闘う市長が走る復興への長距離走  桜井勝延・福島県南相馬市長
         2011年8月8日 AERA「現代の肖像」

ひとつの自治体に警戒区域、計画的避難区域、緊急時避難準備区域を抱える南相馬市。
本来両輪のはずの市民の「安全」と「生活」は、
原発事故を境に決定的に分断されてしまった。
一丸となり「復興」へと向かう道はどこにあるのか。
難しい行政の舵取りが続く。

文=山岡淳一郎 写真=鬼海弘雄


白い裸馬(はだかうま)が、深い木立の間から姿を現した。

真夏の陽を浴びて銀色のたてがみが輝く。

7月25日、福島県南相馬市の多珂神社、数人の男が神に捧げる馬を引いてきた。
陣羽織姿の桜井勝延(さくらいかつのぶ)(55)は、鞭を手にじっと見つめている。
例年なら十数頭の裸馬が相馬小高神社の竹矢来に追い込まれる場面だが、
そこは福島第一原発の20キロ圏内。
立ち入り禁止だ。
千年以上続く「相馬野馬追(のまおい)」は場所を変え、千葉、群馬、秋田
などの避難所から「侍」が馳せ参じて継承された。
平将門ゆかりの神事は、相馬人の誇りの結晶体である。

津波に命を奪われた騎馬隊長の遺影に向かって、ほら貝が一斉に吹かれた。
殷々(いんいん)と臓腑に響く音だった。
「鎮魂」の儀式を終え、桜井は言う。

「ひと区切り、ホッとしました。復興へ走れるな」

震災と原発事故で、すべてが変わった。
桜井は一地方自治体の首長から歴史を生きる存在となった。
メディアに注目される一方で、日々の決断が重い事実として受けとめられ、
鋭い指弾も受ける。

「国に早く規制を解かせて、暮らしを元に戻せ」
という声もあれば、「30キロ圏内も危険だ。
子どもを避難させろ」と叫ぶ市民もいる。

放射能か、生活か、、、。

背反する価値観の谷間に絶対的な正しさはない。
安全の基準が曖昧で安心できず、視点によって正論は揺れる。
いま、何を基準に市長として判断を下しているのか、と訊ねてみた。

「現実を直視して、人間として、ふつうに、あたりまえに、ということです。
サイレントマジョリティーを支えるのが行政の仕事だと思う。
法的根拠には従うし、専門家の知見も参考にします。
でも現場感覚が重要です。
机上論では通用しない」



・「兵糧攻めにあっている」テレビで菅政権を批判

震災後、南相馬市と桜井の運命は変転し続けている。
3月16日、NHKの早朝番組に電話出演した桜井の第一声は、ショッキングだった。

「南相馬は兵糧攻めにあっています。
ガソリンも、食べ物も、医薬品も、援助物資も入ってきません。
陸の孤島になりました。
全国の皆さんのご支援をいただきたい」。
桜井は語気厳しく、菅政権の対応のまずさを指摘した。
いまだかつて、被災地の首長で、ここまで中央政府を批判した者はいない。
それほど南相馬と桜井は追い込まれていた。

11日の大津波で、南相馬市域の1割が壊滅的被害を受け、
約600人が命を落とした。
桜井の自宅も津波にやられた。
両親は辛うじて助かり、いまも避難所暮らしを続けている。
行方不明者の捜索に動き出した12日、福島第一原発1号機で水素爆発が起きた。
県や国から連絡はなく、報道で事故を知る。
政府から原発20キロ圏の避難指示も文書で受けてはいない。
数日後HPで知った。
南相馬市では「小高区」全域と「原町区」の一部、1万4千人が対象だ。
クルマの群れが外へ出た。

余震が続く14日昼前、市庁舎の屋上で津波を監視していた警察隊が
「ドーン!」という音とともに南の空に雲が湧き上がるのを見た。
2階では桜井以下、職員が災害対策本部会議を開いていた。
駆け下りてきた警察隊員は興奮して告げた。

