「不便さと地域医療」

     丸善「学鐙」109巻第1号(2012年3月)
    JA長野厚生連・佐久総合病院 地域ケア科医長 色平哲郎   

http://www.maruzen.co.jp/corp/gakuto/index.html


最近は、多くの人が「地域医療」という言葉を口にする。

では、地域医療って何だろう。地域といっても多種多様だ。そもそも地域とかけ離
れた医療というものがあるのだろうか。「高度医療」がある、と反論されるかもしれ
ないが、専門的で技術的に進んだ医療であっても、患者さんの多くはその医療機関の
立地する都道府県から集まってくる。本質的に地域とかけ離れた医療は存在しない。

にもかかわらず、メディアも含めて地域医療という曖昧な言い方を、なんとなくわ
かった風に使うのはなぜだろう。
推測するに、農山漁村、離島などの「へき地の医療」を、差別的ニュアンスを払しょ
くして、気の効いた言い方に変えようとして地域医療を多用するようになったのでは
ないか。使ってみると田舎だけでなく、都会の医療にもあてはまりそうだ。こりゃ便
利だ、と使うようになった。背景にはお手軽で便利な物言いを好む現代の風潮がある
ような気がする。

しかし、十束ひとからげに地域医療と言っても、たとえば私が10年間診療所長とし
て張り付いた長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村の「村に密着した医療」の実態
はとらえられな
いのではないか。都会の人は、へき地の人たちは医療機関にかかるのも大変で、さぞか
し不
便でお困りでしょう、と言う。確かに病院へのアクセスの悪さは頭が痛い。クルマを
運転できないお年寄りにとって、一日一、二本のバスが「命綱」である現実は否定し
ようがない。

だから山村の医療は貧しい、と思ったら早とちりである。一例をあげよう。

同僚の長(ちょう)純一医師は、南佐久郡小海(こうみ)町を中心に高齢者の「在宅ケ
ア」に取り組んでいる。
毎日、往診に出かけている。彼は埼玉県の三郷市でも在宅ケアの経験があるのだが、
首都圏と佐久地方の高齢者の生活に直に接してきて、こう語る。
「都市で孤立している高齢者より、信州の田舎で畑に出ている独居老人のほうが、認
知症の進行が緩やかだと感じます。認知症が進むかどうかは、人と人の関わり合いに
かかっている。村では、多少ボケても、畑に出て野菜をつくったりして、役割を持て
ます。野菜を収穫すれば、隣近所にも配れて存在感を示せる。周りの人たちも、火事
さえ出さなきゃいいよ、とその人を見守ってくれます。その関係性が大切なのです。
都会で無縁化する高齢者には、なかなか望めません」

認知症の進行が人と人の関わり合いに左右されるという視点は、極めて重要だ。人
と人が関わり合うには、互いに相手を認めなければならない。ここがポイントだ。
認知症にかかれば、直近の記憶が薄れてくる。最初は切れかけた電球が点いたり、消
えたりするように斑状態で記憶が薄れるが、やがて時間や周囲の状況がどんどん曖昧
になって不安が高まる。じぶんが壊れそうな不安にさいなまれ、同じことを何度も尋
ねてしまう。

さらには幻覚、妄想、攻撃的な言動や徘徊へとエスカレートしていく。これを問題
行動、異常行動として「認知症患者」は社会と切り離され、治療と称する隔離状態に
置かれるケースもある。

では認知症は特殊な病気なのだろうか。じつは、そうではない。認知症の有病率は
65歳以上で平均14.4%、85〜89歳では3人に1人の割合だという(厚生労働省科学研究
費補助金総合研究報告書「認知症の実態把握に向けた総合的研究」)。

これだけ一般化してくれば、もはや特殊な病気とはいえないだろう。私もあなた
も、いずれは認知症にかかる可能性は高い。
じぶんが、もしも認知症にかかったとして、「患者」の烙印を押されたら、どう感じ
るだろうか。不安や怖れは「認知症患者」と呼ばれることでさらに高まるだろう。誰
しも患者である前に「人」として認められたい。
その点、佐久地方の田舎には患者ではなく、その人を「認知症の人」として認める
「不便さのなかの自在さ」がある。多少ボケても「○○さん、大丈夫かい」と隣近所
が支える。
認知症の人は、会話が途絶えがちになるが、話をすることで脳が活性化され、不安感
も徐々に薄らいでいく。認知症の人には、ゆっくり、わかりやすく話す。一度に複数
のことを話しかけてはいけない。コミュニケーションをとるにはコツがいる。認知症
の人を排除せず、受け入れながら、見守る余裕が共同体にも求められるのだ。
もちろん認知症は医学的に万全の対処をしなければならないが、まずはその人の存在
を認めることだ。便利な都会の医療機関が効率的に認知症の診断を下すのとは対極の
「ゆとり」が必要なのである。

