村を回って人びとに聴診器をあてた。
おれは元気だと言いはる人からも農民特有の病気が次々に見つかった。


・若月イズム

病院に患者が来ない?
それには事情があるはず。
こっちから出掛けていこう。
こういう若月に同業者は驚いた。
そば屋も出前しない時代に、医者が出前するとは何事だ、と。

出張診療班が編成された。
医師や看護師は馬が引く荷車で巡回し、診察し、芝居をした。
演説するな劇をやれ。
若月の口癖だった。
彼はまた、医療を民主化させたいなら地域の民主化が先だ、と言い続けた。
住民・病院・役場は対等だ、住民はもっと主体性を持て、、、

若月にほれこんだ男がいた。
八千穂村(現佐久穂町)村長・井出幸吉だ。
59年、二人は全村の健康管理活動を始め、健康手帳や健康台帳を配った。
手帳にどう書くか、若月は手をとるようにして教えた。

衛生指導員制度が発足した。
役場は介入せず村落の青年団員らが指導員を選ぶ。
画期的なことだった。
彼らは医師に学び、健診や衛生指導を手伝った。

当時を知る佐久穂町長・佐々木定男は語る。
「八千穂に入るとほっとするね、と外の人によくほめられたよ。
健康管理活動は手弁当だったもの」

村にも高度成長が来た。
工場ができ現金収入がふえた。
だがあっという間の好景気だった。
いずれ学校は小中一貫校1校になるだろう。
でも健康管理は続けると佐々木は言う。

他方、このころから医療環境は大きく変わった。
高齢化で医療費が激増すると、健診への風圧も強まった。
「無理な延命のために莫大(ばくだい)な医療費を使っていないか。
過剰な検査が行われていないか。
、、、年をとれば人間一つや二つ不具合の所があって当然だ」。
中央紙にこんな専門家の主張が載る時世になった。

もっともな面はある。
ただ、公の健診は過剰か。
健診が病気を予防し総医療費を抑えていることはないか。
現状とデータをもとに冷静な議論が要る。

若月の時代と異なる空気はこれだけではない。

社会の変化は公害を生み、心臓や脳などの疾患もふえた。
求められる医療内容は高度化し専門化した。
患者側には「完治して当然」の考えが定着しつつある。
週刊誌は執刀数などでランクづけし、一部医師をスターに仕立てあげている。


・二足の靴で

高質の医療を供するには医師に十分な時間を与えなければならぬ。
若月イズムの核「農民とともに」の旗の下で、それは可能か。
今は若月イズムを信奉する修道僧にも似た医師がたくさんいる。
その精神を維持し、かつ多様化した医療への要望に応じるにはどうすべきか。

佐久病院改め佐久総合病院は全体討議を続けた。
結論は「二足のわらじを履く」、つまり最先端の医療と農民密着の医療を
共存させることだった。

佐久総合病院の本院は、これまでどおり地域医療の本拠として佐久市臼田に残る。
同時に、同市中込に佐久医療センターを建設し、
ここを高度化・専門化する医療の拠点にする。

院長の伊澤敏、名誉院長の松島松翠は同じことを口にした。

「本院とセンターに上下関係はない。
医師も看護師も二足のわらじを履き、双方を行ったり来たり、
地域のあちこちにも出ていってもらう。
住民との心の交流があって初めて真の医療は成り立つと思うからです」

健保などどうでもいい、カネはいくらでも出すから世界最高の施療を。
こういう人がふえそうな今日、佐久総合病院の試みは大いなる実験であり挑戦である。
医とは何か。
医とは誰のものか。
しっかり見守りたい。

=======

inserted by FC2 system