67 「医(いや)す者として」…大震災翌年の年初に
     日経メディカル 2012年1月4日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/201201/523044.html


自分が所属する組織を客観的に眺めることは、簡単ではなさそうだ。
「情」や「打算」も絡み、冷静に見るのはなかなか難しい。
病院史や沿革を読み直すのも一つだが、
編集者の意図によって見えない部分もあろう。
その点、日々の活動を撮ったドキュメンタリー映像は、
全体を貫くコンセプトはあるにせよ、素材の直接性が理解をサポートしてくれる。

東京・東中野の映画館「ポレポレ東中野」で、
「医(いや)す者として―映像と証言で綴る農村医療の戦後史―」を観た
(終了日未定)。
http://iyasu-mono.com/

佐久病院には映画部があり、1950年代から30数年にわたって、
出張診療・手術・患者会・啓蒙演劇など、さまざまな取り組みを
16ミリフィルムで記録してきた。2008年からそれらをデジタル化する
プロジェクトが始まり、「農村医療」の歴史を、デジタル化した映像を通じて
振り返ってみたいという考えから、この作品が生まれた。
「農民とともに」を掲げ、佐久総合病院を発展させた故・若月俊一名誉総長
(1910〜2006)の「歩み」をふり返り、感慨深かった。

太平洋戦争の終盤に、青年医師・若月が信州臼田町にある
19床の佐久病院に外科医として赴任する。
周囲の農山村へ「出張診療」を行い、「全村健康管理(健康診断を軸とした
健康予防活動)」を、全国、いや世界に先駈けて取り組んだ。
モノクロの古いフィルムの間に挿入された村人たちへのインタビューが秀逸だ。

ある男性は、「(昔は)どこそこの家が医者をあげた、と聞いたら、
ヘっ、そろそろ危ねぇ。葬式だ、と言い合ったもんだ」と語る。
貧しい村では、健康保険もなく、家族が病気になっても医者にかかれなかった。
いよいよ具合が悪くなって「死亡診断書」を書いてもらうために医者を呼ぶ。
往診を頼むことは、散財を意味し、「医者をあげる」と言ったのである。

白衣を見たら葬式が近い。笑うに笑えない状況下で、
若月ドクターたちは医療と農村保健に取り組んだ。
佐久病院名物の文化活動「演劇」「病院まつり」など、
娯楽とともに保健衛生の啓蒙活動を展開する。
昭和の高度経済成長以降に農村の過疎・高齢化の波をいち早く捉え、
医療と社会福祉の一体化に挑んだ。
若月院長は、「住民のニーズに応えるために、医師は二足のわらじ
(高度専門医療と地域密着型の医療)をはけ」と
口が酸っぱくなるほど繰り返した。

研修医だったころ、若月院長に、宴会の席でかけられた言葉がよみがえる。


「君ねぇ、正論で八割取ろうとしてもダメだ。
正論を言えば八割取れると考えているようだが、そうじゃないんだ。
酒を飲みながら、腹を割って話す。
だまし、だまされるなかで相手も五割、こっちも五割、と見せながら、
五割五分取る、それが、賢明なやり方なんだ。
そうでなきゃ、相手の顔をつぶしてしまうんだ」

「佐久病院はサケ病院、まず、サケを飲め」

今、佐久病院は「二足のわらじ」をあえて、空間的に切り離す大手術の最中だ。
専門医療部門を、佐久平に建設中の「佐久総合病院佐久医療センター」に移し、
地域密着型の医療は、従来通り臼田の「佐久総合病院本院」を拠点に展開する。
たとえ空間的に別れても、二足のわらじの精神は受け継いでいきたい。

人はかたちを欲しがるが、かたちを求めても虚しいだけである。
もしも、この“大手術”が全国から期待をこめて注視されているのだとするなら、
両病院に分かれるスタッフ同士が互いに敬意を保てるかどうかが勝負どころとなろう。

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