「キノコ雲が上がっています」。
会議室は、一瞬、水を打ったように静まり返った。
3号機の爆発だ。

その夜、災害支援の自衛隊は「100キロ圏まで避難します」と言って、
市役所から去った。
真夜中に「市長! 住民を避難させなくちゃダメだ。
大被害が出るぞ」と一般市民が怒鳴りこんできた。
堤を切って激流が溢れるように市民は逃げた。

翌15日、政府は20ー30キロ圏に「屋内退避(のちに自主避難)」を指示。
市役所や学校、病院が集まる原町区は、ここに入った。
桜井は、バスを集めて住民を送り出した。
市内の人口は約7万人から1万人台へと減っていく。
放射能を恐れ、メディアが去り、流通も途絶する。
ゴミ置き場にカラスがヒッチコックの映画「鳥」のように群れ、
大型犬がうろつく。
街はゴーストタウンと化した。

のちに自民党の森まさこ参議院議員は、参議院法務委員会で南相馬警察署
の死体監察医からの情報として「10人以上の餓死者が出ている」
と政府の認識を質した(5月26日)。
小宮山洋子・厚生労働副大臣は、事実は把握していない、としながらも、
「自宅に留まったところに救援物資が届かなかった」のではないか、と述べている。
現代ニッポンで餓死者とは、、、。
桜井が「兵糧攻めにあっている」と訴えたころは、かくも凄惨な状態だった。
テレビ出演の10分後、新潟県の泉田裕彦知事から電話が入る。

「新潟も中越地震で被災したから、よくわかる。
南相馬の被災者をいくらでも受け入れる。
どんどん送ってもらっていい」と泉田は言った。
地獄に仏だった。
桜井は頻繁にメディアに出て語った。
新潟、群馬、茨城へと避難民はバスを連ねた。

3月末、一転して、自主避難した人たちが続々と帰ってくる。
逃げた先の福島市や郡山市のほうが原町区より放射線量は高かった。
避難の意味がない。
帰郷は生活のためだった。
東電や国の補償はあてにできず、働かなくては生きられない。
Uターンの流れが生じた。
内閣の枝野幸男官房長官は、なおも「自主避難」と呼びかけていた。
桜井は、官房長官に電話で語りかけた。

「枝野さん、現場感覚がなかったら、総スカン食らうよ。
市民は自主避難をして、ひと段落したんだ。
そこから生きるために戻ってる。
ここでまた避難だなんて何を言ってるんだ」。
雄弁な枝野が「申し訳ない」と黙った。
返す言葉がない。
しかしながら、桜井が独断で規制解除できるはずもない。
苦渋の時が刻まれる。
人の流れは加速し、事業の再開を求めて商工業者が押しかけてきた。

「このままでは会社が潰れる。
社員が路頭に迷う。
営業を認めてくれ!!」。
市長は悩んだ。
下した決断は、「黙認」であった。

その後、政府は20ー30キロ圏の大半を「緊急時避難準備区域」と定め、
屋内退避を解く。
事業活動が正式に認められた一方で、学校の授業や入院患者の受け入れは禁じられた。
市内の人口は3万7千人に回復したものの、
全国700ヵ所以上の自治体に3万数千の避難民が散らばった。



・「賢治」に憧れ農業に情熱  突如襲った「産廃建設」

福島県のある自治体の首長は「市がバスを手配して、
住民を遠方に避難させる必要があったのか。
疑問だね。
散り散りの市民に、行政サービスは困難。
行政の仕事は、究極的には住民基本台帳の突合」と言う。
確かに自治体にとって人口は力の証しだ。
市民を統制的に管理したくなるだろう。
しかし、原発の爆発音を聞いた市民を「逃げるな」と止めたら、
暴動が起きたかもしれない。
いずれにしても原発事故で生活は壊されたのだ。
被災地の憤りは、復旧の遅れと規制による住民意識の分断で、
内にこもって乱反射を始めている。

