講演録「地域医療を考える」第2講、後半
2011年8月7日(日)@新潟市西蒲区巻文化会館

       WHO(世界保健機関)医務官 医学博士 スマナ・バルア博士 

■教育の光を若い世代に

この写真はバングラデシュ、私のふるさとです。

これはポンプと井戸。
水が出てくるところに、いろいろな人が集まります。
私が小さいとき、写真の彼らのように小さいかったとき、
私の祖母が私を朝早く起こしてくれたんです。
朝4時半から5時でした。
おばあさんと一緒に庭に行ってお花を取り、お寺に行ってお祈りをしました。

私は朝早く起きるようになったところで、
おばあさんが私にいいました。
「自分が早く起きるのは大切です。
将来ちゃんとした大人になるためです。
でも、自分が起きられるようになったら、兄弟を起こして
あげるのがもっと大切ですよ。」と教えてくれました。
私は下に弟がいたから、そのようにしました。

年をとればとるほど、祖母からもらったこの教えが
人生のライフワークになったのかな、と感じています。

どういう意味かといいますと、自分の体験をどうやって若い世代に
お伝えできるか、彼らに教育の光を届けることができるかということです。
私の故郷で、子どもたちのために、特に女子教育の分野にとりくんで、
小学校、中学校、そして高校、女子短期大学を僧侶のおじさんがつくりました。
いまこの学校の経営のことを考える立場にもなりましたので、
教育の光を若い世代に届けるべきだ、と実感しています。

これはネパールの小学校、日本の小学校のようすとぜんぜんちがいます。
ここに勉強にくるために、後ろに見えている山を3つくらい越えて、
何時間も歩いて、勉強しにくるんです。
日本では、だんだん子どもの数が少なくなって学校がなくなってきた
と伺いました。
逆にバングラデシュやネパールでは、子どもが多くなってきて
いるのに学校が足りません。
この建物は、私たちが200万円くらいで作ったもの。
建物はあったけれど、中身はほとんどは何もなかったので、
私たちが協力して作り直したんです。

これもネパールの写真。
日本だったらこういう年齢の子たち、必ずこの時間帯には登校しています。
写真を撮った時間は朝の9時半でしたが、彼らは路上にいた。
この子どもたち、朝起きてから一番大切な仕事は、
女の子で13から15歳の子どもだったら、
今日の家族の飲み水をくんでくることなのです。

これは、ネパールのカトマンズの写真。
水の出るところ、井戸のあるところに人々が集まってくる。
先ほどの写真もそうですが、誰かは飲み水をくみにきて、
誰かは洗濯にきて、誰かは鍋などを洗いにきています。

ネパールの山中の写真です。
3人は畑で働くお母さん方。
子どもたちは家にいて、お母さんが1日、外で働いて家に帰ってきたら、
走っておっぱいを飲みにくるんです。
子どもは子どもですから、あたりまえ。
そこでお母さんはすぐにおっぱいを飲ませます。

地域医療の基本的なことをひとつ。
「汗をかいてほこりで体が汚くなっていたら、
体を拭いたりシャワーを浴びてから子どもにおっぱいを飲ませてください。」
基本的なことを教えると、下痢の患者が少なくなります。

「予防は治療に勝る」ということです。
下痢の子どもが減っていくんですね。
この基本的なこと、お母さんたちは、自然のまま、
昔からこのようにしているから知りません。

こちらの写真。
水が流れているところに、人はそれぞれの目的でやってきます。

この奥さん、石鹸で体を洗っています。
この人は鍋を洗っている。
こちらは洗濯して、干している。

この水をみると、かなりきれい。
そうすると、飲み水としてくんでいくんです。

こういうお水は、「家で沸かしてからみなさんに
飲ませるようにしましょう。」とくりかえしくりかえし説明します。
すると、下痢の患者さんが少なくなります。
水に由来する病気が少なくなってくる。

