講演録「地域医療を考える」第2講、前半
2011年8月7日(日)@新潟市西蒲区巻文化会館

       WHO(世界保健機関)医務官 医学博士 スマナ・バルア博士 

今日は、お招きいただき、ありがとうございます。

おとといの金曜日、私はインドのオフィスで一日仕事をしました。
そして夜の飛行機でバンコクを経由し、昨日土曜の夕方、東京に着きました。
たくさんの医学生さん、昔からの仲間がホテルで待っていてくれました。
今朝の新幹線で新潟へ参りました。

少しさかのぼると先々週の週末、日曜にインドからミャンマーに行って、
1週間、国際会議でした。
そして先週末ミャンマーからニューデリー事務所に戻りました。

このように走りまわってる人間です。

私の誕生日は、1955年5月5日、子どもの日。
5、5、5、5と並んでいて、英語では「Go」とは走りまわるという意味です。
そういうふうに人生が向かっています。

なぜ、私が走りまわっているのかというと、地域医療こそ私の心の中心だからです。

人生がこういうふうにGo、Go、Goと走っているし、またこれを日本
の若い医学生さんや看護学生さん、医療従事者の方にお伝えしています。

さきほど色平先生もいっていらしたとおり、人間は100%死ぬものですので、
人の臨終に関わる仕事の重要性をどうやって若者たちにお伝えし、わかちあえるのか。
私自身の歩んだ人生の道を考えながら、仲間づくりを目標にして、
このように歩きまわっています。

色平先生は日本のことをお話しになりました。
私からは地域医療のこと、アジアの国々の人々とどのように関わってきたのか。
またそこからなにを学んで、なにをいま若い世代にお伝えしているか、
自分の自慢話をたくさんいれながらお話ししたいと思います。


■アイデンティティーとは

世界保健機関で働いていますが、今日はみなさんとわかちあうためにきました。
アジアの地域医療、その現場からきたひとりとしてお話しします。

私には、心から尊敬する岩村昇先生というドクターがいます。
その先生は、鳥取大学医学部で勉強された後にネパールの奥山で長く
20年間働かれました。

その先生のことばです。

・取り残された場所へ行って
・取り残された人々とともに
・取り残された問題を取り組む
 
これが大切なことです。
だんだんと地域から小学校もなくなり、病院も診療所もだんだんに、、、、
そして医師も看護師も足りない、と先ほど伺いました。
地域のなかで医師、看護師、医療従事者を育てる、
そんなシステムをどうやったら作れるのか。
岩村先生が、日本人のひとりとしてずっと考えておいでになったことです。
私は先生からいろいろ学ばせていただき、あちらこちらのアジアの現場で
私もまた実践してまいりました。
一人ひとりの医療従事者にとって、アイデンティティーとはなんでしょう?
ここから話がはじまります。 

私たちは、自分がどこからきて、なにをして、どうなっていくのか、
といった自分の足元(あしもと)のことを忘れています。
どうやって自らの人生の問題を見つめ直すのか、とても大切だと思います。

英語と日本語とで書かれた詩です。


アイデンティティー

私はだれなのか

私はどこから来たのか

私はどのようにしてここへ来たのか

私はここからどこへ行くのか

私はどのようにしてそこへ行くのか

私はそこで何をするのか

私は、助産師の免許、看護師の免許、そして医師免許をもっています。
しかし最終的に私と患者さんとの間の基本的アイデンティティーは「人間」です。
「同じ人間として人間のお世話をする」ということです。
 
医師としてお世話をすることより、アイデンティティーを中心にして考えるなら、
もっともっとすばらしいお世話ができますよ、ということでしょうか。
私はいつも「人間として人間のお世話をすること」を主張いたしております。
仕事が多すぎて、過労で倒れる方も周囲にいらっしゃいます。
人間が人間として人間らしく人間の世話をする、これがいま忘れられがちです。

こういう具合にアイデンティティーを中心に考えつつ、
仕事をし続けてほしいものだと、医学生さんたちにハッパをかけながら、
自分の人生の道もお話しします。
私自身のアイデンティティー、私はだれなのか、
私はどこから来たのか、私はどのようにしてここへ来たのか。
自慢話をしながら、学生たちにもご自身の自慢話を
築きあげていただくよう、申し上げています。


