全員のリスクに全員で備える「国民皆保険」の危機

  ――TPPで医療難民が続出するかもしれない―― MOKU2012年4月

     JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長
     色平哲郎(いろひら・てつろう)  

TPP(環太平洋連携協定)問題は、日本の農業生産者と工業生産者の
経済的な戦いでも、かけひきでもない。

TPPは日本人の命と暮らしに直結する重要な問題を孕(はら)んでいる。
それは「国民皆保険」の存続の危機である。
日本が世界に誇る公的医療保険制度が崩壊し、金持ちだけが医療を
受けられるアメリカ並みの医療が広まっていくのか!?
「全員のリスクに全員で備える」という「公(おおやけ)」のあり方が、
現実のこととして、命のこととして、目の前で問われている。


■「混合診療」の全面解禁で
 懸念される日本の「宝」の崩壊

日本では、健康保険証一枚で、いつでも、どこでも医療機関にかかれます。
医療費の一部負担で治療を受けることができる、
この国民皆保険は非常に素晴らしい仕組みです。
 
一九六一(昭和三十六)年にこの制度ができて五十年が経ちました。
会社員なら健康保険組合、公務員なら共済組合、自営業なら国民健康保険
によって国民全員が社会保険料を出し合い、本人または家族が安心して
治療を受けられるこの公的医療保険システムを、現代の日本人は水や空気
のように当たり前のことと感じています。
しかし、世界ではいまでも決して当たり前ではありません。

米国のように、先進国といわれながら国民の六人に一人(四千万人)が
医療保険に加入できず、まともな医療を受けられない国も少なくありません。
米国で歯の治療をするなら、飛行機代を使っても日本で治療したほうが
安く済みます。
五十年も前に国民皆保険制度が始まったことは画期的なことだったのです。

「助け合い」を具体的なかたちにした国民皆保険制度の導入までの歴史は、
日本の近現代史そのものでした。高島炭鉱事件、第一次世界大戦、関東大震災、
金融恐慌、身売り、国家総動員体制、GHQ、、、農村の困窮を下敷きに、
それらの出来事とパラレルに出来上がっていったのです。
多くの尊い命を失った戦争のバックアップとして、国民の健康を守る
保険制度が拡充していったことも忘れてはならない事実です。

「日本は敗戦のあと、どうしてあれほどの高度成長が可能になったのか?」
と、外国の方からよく聞かれます。私は手前みそに「国民皆保険があった
からです」と説明します。
国民が安心して暮らせることが国の発展に繋(つな)がるからです。

しかし、その話をするとき、彼らはちょっと考えます。
「自分たちの国に、国民皆保険制度を導入できるだろうか」と。
彼らを考え込ませるのは、この制度が「全員のリスクに、全員で備える」
というスタンスによって成り立っているからです。
全員が全員のために、という信頼を前提とした関係性が重要になってくる
制度なのです。

医療費は安いほうがいい。しかし、自分や家族が病気になったり
大怪我(おおけが)をしたときの医療の質は高いほうがいい。
この絶対的な矛盾を解決するために生まれたのが国民皆保険制度なのです。
それほど、この皆保険制度は世界的に見て、貴重で大事な「宝物」です。

現在、世界では約五十カ国が皆保険制度を導入し、
サービス給付を徐々に増やしている最中です。
しかし、多くの国がその財源だけでなく、
医師や看護師の確保の困難さで悩んでいます。

日本でも、少ない現役世代が多数の高齢者を支える負担が増すなか、
この制度が大きな曲がり角に差しかかっています。
一つの理由は、無保険者の増加です。
もう一つは、TPP(環太平洋連携協定)という国際関係によるものです。
これが大きな問題となることが懸念されています。
それは医療分野にも「自由化」を求める外圧だからです。
米国式の性急に「儲(もう)ける」パターンが押し寄せた場合、金持ちは際限なく
医療を受け、貧乏人は治療を受けられなくなる、ということが起こり得ます。

TPPによって予想されるのは「混合診療」の全面解禁です。
混合診療とは、医療する側が値段をつける「自由診療」と、
診療報酬にもとづく「保険診療」を混ぜた診療のことです。
保険診療の場合は、診療料金や薬の価格は国が定めていますが、
保険外の自由診療の価格については病院や製薬会社が独自に決めること
ができるため、医療機関は保険がきく診療を控えめにし
――場合によってはゼロもあり得るでしょう――
儲かる自由診療にシフトすることはあきらかです。

加えて「条件の良いところ」を求めて医者は都会に集中するでしょう。
山村の医者や、コストに見合わない救急医療や産科、小児科は
閉鎖に追い込まれます。
保険料を納め、病院の建物もあるのに、医者がいない状況は詐欺まがいの話です。
そのように、保険では受けられない診療が拡大していけば、
保険会社のビジネスチャンスは広がるでしょうが、
公的医療保険制度という土台そのものが揺らいでしまいます。

TPPでは、公的医療保険制度自体は議題にしないと米国は言っていますが、
実はこの「あからさまにしない」ところがクセモノなのです。
「TPPの原型」とされる米韓FTA(二国間のTPPとほぼ同意)
を結んだ韓国では急速に医療・医薬品分野の自由化が進められています。
仁川(インチョン)で建設中の米国資本の大病院は、ベッド数六百床、
オール個室、治療費は健康保険で定められた医療費の六〜七倍となっています。
これでは、風邪や高血圧などでは、おいそれと病院にも行けません。

このFTAの条項には、韓国の薬価の決め方に不服がある場合、
米側が見直しを申請できる独立機関の設置が盛り込まれています。
ここから見えてくるのは、「制度は議題にしない、けれど、薬価は」
という米国の交渉の筋書きです。
新薬や機器、医療保険を売る市場の拡大が米国の悲願なのです。