逆にいうと、この同じ場所、わたしたちが向こうへ一回りして
帰ってきたとき見たら、誰かがオシッコをしていましたよ。

基本的なことをくりかえしお伝えする、がまんが大事。

地域の中ではたらく、というのは、アジアの国々ではこういうことです。

ミャンマーの小学校です。

私は、仕事柄あちらこちらへ行きますが、一番関心を持っていることは
子どもたちの教育と健康状態がどうなっているかということ。
あちらこちらを走りまわっている時、こんな写真を撮ることになりました。

ちょうど授業が終わった夕方5時ごろ。
学校の校舎の屋根の雨水をここから導いて、タンク、大きいのが3つ。
ここに溜めて、この下のところから飲み水が出る。
子どもたちは、ここから水を飲むんです。
私が校長先生に、「ここには水道がありませんが、お水はどうしていますか?」
と聞いたら、説明してくださったんです。
屋根から雨水をためてこうやってねっって。
それで校長先生に、
「時々このタンク、洗うんですか?掃除はするんですか?」と聞きました。
「もちろんしますよ。」
と、大きな声で答えてくれた。

それで、「あ、そうですか。それは、いいことですね。
いつ最近、掃除をされたんですか?」
と聞きました。
「そうですね、、、、私はここに来て3年目ですが、
そろそろ掃除をしようかなと思っているんですよ、、、。」
と、小さな声で言っていました。

顕微鏡で見たら、この水、いろいろ虫が泳いでいて、たいへんですよ。
子どもたちはこの状況に慣れているし、おなかも強いので、
なんとなくみんな生きていますが、もちろん体が弱っている時に
飲むと下痢をする子どもがたくさんでます。


■人はぶつからないと、本当のことがわからない

牛車に乗せて、飲み水を運んでくんでくる光景です。

若いお母さんが2人、遠いところから飲み水をくんで歩いてきました。
こういう仕事の大切さ、お水の大切さについてみなさんにお話ししてきました。

そうしたら神戸の大震災の1年くらい前、神戸の高校の先生たち向けに
話をしにきてください、と依頼されました。

私が講演で何回もくりかえし「お水は大切です、お水は大切です。」
と話したら、講演後「何か質問はありますか?」
と司会者の方がいったとき、ひとりの先生が後ろから手を挙げて、
「日本人をバカにしないでください。」といいました。
「え、私、そんな気持ちはもっておりません。」
「先生の働いてきたアジアの国のお母さん方は、字も読めない。
5+5も答が出ないという人々ですが、
ここはみんな高校の先生であたまがいいんです。
お水は大切です、といったら、一回でわかります。」

それでも私は丁寧に、
「そうですね。人間はぶつからないとわかりません。
ぶつかるまではわからない。事実とはどんな事実か。」
そうお返事したら、「はいはい、わかりました。」
といって、その先生は会場から出て行ってしまったんです。

司会をしていた校長先生が「すみません。」とかなんとか、
謝ってくださったんですけれど、私は
「そうですね。いつか時間が経ったら、なんとなく、わかりますよ。」
と申し上げておきました。

1年後、神戸の大震災がありました。
地震があった3週間後に、私の家に夜、電話がありました。
後ろの席からこのコメントをした先生から。

「今日は謝りの電話です。以前、お話しに来て下さったときに、私は、、、、」
「あー、それ、忘れましたよ。生徒さん、みなさん大丈夫でしたか?
先生はケガされませんでしたか?」
気楽にしてさしあげようと考えて、いろいろお話ししましたけれど、
でも、どうしても私に謝りたかった様子、、、、

「いえ、今日は謝りの電話です。」と3回くらいいうので、
「先生、それ忘れましたよ。」というと、
「いや、ちょっと事情を聞いてください。」と。

「私は生まれてから毎晩お風呂に入っていた人間です。
しかし、地震の後、3週間お風呂に入ることができていない。
やはり人間はぶつからないとわからないとおっしゃったことが今回、
本当によくわかりました。だから、謝りの電話です。
今日、電話がやっと通じて、一番最初にバルア先生にお話しがしたかった。」

現場を歩きまわると、ろうそくがどんなに大切なものか、
停電のとき、電気がないときによくわかります。
水道から水が出てこないとき、「あー、お水ってこんなに大切なものか。」
おなかが減ると、「あー、サンドウィッチってこんなに大切なものか、、、、」