■医師をめざす

私が勉強した小学校です。
1994年に撮った写真です。
日本の小学生に見せると、「先生、これはなんですか?
田んぼのなかに小学校があるのか、あるいは小学校のまわりに
田んぼがあるのですか?」
子どもの推理力はじつにおもしろいですね。

私がなぜみなさんにこういっているのか、それも少し考えてみてください。
こういうところで勉強していた私ですが、12歳の時、近所のお母さんが
赤ちゃんを産むとき亡くなったんです。
医師や看護師が周囲にいなかった。
朝、小学校に行こうとしたら、母が泣きながら近所の家からでてきました。
「お母さん、なぜ、泣いているの?」と聞いたら、
「学校へ行きなさい」と母がいう。
母が泣いているということは何かあったのだと、子どもだから怖かった。
20メートルほど歩いたところで今度は姉が泣きながらいましたので、
「お母さんも泣いてるし、お姉さんも泣いている。どうしたの?」
と聞きました。
「近所のお母さんがお産で亡くなったの」と聞かされました。

私は12歳だったので、
その方が妊娠していることを知っていましたし、うちは仏教徒の家系で、
おじさんも僧侶で、代々、家族にひとりはお坊さんがいます。
お客さんがたくさんきた時には、このお母さんは台所で手伝ってくれていました。

こんなぶつかりの体験があったので、私は、「人生にどんなたいへんなこ
とがあっても医師になります、人々のお世話をします。
私の村をはじめ周囲の村々、医師や看護師のいないところで働きます。」
と、自分で自分に約束したんです。

ところで、日本の医学生さんたちに私が「自己紹介を
してください。」「どんなぶつかりの体験があって、あなたは
医師を目指すのですか?」と聞くと、なかなか答えがないですね。

「そうですね、、、成績がよかったから。」

「わたしのうちに県の教育委員会の人がきて、学費を援助しますから
医学部の勉強をしてください、といわれたので。」とか。

自分の人生のぶつかりの体験がなければ、自らのアイデンティティーを
しっかり保って仕事を続けることは、難しいのではないかなと感じます。

自分の話に戻ると、バングラデシュでは雨期の時期に洪水がよくおこるので、
中学生のとき、こういうふうに水の中を歩いて登校していました。

その後、どうしても医師になりたいということで、
兄が、京都工芸繊維大学で勉強中でしたから、日本にきました。
しかし、日本の医学部は専門、専門にわかれてしまっていて、
発展途上国の現場に、それでは対応できない。
私が働きたかった場所には、当時、電気も水道もなかったので、
求める医学校に出会えるまであちらこちらの医科大学をあたりました。
日本語もできるかぎり勉強しつつ。

しかし、結局日本で医学の勉強をすると、自分の国にその技術を持って戻れない
ということがわかり、外国人労働者になってしまったんです。

1980年代、外国人労働者は日本にたくさんきていましたが、
私の場合は70年代はじめでしたので、日本の外国人労働者のパイオニアですよ。

当時、長野県の八ヶ岳、富士見高原にあるゴルフ場で草を植えていました。
中央高速道の小淵沢インターチェンジを作る労働者として働いたこともありました。

そんなふうに、苦労しながら3ヶ月ほど日本で仕事をし、
2週間海外へ行って、シンガポールやフィリピン、マレーシア、
韓国などをまわって、どこに行ったら求めている
地域医療の勉強ができるのか、医学校を探して歩きました。

今だったら、インターネットでさっそく検索可能なことなのでしょうが、
当時、三十数年前はなかった。
やはり自分で苦労するしかない、、、、
いま私が感じていることです。
自分で苦労して、自分で自分の道を見つけることができたら、
後で自慢話になるんですよ。

労働者として働いた後、医学部で勉強をして、今は国際公務員として
大使館の大使さんたちと私の立場は同じ。

しかし、今日は国際公務員の立場でここにきているのではありません。
その資格では、みなさんと仲間づくりの活動はできないんです。
いくら忙しくても、年に2回は日本にきます。
明日も新潟がんセンターで集まりがあるのですが、みなさんに
集まっていただき、自分が苦労してきたことをお話ししながら、
みなさんの心になんらかのインスピレーションが生まれればいいなと
願いつつ、仲間づくりの活動に関わっております。

