=特集=  =貧乏は、どう変化したか=
     暮らしの貧乏 身体の貧乏     中村尚司

貧乏暮しと自殺未遂

森鴎外の『高瀬舟』は、貧乏の悲哀を活写した作品である。
西陣の機屋で働く兄弟が、貧窮の末、病身を傷つけて自殺を図る物語である。
短い文章の中に、貧乏のつらさを凝縮して見事に描いている。
初めて読んだとき、貧乏の辛さに身震いした。

同じ西陣に生まれ育った私も、書ききれないほど貧乏暮らしを体験している。
徐々に戦況が深刻になり、米や肉の配給も途絶えた。
はなかみや浴用石鹸はおろか、便所の落とし紙も洗濯石鹸もなくなった。
しかし、同世代の人が体験しているように、みんなが貧乏であれば、
誰も自分が貧乏だとは思わない。

私にとって辛い貧乏は、敗戦後の体験である。
経済復興や高度成長に向かうとき、失業して病床に臥していた父親に収入がなく、
売り食いの帯や着物も底をついたときの母親の嘆きである。
明日食べるものが買えず、
6人の子供を道連れに自殺を図ろうとしたことも少なくないという。
2歳年上の兄、1歳年上の姉、1歳年下の妹とともに、
私は小学生のころから雑多な仕事をした。

中学校を卒業すると、兄は木綿問屋に住み込み、月給がわずか500円だった。
1ドル360円の時代である。
姉は白生地問屋の小間使い、妹は第二赤十字病院の雑役になったが、
私だけ就職に失敗し、高等学校に進学した。
とはいえ、幼い妹たちの生計も支えなければならず、満足に学校に通っていない。
朝は新聞配達や中央卸売市場の荷降ろし、週末は銀行の床掃除や窓ガラス拭き、
夜は神社の祭日に露天商組合員、
夏と冬の休みは建設現場や染色工場などの重労働など、できることは何でもした。

高等学校では遅刻や欠席が多く、卒業延期になった。
大学時代は、ほとんど通学しなかったが、単位だけは集めた。
昼夜を問わず働き続ける生活が終わったのは、正規雇用に就いてからである。
私は就職して初めて、労働から解放された。
本を読んでいるだけで、給料が貰えた。


身体の貧乏と肩身の狭い人生

他の兄弟姉妹以上に、私が母親を苦しめたのは、病身で生まれてきたからである。
全身に湿疹や瘡蓋があり、幼稚園にも行けなかった。
現代でいえばアトピー性皮膚炎の幼児であった。
そのうえ弱視がひどく、小学校へ行っても黒板の字が判別できなかった。
先天性眼球振盪症と診断され、矯正の方法がないからと、
盲学校に行くようにすすめられた。
しかし盲学校へ通う余裕もなく、肩身の狭い思いで、
猫背の体を教室の片隅に置いていた。
眼球を固定する筋肉が発達し、弱視が眼鏡で矯正できるようになったのは、
中学校を終えてからである。

その頃から、皮膚炎が緩和し、代わりに気管支喘息が始まった。
72歳の今日まで喘息発作とつきあう人生となった。
ベロテックに象徴される気管支拡張剤やアルデシンなどの
副腎皮質ホルモンを手放せない。
副作用が、喉頭癌や骨粗しょう症を引き起こしている。
胃潰瘍にもなった。

68歳で定年退職を迎える頃、さまざまの病症が出た。
まずヘルペスを発症し、激痛に苦しんだ。
知友の麻酔医である三島医師が局所麻酔の神経ブロックをし、痛みを治めてくれた。
しかし、肋間神経痛と骨粗しょう症が深刻で、バイクで起伏のある道を走ると、
胸や腰が痛んだ。
三島さんは、患者離れの良い医師で、
「骨や筋肉を強くしようと思えば、水泳を止めて歩きなさい」という。
それも「歩くより早く、走るより遅く、1日に10キロくらいは続けなさい。
そうすれば、再び三島医院に来なくてもよい」と診断する。
待合室まで響く大声で「お久しぶりですが、中村先生、お元気ですか」と聞く。
「医者にまで先生と呼ばれたくない」と思いながら、私はボソボソと答える。
毎日、10キロ歩くようになってから、
三島医師の「中村先生」という大声を聴かなくても済むようになった。

そのころ、物忘れもひどく、何度も駅や警察の遺失物係のお世話になった。
再発行してもらった運転免許証更新の際、視力の低下を指摘され、
白内障の手術を受けた。
霞んでいた視界が明るくなったものの、片目づつの手術であり、
しばらくは世の中を固めで眺めるようになった。
片目の暮らしは、偏見に満ちているかもしれないが、その分だけ、
新しい世界が開けてきた。


野宿者に学ぶ貧乏暮し

70歳になってから、NPO法人JIPPOを立ち上げた。
その専務理事として、龍谷大学ボランテイア・NPO活動センターと共同で、
30名から40名の野宿者との交流に取り組んでいる。
毎月3日間だけ山科川、東西高瀬川の三河川の堤防を歩き、
橋の下で暮らす人びとの話に耳を傾ける。
訪問の機会に、食料品や入浴券等に加えて、
冬は毛布やカイロ、夏は蚊取線香などを届けている。
夕刻になると少年たちの襲撃を恐れ、ひっそりと暮らす野宿者が多い。
勾配のひどい斜面にたたずんで、定額給付金や生活保護の相談も受ける。
尾張名古屋から中仙道を犬や猫とともに歩いてきた女性野宿者と出会うと、
『野ざらし紀行』の再版かと思う。

芋洗ふ女 西行ならば 歌よまむ  芭蕉


酒を飲んで羽目を外す野宿者には、種田山頭火の面影がある。
アルミ缶集めのホームレス暮らしに学び始めて、
私も病院に行くことがなくなった。
空き缶集めを禁止する京都市の条例が制定されたこの10月に、
空腹のため食料品を盗み、京都拘置所に収監されるケースも出た。
仕事がなくなり、2回も自傷・自死を図った人もいる。
かつての母親の労苦を偲びながら、早く所得を得られる仕事に就き、
現代社会の主人公として活躍してもらいたいと思う。

おもひでがそれからそれへと酒のこぼれて  山頭火

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