72 レシャード先生◎静岡とアフガニスタンをつなぐ
             
   日経メディカル 2012年5月30日 色平哲郎
   http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201205/525094.html

  静岡県島田市に、レシャード・カレッド先生というアフガニスタン出身の医師がいる。
 ご縁があって、私は毎年静岡市で講演をさせてもらっているのだが、
 この間、数回にわたり、レシャード先生と懇談する機会に恵まれた。

 レシャード先生は、ご自身の名前をつけたレシャード医院と、
 介護老人保健施設「アポロン」を中心に、医療と介護・福祉の
 垣根を取り払い、切れ目のないケアに取り組んでいる。

 市民の強い要望で島田市に開業して約20年。
 日本国籍を取得し、すっかり地域に溶け込んだ。
 今年3月まで、島田市医師会長を4年間務めていた。

 その一方で混乱が続く祖国・アフガニスタンを懸命に支援している。
 われわれ日本人勤務医には及びもつかない、
 スケールの大きさを感じさせるドクターである。

 レシャード先生は、1950年にアフガニスタン南部の街・カンダハルに生まれた。
 国費留学生として19歳で来日し、千葉大学留学生部で日本語と基礎科目を
 3年間学んだ後、京大医学部に編入。卒業後、医師国家試験を突破した。
 非漢字文化圏で育った外国人が日本語の、しかも難解な専門用語が並ぶ
 国家試験にパスすること自体、すごいとしか言いようがない。

 レシャード先生は、京大結核胸部疾患研究所、関西電力病院での研修を経て、
 天理よろづ相談所病院に赴任。胸部外科医として歩み出した。
 そのころには結婚し、子どもも生まれていた。
 外科医としての腕を磨き、家族を連れて祖国へ戻ろうと
 日夜診療に励んでいた1979年12月、ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻した。
 レシャード先生はその日のことを、
 「目の前が真っ白になった。家族とは音信不通になった」と語っている。
 ようやく妹さんと連絡がとれたとき、妹さんは難民キャンプにいた。

 「自分ができることは何か」と考えたレシャード先生は、翌80年、
 リュックサックに医薬品をどっさりつめて、パキスタンの
 アフガニスタン難民キャンプへと向かった。
 以来、夏と冬にはほぼ毎年、医療支援に行った。
 89年にソ連軍が撤退し、やっと平和が訪れるかと思いきや、祖国は内戦に突入。
 パキスタンで生まれたイスラム原理主義集団タリバンが全土を制圧した。

 2001年9月11日、米国同時多発テロが発生。
 10月に、米国は「報復戦争」としてアフガニスタンに空爆を開始した。
 タリバン政権は崩壊し、カルザイ氏が大統領に就任した。
 しかし米軍は「テロとの戦い」を継続し、“誤爆”で大勢の市民が亡くなった。
 兵士の横暴な振る舞いに市民の反米感情は高まり、タリバンが勢力を回復。
 治安はふたたび悪化した。

 その間、レシャード先生は、NGO「カレーズの会」を設立し、
 医療と教育の支援を続けてきた。
 カレーズとは、現地の言葉で「地下水脈」を意味する。
 一人の力は一滴でも、集まれば大きな流れになることを願ってつけたものだ。
 カレーズの会は02年にカンダハルに診療所を開いた。
 設立以来、診療所を受診した患者数は28万人を超えた。
 カレーズの会は診療所だけでなく、学校も建設している。

 静岡県島田市とアフガニスタンのカンダハル。
 遠く離れた二つのまちが、実践的な医療活動によってつながっている。
 改めて、医療は普遍的な価値を持つと思い知らされる。

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