これは、記念写真で撮ったもの。
牧場で働いたときの写真、そして畑で野菜を作っていたときの写真です。

お金を少しずつためて、外国に行って、とこれをくりかえし、
やっとフィリピンのこの医学校、フィリピン国立大学レイテ分校を見つけました。


■フィリピンで念願の医学校へ

この医学校はレイテ島にあります。
レイテといえば、日本には思い出話がある方もいらっしゃると思います。
戦争がひどかったところですから。

この学校の興味ぶかいところは、地域医療を志している若者たちが、
地元の村人の推薦で勉強にきている点です。

階段式カリキュラムで勉強し、一番最初、助産師になります。
助産師は普通に考えると赤ちゃんをとり上げる仕事ですが、
それと同時にもっと別のこと、例えば予防接種などさまざまな訓練を受けます。
たとえば、ご老人のケアからはじまって、全部ひとりでできるようになります。

自分の村に助産師がすでに一人いたなら、村人の推薦で
その次の段階へ進学し、看護師をめざします。
フィリピンの場合、一番現場に近いところで働いているのが助産師さん、
その次が看護師さんです。

この階段式の勉強方法ですが、この表にあるとおりその後、
国家試験を受け、また村に戻って働き、さらに勉強を続けます。
看護師の国家試験を受け、さらに勉強を加え、地域医療を
専攻して学士資格をとります。
村に入って村人とともに学びながら、さらに医学部の勉強をするのです。

日本だったら、ほとんどが病院を中心にした実習なのでしょうか、
機械や数字などいろいろなことを覚えないといけないのでしょう。
ここレイテ分校では「地域の中で働く人を育てる」ので、地域医療を
専攻にして、地域のなかで仕事をしながら村人とともに学ぶという方法をとります。

つまり、村人が自前でできるように訓練し、これが実現した後、
自分も学校に戻り勉強を続ける、そういった活動の流れです。


■いのちはレントゲンに写りません

英語で書いてありますが、人間の健康にはさまざまな影響が外部からあります。
一番上に書いてあるのが「教育の影響」。

日本だったらみなさん字が読める。
しかしアジアの多くの国々の農村、特にお母さん方、女性はあまり学校に
行けていない、あとで写真にもでてきますが、行けない事情があります。

「教育の影響」のほかに「経済的な影響」もありそうです。
お金がないと、健康診断もできないし、医師にもかかれない。
病院にも行けないという人たちもいて、これらは「社会的な影響」。

そして「文化的な影響」。
もちろん、政治関係、あるいは内戦。
たとえばコソボやスーダンなどいまも戦闘がある場所もあります。
こういったところでは健康状態に、おおいに影響がでます。

「ナチュラル」とは「自然の影響」です。
地震、例えば神戸のときの子どもたち。
東北地方の津波被害もそうでしょう。
自然環境も、一人ひとりの健康に打撃を与えます。

私がよく学生さんたちに申し上げることは
「いのちはレントゲンに写りません」ということです。

たとえば56歳の私が頭が痛いといって病院に行ったとき、
レントゲンを撮ってください、とか、CT撮ってきてください、
といわれますね。
それは当たり前、私も医師ですからわかりますよ。

しかしその前の話、そして、その後の話があります。
なにも聞いていない。
頭が痛くてたまらないんです、といっても、
「いますぐ、結果がでるようにします。」といってしまっている。

今日も、会場に知りあいの医療関係者がたくさんおいでになりました。
私と初対面の医療関係者の方は少々がまんしてください。
また、辛口の話がはじまったから、、、、
インドで辛口の料理をふだん食べている者ですので、カレーの辛さが残っています。

レントゲンの写真ができたら、ガチャガチャとつけて
「異常はありません。」という。
「この薬をさしあげます。
痛みが続いたら3日後にまたきてください。」
3時間待たせて3分診療、これもよくいわれるところですが、
そこには、56歳の私がこの3日間ちゃんと休めたのかどうか、
について、聞く心の余裕がないんです。

「この1週間、よく休まれました?」と聞けるかどうか。
あるいは、ずっとお酒を飲んでいたのかもしれない。
ずっと奥さんとけんかをしていたかもしれない。
課長から部長に昇進したところでクビになったのかもしれない。