「修羅場を知らない人は何とでも言える。
誰に怒りをぶつけるべきか、冷静になりたい。
後ろ向きの議論より仕事ですよ」と、桜井は眉間のシワをちょっと緩めた。
笑うと人懐っこさが漂う。

桜井は1956年、原町市(現・南相馬市原町区江井)
の稲作と畜産を営む専業農家に生まれた。
4人きょうだいの長男で、弟と姉妹がいる。
子どものころ、夏がくると毎日浜に出て泳いだり、貝をとったりした。
津波が襲いかかった浜辺には、いまも愛着がしみついている。

中学時代は駅伝選手で鳴らした。
震災の日の朝も、8キロ走ってから登庁している。
フルマラソンで2時間48分の記録を持つ。
県立原町高校から「宮澤賢治」に憧れて岩手大学農学部農学科に進み、作物学を専攻。
農学科33人の同期生で、「百姓の現場」に戻ったのは桜井ともう一人だけだった。

「県の研究所や農林水産省の役人、教員志望が多かった。
宮澤賢治を目ざして岩大で学んだのに、なんで税金もらって、先生ぶるのか。
農業は現場から変えなければ意味がない」

稲作と酪農に没頭した。
文献で新しい飼料の配合や、肥料を使わない稲作を研究しては、仲間に説いて回った。
米を産直で関西に送る活動も立ち上げる。
補助金と謝金漬けの農業を、自立させたかった。
雨にも負けず、風にも負けず、寒さの夏はオロオロ歩く。
心に、いつも賢治がいた。

そんな農民生活が、ある日、地元のため池の周りの木々が切り倒されている
のを見て、激変する。
池と里山が織りなす風景は、大甕(おおみか)地域の象徴だ。
そこを造成して産業廃棄物処分場を建設するという。
多くの住民は、寝耳に水だった。
首都圏から持ち込まれる産廃の処分で環境が壊されたら農業は滅びる。
有志と「産廃から命と環境を守る市民の会」をつくり、反対運動に立ち上がった。

事業者の「原町共栄クリーン」は、面妖な会社だった。
ふたりの設立者が互いに保有する株券が「偽造」だとして提訴した。
暴力団の関与が取り沙汰されるなか、仲介役の現職警官が収賄罪で逮捕される。
処分場の工事を実際に請け負ったのは、スーバーゼネコンの鹿島建設だった。



・批判していた市のトップに  大改革する矢先に震災

産廃処分場の誘致は、原発のそれと似ている。
覆面会社が、地元の有力者に接触し、政治家を介して行政を抱き込み、
深く、静かに進行する。
市民の会は、建設予定地の一部を買い取り、工事阻止に出た。
2001年、工事差し止めの仮処分を地裁いわき支部に申請。
同支部は仮処分を決定したが、03年に仙台高裁が取り消す。
事業者は、桜井たちを相手に損害賠償訴訟を起こした。
その局面で、桜井は無所属で市議選に立った。

大切な乳牛20頭を譲られた杉和昌は、農民から議員への桜井の転機を知っている。

「リーダーだったから、時機が来たな、と。
嫌がらせも酷かったけど、腹くくって姿勢に出る、
中途半端はできないって言うからね、全頭引き受けた。
BSEが出たころで、リスクもあったけど、桜井さんの牛は搾乳が安定していた。
研究してたからねぇ。
一頭、10万円くらいで譲ってもらったかな。
せめてもの政治資金にしてほしかった」

当選した桜井は、市に情報公開を迫った。
市は産廃処分を規制する法律が施行される直前、事業者にお墨付きを与えていた。
それを受けて福島県が建設許可を下した。
いわゆる駆け込み申請だ。

桜井は、当時の市長を筆頭に執行部を追及した。
裁判では、敗訴が続く。
09年、議員報酬が全額、差し押さえられた。
前市長はそれを認めた。
桜井は、ひるまず、市長選への立候補を表明する。