村の小さなコミューニティーの人と人の関係性は、都会に比べるとはるかに濃い。皆が
知り合いで、どこへ行くにも「監視」されている窮屈さを感じることもある。その濃
密さはしばしば嫌われるが、一方で濃密であるがゆえに命を支えあうネットワークも
形成できている。長所と短所は裏表だ。不便さのなかの自在さは、実際に経験してみ
ないとわからない。共同体が育んできた関係性の「厚さ」は外からはわかりにくい。
「大家族」の逞しさなども都市生活者には実感が乏しいだろう。かく言う私も都会育
ちで、信州の土地になじむまでに、たくさんの出会いが必要だった。

山の診療所に赴任して間もない十数年前のこと。99歳の女性ツルさんが脳梗塞で倒
れ、入院設備が整った小海分院に搬送した。診療所長だった私は、分院の当直も時々
担当していた。ある当直の夜、ツルさんのようすを見に行った。ツルさんは病室の入口
に背
を向けて、じっと壁を見つめていた。声をかけても、まったく返事がない。無表情
で、押し黙り、じっとしていた。

年齢が年齢である。しばらく入院していたが、「そろそろですね」とご家族と医療
者の「あうんの呼吸」でツルさんは分院を退院し、野辺山の自宅に戻った。野辺山は終
戦直後、約170世帯が「緊急開拓事業」で入植して切り拓かれた「地域」である。
野辺山の自宅に帰ったツルさんは、居間のベッドに横たわった。あんなに無表情だった
ツルさんに笑顔が戻り、言葉もひと言、ふた言発するようになった。
往診に行くと、鴨居の上に掲げた半紙大の額装がツルさんを穏やかに見下ろしてい
た。絵か、写真か、賞状か、診療中は特に気にとめることもなかった。
三週間ちかくかけて、お看取りをした。
「ご臨終です」と告げ、「下のお世話」をして体を清め、両手を胸で組んで固定す
る。その処置をしていたとき、思わず「えーっ、あれぇ」と声を上げそうになった。

村人が三々五々、看取りの場を訪れて故人の思い出話をして帰っていくのだが、来
る人、来る人、みんな知っている顔だったのだ。消防団でラッパを吹く男性、役場の
気のいい職員、子どもの同級生のお母さん、佐久病院の職員もいた。
ツルさんの臨終の席にどうして彼らがいるのか。都会しか知らない私にはまったく見
当がつかなかった。野辺山では人が亡くなったら、誰かれかまわず弔いにくるのか。

いぶかしそうにしていると、ツルさんの孫娘が鴨居の額をそっとおろした。
「先生、おらっちのばあちゃんの米寿の写真だよ。みんなで撮っただ」
「これ、全員、親戚なの?」

群衆のまんなかに赤いチャンチャンコを着たツルさんが、悠然と座っていた。野辺山
に開拓団で入植したツルさんは、12人の子を産み、孫、ひ孫、やしゃごは合計71人。そ
の伴侶等々を含めれば百人以上の一族がちかくで暮らしていたのである。
ツルさんは、村の基礎をつくった「族長」だった。一族の肖像写真は神々しい輝きを
放っていた。共同体の厚さとは何か、ツルさんは自らの死をもって教えてくれた。
と、当時に看取りの場が村人の「弔問外交」の舞台だということも知った。医者が地
域デビューするには、じつは看取りは大切な機会だ。お茶をすすりながら、みんな医
者の一挙一動を見ていた。
はたして自分がうまくデビューできたかどうか、ふりかえれば心もとないが、過疎地
での大家族との出会いは、都会育ちの私には衝撃的だった。なるほど共同体の根っこ
とは、こういうものか、といたく感心したものだ。
あれから十数年、共同体にとっての便利さとは何か、改めて考えさせられている。

日本社会は、戦後、一貫して経済的私益を追い求めてきた。便利さの追求は、私益拡
大と一体だった。原子力発電所が狭い国土に50数基も建設されたのは、その典型だろ
う。
そして便利で儲かる原発が大事故を起こしたのにもかかわらず、まだ方向は転換され
そうにない。福島の相双地域が壊滅的な被害を受けたのに、責任ある立場の人間は私
益拡大の発想から出ようとしない。根底にいったい何があるのか。

ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏の『原発と権力』(ちくま新書)には原発に経済成
長の「明るい未来」を仮託する裏で権力者が軍事力増強への欲望を肥大化させた事実
が詳述されている。同じく「国民皆保険が危ない」(平凡社新書)は「いつでも、何処
でも、誰でも」診療を受けられる医療の根幹が、市場での私益追求の圧力で崩壊しか
かっている現状が綴られている。

私益追求を便利さという言葉に置き換えることは、そろそろやめたいものだ。私たち
は、ほどほどに便利で、ほどほどに不便な生活でいいのかもしれない。地域に密着し
た医療は、そのような価値観のなかでこそ、大きな力を発揮すると思われる。

=====
inserted by FC2 system