頭の痛みの原因は、いろいろあり得るのです。
でも、それらはレントゲンでみても、写りません。

地域のなかで働くことは、社会の具合を聞く、ということにつながります。
病院の現場でもそうですが、医師や看護師はもう少し時間をかけてください。
いや、医師が足りないからそんな時間はないよ、、、、とか、じゃないんですよ。

社会的なこと、心理的なことはレントゲンには写らない、
でも人生はそこにもあるんです。

そして、薬をだします。
血圧を測ったら、今度は数字で人をみる。
血圧がなぜ高いんだろう、それではコレステロールをはかってみましょう。
コレステロールを下げるため、薬をたくさん持って
帰らなければならなくなりました。  

逆に、もう少し考えてみましょうか、、、、
自分は人間です、目の前の患者さんも人間です。
社会的なことがいろいろ自分の心にも影響があるのだから、
当然、患者さんの心にもあることでしょう、と考え続ける、
こうしてつなげて考えてみるチャンスがなかったのかもしれません。

結果、数字で人をみる、レントゲンでいのちを助けましょうと思ってしまう。
なかなか通じないのですが、地域のなかで活動しながら、ここのポイント
を理解できる若者を育てていくことに私は関わっております。
相手のことを理解し、気楽に話せる雰囲気づくりが大切だな、と思っております。


■人々が自前でできることを地域のなかで育てる

「人々の中へ」   Go to the people 

人々の中へ行き
人々と共に住み
人々を愛し
人々から学びなさい
人々が知っていることから始め
人々が持っているものの上に築きなさい

しかし、本当にすぐれた指導者が
仕事をしたときには
その仕事が完成したとき
人々はこう言うでしょう
「我々がこれをやったのだ」と

レイテの医学校は、この詩に書いてあるとおりでした。

人々から学ぶことが大切です。
教科書には書いてないことが、村人の話のなかからでてくる。

しかし、村人にとって私は「外部の人間」です。
レイテで25年前に働いていたところにいま私はいない。
けれど、彼らが助けあって生きていけるように自分たちで血圧を測る
グループを作りました。
こういう勉強会が多数あって、糖尿病グループなど、代々続いているんです。

60歳以上になった方々がいまメンバーになっています。
地域のなかで、人々が自分たちでできること、人々が自前で
できることを育てていくように促す必要がありますよ。

これはレイテの写真です。
こういうふうに村から村まで川を渡って往診に行きました。
川があるけれど、橋がないということもあったんです。

こういうふうに村から村まで歩いて赤ちゃんを取り上げて
次の日の朝、帰ってきました。
この村、電気はないんです、薬屋さんもない。
下痢で子どもがたいへんなことになっていたら、若いココナッツ
の実の中の水を飲ませれば大丈夫、ポカリスウェットと同じ内容です。
同様に現地の人々に薬草のことを自ら学んでもらう。
村にはじつは財産がたくさんあるんですよ。
自ら学び、それを後で仲間とわかちあう。

この写真は結核のおばあさん。

私は同級生といっしょに行ったり来たりしたんです。
このうちは、ココナッツの葉っぱで家の壁と屋根が作られていて、
写真に子どもたち3人が顔を出していますが、
ここのおばあさんは肺結核を持っているんです。
地域のなかでくらす結核の患者さんです。
病院がありませんから、この場で「結核はどういう病気か」
「どうやったらおばあさんの病気が子どもたち、孫たちにうつらない
ようにできるか」

それを説明する、教えてあげる必要があります。

フィリピンのレイテ島です。

このお母さん、私が写真撮るとき、ニコニコしていました。
そして、2時間ぐらいしたら赤ちゃんが生まれました。
遠いところから、こんな時期に牛車に乗ってここまでくるのがどんなに
危険なことかお母さん方にはわかっていると思います。
地域のなかに、ハナが高そうな医師がいたってしょうがないんです。
お母さんたちの命を助けることがなにより大切です。

診療所がないので、小学校の教室を借りて、若いお母さんたちに
5歳以下の子どもさんを連れてきてもらい、月に1回いろいろ健康相談
をすることにしたんです。
いろいろな教育活動をしました。
専門はなんですか?といわれたら、なんでも屋さんです。
先ほどお見せしたとおり、赤ちゃんをとり上げる、
あるいは皮膚にでき物があったら、その手術もしなければなりません。
外科の仕事、内科、小児科の仕事、すべて、村人の生活に関わることです。



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