小高、原町、鹿島の3市町を統合した南相馬市には、合併の不満が渦巻いていた。
市民本位の政治を掲げて闘う。
選挙戦は熾烈だった。
得票数1万9741対1万9044、桜井が現職を破った。

さんざん批判してきた執行部のトップの座に就いた。
職員の無言の抵抗を受ける。
桜井は自らの市長給与を半分に削る。
差し押さえ額は給与の4分の1、約10万円に減った。
ガラス張りの市長室を庁舎1階に設け、人の出入りを公開する。
地元経済界との「夜の談合」は一切なし。
市民との車座集会は1年間に50回以上を数えた。

市会議員の小川尚一は「桜井市長は人事を含めて大改革を行うつもりだったようです。
その矢先に震災と原発事故。
行きがかりを捨て、職員も被災しながら、必死に対応しました」と述べる。

5月下旬、茨城県取手市で、桜井は、
避難中の南相馬市民から突き上げを食らっていた。

「小中学生は、ホームシックで原町に帰りたいと泣きます。
友だちからも帰っておいで、とメールがくる。
でも本当に30キロ圏内は安全ですか。
いつまで県外の鹿島区の学校で授業は続くのですか。
来年の高校入試は、どうなりますか。
情報がまったく入らない。
市は責任を果たしてください」

桜井は、穏やかな口調で応える。

「原町も鹿島も、放射線量は0・4ー0・5
(マイクロシーベルト/時)でほぼ変わりません。
しかし原町の方が原発に近いという理由で、国に授業を認めてもらえません。
毎朝20台のバスで生徒たちを送迎し、鹿島区の四つの小中学校で授業をしています。
2学期前には仮設教室を建て、環境を改善します。
高校入試については福島県教育委員会に方針を示すよう強く要請しています」

鹿島区の世帯への義援金についても桜井は説明をした。
国と県は、集まった義援金を30キロ圏内の世帯にのみ、
一律40万円支給すると決めた。
これで市民の対立感情に火がついた。
鹿島区も震災直後、陸の孤島となった。
不自由な30キロ圏内を支えるのは自分たちだ、という自負もある。
桜井は「心をひとつに」と呼びかけ、
市税8億4千万円を投じて鹿島区にも同額の義援金を配った。

「鹿島の方々には、これが最後と申し上げました。
今後、義援金は、深い痛手を負った方々を優先します。
避難中の皆さん、生活上の領収書は全部取っておいてください。
東電に補償させます。
裁判の経験から証拠は揃えておいたほうがいいと思います」

7月上旬、私は鹿島小学校の体育館を間借りする原町一中を訪ねた。
フロアをボードで仕切り、1年生が理科を学ぶ横で2年生が社会の授業を受けている。
教師や生徒の声は、筒抜けだ。
集中を保つのは容易ではない。
高篠忍校長が語る。

「ヒアリングのテストは全学年一斉に行うなど音対策はしています。
でも、難しい。
部活動も思う存分やらせたい。
県教委には、受験生が遠くにいても南相馬市内の希望高校を受験できるよう
弾力的運用を、と申し上げた。
次の世代は、この子たちが担います。
早く、通常に復してほしい」

南相馬の復興は、ひとえに外へでた市民の「帰還」にかかっている。
ざっと見積もって、1万人前後は、20ー30キロ圏に家があり、
その気になれば帰れるが、放射能の危険を感じて外にいるとみられる。
誤解を恐れずに言えば、心因性避難民だ。
避難先の自治体では「厚遇」と「雇用」を示し、
避難民に「定住」をもちかけるところもある。