東大にいた時、医学生さんたちとお話ししました。
私がした質問は、「おじいさんやおばあさんが戦争のころ、
食べ物が足りなかったことをあなたは聞いたことがありますか?」

彼女は、「ありますよ。私もいま、週に1食抜いているんですよ。」
「あ、そうですか。でも理由は違いますよ。」
と申し上げました。
「あなたは冷蔵庫に食べ物がありすぎて、自分がスリムになるために
食事を抜いているのでしょう。あの時は本当になにもなかったんですよ。」

人生では、ハングリー・スピリットといいますが、
お腹が空いてるときの感じ方がとても大事です。
電気がないとき、電気の大切さがよくわかります。
サンドウィッチやおにぎりは、こんなにおいしいものだ、とか。
人間って、ぶつかってはじめて少し理解できるんですよ。

私が、この話、あの話と、いろいろなエピソードをお話ししているのは、
他の先生方みたいにまとまった話ができないので、
これもあれも混ぜてお話ししたら、みなさん一人ひとりそれぞれに
受け取り方がちがいますので、話の中からなにかを感じとっていただきたいのです。

なぜ、こんなことをわざわざ話しているのか、ということですね。
地域のなかのさまざまな事情を見て感じて、大切さを実感してほしいという意味です。

この写真は、ミャンマーの中央部の辺り。

ドライゾーンということで、ほとんど雨が降らない。
お水がないところですから、こんな場所からポンプで、そしてタンクで
水を運ぶようになっているんです。
牛車がたくさん、こんな形のタンクがあって、そこに水を入れて、
それぞれが牛車を持っていない家々向けに売りながら帰っていくるんです。

朝5時に私たちが通る時、こういうふうに並んでいて、
午後3時ごろ帰ってくる時にもまた、同じように長い列に並んでいるんです。
なんと、週に2回しかお水は出ないのです。


■人間として人間の世話をする人を育てる!

こういう階段式のカリキュラムで勉強をして、看護師になり、医師になり、
フィリピンで私も人生の階段も登ってきたということでしょうね。

ある時期まで私は、地域のなかで小さな村の担当医というか助産師として
働いたんです。
今はWHOのコンサルタントです。

ある時期まで私は、自分で自分の学費を払うことができなかった。
でもおかげさまでいまみなさんの仲間づくりの活動、いろいろな
国々で小学校を建てる、奨学金を与える立場になりました。

ある時期まで私は、ヴィレッジ・ボーイ、村の子どもでしたが、
だんだん視野が広がり、国連のパスポートをいただいて、走りまわっています。

ある時期まで私は、写真にあったとおり、農村で大水の中を歩いて
学校に通っていましたが、今は飛行機で走りまわっています。

ここに英語で書いてありますが、
私はある時期、地域の村で働く夢をみました。
それが次第に拡大し、いまはアジアの国々33カ国で活動しています。

フィリピンとかインド、ミャンマー、ネパール、
スリランカ、そういった国々の農村で活動してみて感じるのは、
自分のバングラデシュのふるさとと同じような事情の村々にたくさん出会うことです。
こういうところで働いてくれる仲間をつくること、
先ほどから繰り返し申し上げています。

東大医学部にいたとき、アジアの国々からたくさんの医学生が留学にきていました。
学んだ後、故郷に戻る。
同じように、日本人の医学生たちにも海外に行って、
こういう仲間たちと架け橋というかな、、、、現場を歩きまわって、
だんだんに仲間をふやしていってほしいものだと願いました。

地域のなかでは、医師も看護師も足りないので、
村人の推薦で村人のために村人とともに学んで村人のお世話をする人
を育てることがとても大事になります。
教員の方々、東大の先生方にもそう申し上げて、ハッパをかけております。

アジアの国々から見ると日本はたいへん豊かな国です。
ですからもっと積極的に、人間として人間のお世話をする、
そういう若者が日本で生まれてくることを期待しています。
ご自分の見方を少し、日本のことと同時に、アジアの村々のことも
考えてくだされば実にうれしいことです。

