迷った青春 たどり着いた信州

ほほえみ便 2011年6月16日 読売新聞長野県版
村の健康守って15年 佐久総合病院 色平哲郎医師 (51)
住民の心に寄り添う


佐久市の県厚生連佐久総合病院地域ケア科医長、
色平(いろひら)哲郎さん(51)が3月、
住民の健康維持や地域社会の福祉に貢献した指導者に贈られる
「第7回ヘルシー・ソサエティ賞」(日本看護協会など主催)
の医療従事者部門を受賞した。
南相木村など高齢化が進む県内の山村で、
15年前から続けている地道な医療活動が評価された。
県外出身で異色の経歴を持つ医師は、
飾らない人柄で患者と接している。



長野、群馬県境の南相木村。
人口1092人のうち、38・4%が65歳以上(昨年10月現在)
という高齢化が進む村だ。

佐久総合病院から派遣され、1996年から南牧村国保診療所長
を務めた後、98年に南相木村国保直営診療所長となり、
村で唯一の医師として10年間常駐した。
この間、毎年100人以上の医学生や看護学生が
「大学病院にはない医療」を見学に訪れた。

村を離れた今でも同病院から出向き、週1回は診療所で診察し、
合間にはなじみの住民を訪ねる。


「調子どうだい」

色平さんは14日、村内の倉根ちづさん(91)を訪ねた。
10年前に夫を亡くして一人暮らしだ。
勝手知ったる我が家のように、家の中に入り、腰を下ろす。
雑談をしながら、本人の健康状態を確認する。
「調子はどうだい」。
「どうってことはないな」と倉根さん。
帰り際、ちづさんの肩に手を置き、耳元で「また来るよ」と大きな声で言うと、
倉根さんはにっこりと笑って姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

*

横浜市生まれ。
開成高校から現役で東大に入ったが、大学3年の時、
型にはまった生き方や、企業の研究職になることに疑問を感じ、中退した。
キャバレーやパン工場で働いた後、医学に興味を持ち、
「独学では学べない」と、京大医学部に入学した。

医学生となっても迷いがあった。
「白衣を着た瞬間から『先生』と呼ばれることに違和感があった」。
転機は大学2年の時、旅行先のフィリピン・レイテ島で
医学生スマナ・バルアさんと出会ったことだった。
バブさんの愛称で親しまれ、医学生ながら衛生状態の悪い島で、
診察や衛生指導をしていた。
色平さんは「雷で打たれたような衝撃を受けた」と振り返る。
「出来ることは限られているけど、人の役に立てる。
人は支え合って生きている」。
そこに医師の役割を見いだした。

思わずバブさんに聞いた。
「君のように地域に密着した医療を学びたいのだけど、日本にもどこかあるかい」。
バブさんは「佐久病院(現・佐久総合病院)があるじゃないか。
農村医療の中心、聖地だよ」と即答した。
バブさんは来日して佐久総合病院を訪れ、若月俊一院長に会った経験があったという。

*

助言通りに90年、同病院に内科医として勤務を始め、
8年後に南相木村に移り住んだ。

村では医師であると同時に、一人の住民。
草刈りに参加したり、酒を酌み交わしたりして、村の生活になじもうとした。
住民からは山村での暮らしぶりや、戦時中の話、果ては家族のいざこざまで聞いた。
「医療以前にケアするとはどういうことか。
患者に寄り添い、話を聞くという姿勢が大切」と学んだ。
村を離れた今でもその考えは変わらない。

3月2日、東京の帝国ホテルで開かれた「ヘルシー・ソサエティ賞」の受賞スピーチ。
聴衆の前で、いつもの言葉がまた口をついた。
「好きな人と、好きなところで、暮らし続けたい。
その思いを叶えるために医療があるのだと思っています」


「金持ちより心持ち」

色平さんが好んで使う「金持ちより心持ち」という言葉が耳に残った。
14日に倉根さん方を訪れた際、
倉根さんはおにぎりや畑で採れた野菜を勧めてくれた。
初対面にもかかわらず、帰り際には「またいつでも来いよ」と笑顔で見送ってくれた。
住民と自然体で接し、地域医療を守る色平さんの言う「心持ち」に触れた気がした。
(前田啓介)

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