過疎化が進む地方自治体にとって人口増は悲願なのだ。
自治体間でシビアな生き残り競争が展開されるなか、
心の壁をどう乗り越えるのか、、、。



・市民の「帰還」は成るか  大除染作戦が始まる

7月27日、桜井は警戒区域と計画的避難区域を除く市内全域を
8ー9月に除染する計画案を臨時議会にかけ、可決された。
費用は40億円。
市内の全建設業者を束ねる「復興事業組合」を受け皿に、
市民とボランティアで具体的に施設を絞り、高圧洗浄などで汚染を取り除く。
除染が安心への第一歩。
産廃業者と闘ってきた彼らしい方法だ。
ちなみに大甕産廃処分場は、20キロ圏内に組み込まれ、
建設計画がストップしている。

「東京のゼネコンを入れたのでは、誰のための復興かわからない。
地元でやりますよ。
環境省は8千ベクレルまでなら廃棄物の埋め立てを認めている。
津波で防波堤が破壊され、台風や大波で潮位が高まるたびに沿岸部は浸水してる。
ここがインフラ復旧の要衝です。
防波堤を築き、その内側に基準値以下の廃棄物を埋める。
がれきとはいえ、もとは命の塊だ。
その上に木を植えて、防潮林にする案を練っています。
復興は、100年先、200年先を見すえて慌てずにやっていきたい」

桜井は震災後、50日連続して市庁舎に泊まった。
現在は知人宅に身を寄せる。
登庁前の早朝ランニングを再開した。
短パンにTシャツで、がれきのなかを海へと走る。
犠牲者の声なき声に耳を澄ませながら、、、。
海は、悠然と構えている。

取材を終え、私は福島市への高速バスに乗った。
野馬追明けの夕立が、南相馬の大地を激しく叩く。
亡き人の無念の雨か、すべてを洗い流そうとする神の慈雨か。
もうすぐ大除染作戦が始まる。
(文中敬称略)






写真キャプション

「放射能汚染を取り除き、もう一度、美しい自然環境を再生する!
その最前線基地に南相馬はふさわしい」と語る


「自分の強みは無になれること。
物欲、金銭欲はない。
ただ心の豊かさへの渇望は強い」と言う


支援者は数多いけれど、被災地の首長には
「長距離ランナーの孤独」がつきまとう



さくらい・かつのぶ

1956年、原町市江井(現・南相馬市原町区江井)に生まれる。
実家は二町歩(約2万平米)の稲作と畜産を営んでいた。
幼いころから農作業を手伝う。
中学時代は駅伝選手。
74年、福島県立原町高校を卒業し、宮澤賢治に憧れて、岩手大学農学部に進学。
農学科で作物学を専攻して、大豆の遺伝子研究や稲の品種改良などを学ぶ。
78年、岩手大学を卒業し、本格的に農業の現場に入る。
稲作と酪農を中心に精力的に活動する。
乳牛の個体改良や、飼料の研究を積み重ね、若い世代間での普及を図る。
90年、腰痛がひどくなり、
もう一度、身体を鍛え直そうとオリエンテーリングを始める。
2000年、江戸時代につくられた大甕地区のため池周辺の樹木が伐採される。
産業廃棄物処分場の建設が始まったと知り、反対運動に立ち上がる。
01年、産廃処分場の工事差し止め訴訟を地裁いわき支部に起こす。
併せて工事差し止めの仮処分を同支部に申請し、認められる。
02年、市会議員補欠選挙に立つも、落選。
03年、市会議員選挙に立候補し、当選。
仙台高裁は、工事差し止め仮処分決定を取り消す。
その後、産廃事業者から損害賠償請求の訴えを起こされる。
09年、損害賠償裁判で敗れ、議員報酬の全額差し押さえられる。
10年、南相馬市長選挙に立候補し、当選。
住民主体の政治への変革を図る。
11年、東日本大震災発生。
福島第一原発の原子炉建屋が相次いで爆発。
南相馬市は、原発から半径20キロ、30キロで市域が分断される。
物流が断絶し、メディアで窮状を訴える。
タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる。



山岡淳一郎

ノンフィクション作家。
著書に『田中角栄 封じられた資源戦略』(草思社)、
『狙われるマンション』(朝日新聞出版)、
『国民皆保険が危ない』(平凡社新書・近刊予定)など。

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