子どもたちのために、安全な寝る場所を作ってあげなければなりません。

アジアの兄弟として、安全な居場所を与えられるようにぜひお願いいたします。


■アジアの現場での活動

当時、1987年ごろ、フィリピンのレイテ島に大きな台風がきました。
写真の後ろに見えているのは海。
椰子の葉っぱで作ったおうちで、海の上。
そこの玄関にこの子がいました。

台風の来た3日後に、医学生のグループを作って救援に行ったところ、
この子がこんなふうに座っていました。

3日間、何か食べたかどうか、、、、何も言葉も出ない。
お母さん、お父さんがどこに行ったか、、、、わからない。
兄弟たちはどこに行ったか、どこに流れていったか、わからない。

見つけた時、こういう子たちに安全な寝る場所を与えることが、
私の責任だと感じました。

カトリックのシスターたちがいたので、シスターにお願いして
この子の世話をしてもらったんです。
 
安全な飲み水、そして安全な居場所を将来の子どもたち、
あるいは今の子どもたちに与えなければならないです。

私たちはアジアの兄弟として、できることがあるはずです。

この写真を撮ったのは、ネパールの小学校から車で1時間くらい行ったところでした。
この村には小学校がなくて、日本でしたら必ず小学校に行っている年齢ですが
この子たちは行っていませんでした。

この子たちの写真を撮るとき、すごく明るい顔をしていました。
後ろに太陽の光があるから、私が逆にこの辺に立って「こっち向いてよ。」
といったなら、もっときれいな写真が撮れたかもしれません。
でも、私はなにかしら責任を感じて、このように逆光で撮りました。
彼らのための教育の光が彼らの後ろにあります。
基本的な教育を受けさせなければならない、それも私の責任、と感じたのです。

この写真を撮ったのは1994年でした。
いまはもちろん大人になっていて、労働者として働いているかもしれません。
学校に行けなかったですからね。

インドの町なかで撮った写真です。
このような基本的な医療を皆に与えることが私たちの責任です。
もっと幅広く、私たちはこういうふうに考えなければならないことでしょう。
お互いさま、と先ほどもお話しがありましたけれども、
お互いさまとして考えていく必要があります。

もちろん、いろいろなことがありますよ。
たとえば「日本は島国ですから」と。
それでも、他のアジア諸国では、生きていけない子どもたちがいる現実が
あるんです。
 
基本的な医療を必ず与えることが私たちの責任ということですね。
なぜ、わたしがそういうことをいっているか、この詩にあります。


彼の名は今日

(His Name is "Today")

われわれは多くの過ちや間違いを犯している
しかし最大の罪は子供達を見捨てていることだ
この生命の泉を無視していることだ

多くの必要なことは待つことができる
しかしこの子にはそれができない
今、彼の骨がつくられ、血がつくられ
感覚が育っているのだ

この子に対して私達は”明日ね”と言うことはできない
この子の名前は”今日”なのだ。

ガブリエラ・ミストラル(チリー)


明日まで彼らは待てないんです。
今できることを、私たちは、はじめなければならないのです。

中学生だったころ、僧侶のおじさんに
「私はなにをしたらいいですか?
子どもたちのお世話をいろいろしているけれど、
その他になにをしたらよいでしょうか?」と、相談しました。

おじさんは私に、「自分ができるところからはじめなさい。」
と、いってくださいました。

それから3日ぐらいして私が戻ってきたら、
「やあ、バブはいろいろしているけれど、もっともっとやってほしいな。」
といって、「皮膚病で困っている子どもの体を洗ってあげなさい。
自分の体を洗うように丁寧に。」と。

その子たちは、皮膚病で大変なことになっていました。
おじさんはお坊さんでしたから、ひとりでみんなの世話をしていて、
私の姉も手伝ったことがありました。
私は、顔にハンカチを巻いて体を洗ってあげました。
子どもたちの皮膚は、日に日によくなっていって、洗ってあげていた
子どもたちは、おじさんが2階から降りてくるのを待っていないで、
私がくるのを待っているようになりました。
毎日、朝になったら、体を洗ってあげていたものですから。