「あからさまにしない」ことで「あからさまになっている」ことを
読み取らなければ、自由診療の拡大、混合診療の解禁は止められません。


■五十年前のチャレンジといま私たちのチャレンジと

一般の方々の間では、日本の医療費は高い、と思われている傾向もありますが、
それは誤解です。
窓口での一時負担金が世界でも例外的に高額なために、そう思われがちですが、
国民医療費という総額で見れば、世界で六十数番目という低医療費なのです。
それで健康長寿を実現しているのです。

「三時間待ち、三分診療」と言われる医療現場に、もし「三十分診療」
を実現しようとしたら、英国が十年以上前に医療崩壊したときのように
「三十時間待ち」になります。
それほど手薄くやっている現在の日本の医療現場に市場原理が導入されれば、
わずかなバランスの傾きだけで医療崩壊が起こってしまいます。
皆保険が崩壊した場合、人々の医療に対するきわめて高い期待度が
維持できなくなることにより、どれほどの不信感と不満感を醸成すること
になるか。
人間の論理とお金の論理はマッチしません。

いま多くの地方が医師不足で悩んでいますが、佐久総合病院には毎年十人
以上の医師が増えています。
この稀有(けう)な病院は、農民の皆さんで構成する「協同組合(農協)」
が経営者です。
つまり、農民の方が自ら出資して病院を建てたのです。
ということは、農民が医師を雇っているわけです。

この二代目院長で、 “農村医学の父”と呼ばれた故・若月俊一
(としかず)先生は、地域の方々とお酒を飲むことから始めて
地域の中に溶け込んでいきました。
当時、若月先生があぜ道で村人の血圧を測ると二〇〇を超えている人が
大勢いました。
しかし、医者に言われたからといって、お嫁さんたちが味噌汁の塩分を
減らそうものなら舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)に怒られます。
そこで若月先生たちは、保健医療の教育活動を寸劇を使って行いました。
保健師さんたちもがんばって正しい知識を広めていってくれました。
体が資本の農民たちは病気になりたくないので、
たとえ病院が多少の赤字であっても、予防医療をやってくれるならと、
みんなからお金を集めてきました。

二〇〇七(平成十九)年のデータでは、長野県は一人当たりの
老人医療費が都道府県別で七十一万五千五百円と最も低くなっています。
 安くするために政策誘導でそうなったわけではありません。
医療が市場化されていないからです。
信州人が、「金持ちより心持ち」だからでもありましょう。
高齢者の就業率が高く、その多くが農業従事者であるため、
結果としては健康長寿に繋がっています。
都会では高齢者である六十五歳も、私たちの村ではまだまだ若者です。

高齢化を医療技術でなんとかできる、という時代はもう終わります。
認知症はもちろん、ほかにも治せない病気がどんどん出てきますから。
医療技術の専門家である医師には、残念ながら、
超高齢社会の実像は見えていません。
地域の高齢化が急速に進む地方では、特殊な高度医療よりも「好きな人
と好きな所で暮らし続けられることを支える医療と仕組み」が大切です。
その点で、私のいる佐久は、おそらく切りぬけられるでしょう。
問題は首都圏です。
にもかかわらず、国民全体の議論が起こってきません。
ここが気になるところです。

人口動態を見れば、現在日本では世界最大規模、世界最高速度で、
高齢化が進行中であることが分かります。
わずか二十年後の二〇三〇年代に高齢者人口は極大になります。
ここをどう乗り越えるのか、日本全体で必死に考えなければなりません。
交通弱者の増加、町づくりの問題、単身生活者の激増、介護人材の不足、
私たちの行く手にはたいへんな問題がたくさん見えています。
しかも、こうした問題には、「こうすれば大丈夫」という答がありません。
なぜなら、人類史上初めてのことに直面しているからです。
その意味でも世界が注目しているのです。

若いときに世界を放浪して気付いたことは、地球上のほとんどの地域は
医者がいないということです。
日本の東北も「3・11」以前からもともと医師の少なかった地域です。
充分な医療を受けるために必要なのは、
私たちが次の三つのことにチャレンジできるかどうかです。
まず、お金をあつめて医療機関をつくる。
次に、今は国民皆保険がありますが、国民皆保険のもとになったのは、
共済保険です。
私たち自身が、共済組合的な活動を始めることができるでしょうか? 

最後に、進歩的、急進的な医者を雇ってこれますか? 
あるいはみなさん自身が医者になりますか?

私は、昭和の初め、あのファシズムの時代に、私たちの先輩がこういう
三つのチャレンジをくぐりぬけてきたことをお話しし、
TPPという得体の知れないものに賛成や反対を決める以前のこととして、
この国の制度資本について一緒に考えて、一緒に胸を張りたいのです。

人間の死亡率は百パーセントです。
病気になったときだけでなく、ほとんどの日本人が遅かれ早かれ
日本の医療機関にかかって亡くなるわけですから、
それを前提とした医療保険について、普段からもっと「自分のこと」
として考えなくてはならないはずです。

世界中の人が憧(あこが)れる皆保険。
日本の私たちが守り育てるべきものは何でしょうか。
国民一人ひとりがTPP問題をきっかけに考え始めることを願っています。



色平哲郎 いろひら・てつろう
JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長。内科医。
1960年神奈川県生まれ。東京大学工学部中退後、世界を放浪。
京都大学医学部卒。JA長野厚生連佐久総合病院に入り、
南相木村診療所長として地域医療に従事、その後現職。
京都大学大学院医学研究科非常勤講師も務めた。
世界こども財団評議員。著書に『大往生の条件』(角川oneテーマ21)、
『命に値段がつく日―所得格差医療』(共著・中公新書ラクレ)など。

======
inserted by FC2 system