私たちの「宝」を失わないために 内科医 色平哲郎さん

健康保険証を提出すると、かかった医療費の一部負担で治療が受けられる。
50年前、戦後の貧しい時代に導入したこの制度に世界は熱い視線を注ぐ。


みんなで支えあう制度

色平 1月にタイのバンコクで、1000人が集まる世界保健機関
(WHO)の国際会議に出ました。

今回の大震災に関することは言うまでもありませんが、
それ以外にも日本はふたつのことで世界から注目されています。
国民皆保険制度と、日本の人口動態がどうなっていくのかということです。

―国民皆保険制度とは?

色平 すべての国民がなんらかの公的な医療保険制度に加入している
ことを指します。

日本では、会社員は健康保険組合など、公務員は共済組合、
自営業なら国民健康保険というように、
本人または扶養家族として全員がいずれかに加入することになっています。
そしてみんなで保険料を出し合い、病院にかかる際の経済的負担を減らし、
安心して治療が受けられるようにしているのです。
これは世界に誇れる「宝」です。

医療保険にはがん保険や生命保険など、私的なものもあります。
これはいざというときのために自分で備えるもので、
公的医療保険とはまったくの別物。
前提としてこれを理解してください。

―なぜ皆保険制度が世界から注目されているのですか?

色平 今、50ヵ国がこれを導入し、給付をだんだん増やしているところです。
しかし、どの国も悩んでいる。
財源についてではありません。
それよりもむしろ「地方で働き続けたい」という医者や看護師の確保が難しいのです。
保険証があっても、医療従事者がいなければ制度は機能しませんから。

WHOの会議では「ヘルスマンパワーをどうやったら田舎で確保できるか」
というのが大きな議題でした。
だから日本の地方で医療に携わる私が呼ばれたのです。


あなたが当事者

―私たちにとっては当たり前でも、すごいことなのですね。

色平 ただ、50年の歴史がある日本の皆保険制度ですが、
財政赤字や滞納や未納、そして無保険者の問題が出てきています。
そういう内側の問題で崩れかねないのではと、世界は注視している。

また、ほかにも揺さぶりの要因があります。
外国に行って医療サービスを受ける「メディカルツーリズム」の増加や、
日本も参加を検討している環太平洋戦略的経済協定(TPP=原則として
例外を認めない完全な自由貿易を目指した経済の枠組み)などです。

つまり、内側の問題だけでなく、外からの圧力でも崩れかねない。
今、日本の皆保険制度はそのような状態にあるのですが、
ほとんどの人が関心を持っていません。
ところで、人の死亡率は何%か分かりますか。

―えーっと、、、

色平 100%です。
すべての人が必ず死にます。
だから医療保険はみんなが使うのです。
ほとんどの人が、日本の医者にかかって亡くなるわけですから。
となれば、もっと自分ごととして考えないといけないのに、考えていない。
高齢化問題も同じです。

日本は今、世界最大規模、そして最速で高齢化が進んでいます。
高齢者人口は19年後、2030年に最大になる。
ここをどう切り抜けるのか必死に考えなくてはなりません。
前回も触れましたが、介護人材を確保できないと自分たちの老後がないんです。
もちろんあなたの老後もですよ。

そしてこの問題については、「こうすればいい」という答えはない。
人類史上初めてのことに直面しているのですから。

高齢化が進むと「医療でなんとかできる時代」は終わります。
認知症はもちろん、ほかにも治せない病気がどんどん出てくる。
医療や社会福祉、介護の問題について医者に聞きたがる人は多いですが、
ほとんどの医者には、高齢社会の実相すら見えていないのです。


未来への道は

先ほどメディカルツーリズムの話をしましたが、
日本人が外国に治療に行くだけでなく、外国からも患者が来ます。

例えばどこかの国の金持ちが、コンピューター断層撮影(CT)のために日本に来る。
その分待ち時間が増えますから、日本の金持ちは
「あの外国人と同じだけ払うから先に撮ってくれ」と言うでしょう。
そうなったら大変ですよ。
つまり、金持ちが来てもうかる都会の病院ばかりに医者や看護師が集まる。
地方はどうなりますか?

地方の人はTPPにも切実な危機感を持っています。
でも、農業問題だけがクローズアップされがちなせいか、
都市住民はあまり関心がありません。
しかしTPPは都会も含め、すべての国民の暮らしと老後を直撃するものだ
ということを忘れてはなりません。

―反対の立場なのですね?

色平 いいえ、反対ではなく慎重でなければいけないと思っている。
立場としては「留保」です。

まず、大義が分からない。
農業はもちろん、医療や金融サービスの提供体制を損なってまで参加
しなければならない理由が、何ひとつ具体的に説明されていません。

そしてTPPへの参加が、
最終的に国民皆保険の崩壊につながることを危ぶんでいます。
だからTPPの検討にあたっては、国民皆保険を「自由化」にさらさないよう
政府に強く求めます。

何より気になるのは、国民の議論がないことです。
こんな大事な、特に地方の疲弊がさらに加速する可能性のある決断を、
政府は進める方向で考えているのに、国民の関心が薄い。

何か問題に直面すると、日本人は「誰かが決めてくれる」
「どこかに答えが用意されている」と考えがちです。
でも、そんなものどこにもありません。
ひとりひとりが自分ごととして考え、行動する。
未来はそこにしかひらけないと私は思っています。


(取材を終えて)
インタビュー中、色平さんはマハトマ・ガンジーの次の言葉を引用した。
"You must be the change you want to see in the world"
(あなた自身が、この世で見たいと思う変化とならなければならない)。
私は口先だけでなく、自ら動いてきただろうか。
実践する人の言葉は、ずしりと重く心に響いた。

(いろひら・てつろう)
1960年神奈川県生まれ。
佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長。
京都大学医学部卒業後、長野県の佐久総合病院などを経て
同県南牧村野辺山へき地診療所長、南相木村診療所長を歴任。
2008年より現職。
著書に『大往生の条件』、『命に値段がつく日 所得格差医療』(共著)など。
本人のお勧めは『ヘルプマン!』(くさか里樹)、
『医療のこと、もっと知ってほしい』(山岡淳一郎)。

http://irohira.web.fc2.com/


この人に、このテーマ(下)「生活と自治」2011年6月号掲載
聞き手・本紙・小林知津子、撮影・尾崎三朗

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