おじさんが戻ってきて、
「子どもたちの体を洗ってあげて、どうだった?」
「やはり、うれしいことです。子どもたちがにこにこして
『お兄さん、いつくるかな、、、』と待っていてくれているから。」

おじさんは、いいました。
「自分ができるところからはじめて、自分の心の満足を見つけなさい。
自分の心に満足できることを続けることで、名前とか、ポジションとか、
お金とか、それらは後で全部ついてくる。」

ゼロからはじめて、10年かけてとりくむ。
志があれば、それでいろいろ出てくるんですよ。

ゼロがやっと1になる、10年かけて。
その後、1の右側にゼロがつく、、、、ゼロが拡大、たくさんのゼロがつく。
難しい話かもしれませんが、やはり私たちはがまんしながら、
自分にできるところからはじめていく。

あるいはみなさんとともに、一緒に生きていくこと、これが大切なことです。


■わかちあいの人生

ヴェトナムの村で撮った写真です。
この方が通訳してくださったのですが、
こちらがハンセン病の患者さん、とても明るい顔をしていました。

私はいろいろな方に会いますが、びっくりして
「なんでそんなに明るいんですか?」
と聞いたんです。
彼の答えは、「だって、私は生きているんですもん。」
私は生きてるんだもん、と。

3回も同じ質問をしても、
「生きているからうれしい。」
「あ、そうですか。」

私はこの方の治療が終わった後に、
「ちょっと待ってください。あなたの人生のお話を聞きたい。」
と言ったら、人生の話を聞かせてくれました。

農業の仕事をしていて、家族4人で、
奥さんと息子さん2人と田んぼの仕事をしていました。
突然、アメリカが戦争の時に埋めていた地雷が爆発して、
自分の奥さんと息子1人はその場ですぐに亡くなって、
この方は左足がやられた。
左足のここまでを切って、村人が木で義足をつけてくれた。
その後、足を引きずりながら農業の仕事をしていました。

3年ぐらい後、また田んぼで地雷が爆発し、その時は1人で
仕事をしていて右目がやられてしまった。
病院から帰ってきて、また足を引きずりながら農業を続けていましたが、
その後ハンセン病になった。
今度は指先がなくなってしまった。

近くにお医者さんがいなかった。
ハンセン病の治療は無料ですし、どこの国でもすぐに治療開始できるんですが、
医師が周囲にいなくて、発見が遅れました。
薬ももらっていなかったので、その間に彼の指先がなくなりました。
日本ではハンセン病への差別もありますが、ヴェトナムにはないんですよ。

彼はすごく明るい。
それで、「あなたの人生に、大変なことがこんなにたくさんあったのに、
なぜ明るいのかもう一度説明してください。」
と聞くと、「そうですね。」
と言って、次のことばばかりいっている。
 
Life means sharing.
「わかちあいの人生です。」と。

「あなたはいま、どうしているんですか?」
「少しの田んぼで農業をしています。息子と2人で生活していますが、
ふたりで1年に300キロのお米が必要ですが、
私は400キロも作っています。
だから100キロのお米は、土地を持っていない村人にわかちあっています。
彼らが、3食ちゃんと食べていることを見るのが私の喜びです。
生きているから、それがうれしいです。
わかちあいの世界。わかちあいの人生。
家内も亡くなったし、目の前で息子も亡くなった。
あの日私も死んでいたら、なんにもならなかった。」

この人は、400キロのお米を作って300キロは自分のために、
100キロはわかちあっている。
こんな明るい人生だったら、私たちにもわかちあうことはたくさんありますよ。

私も、そのわかちあいの人生に加わるために、昨日インドから参りました。
みなさんと一緒に仲間づくりのことにとりくんでいきたいと願っています。

では、最後にちょっと考えてみましょう。
この3つの質問です。

(1) 25年後の日本はどんな国になるでしょうか(今のままで行くと)?

(2) 25年後あなたが住みたい「理想的な日本」はどんな国でしょうか?

(3) 25年後あなたが住みたい「理想的な日本」を創るために、
    今からあなた自身ができることは何ですか?

今日ぜひ、みなさん持ち帰ってください。

これで終わります。どうもありがとうございました。

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