「今こそ、若月イズムを掘り下げるべきとき。」

ドクターの肖像 伊澤敏 JA長野厚生連佐久総合病院院長
(ドクターズマガジン 2011年4・5月合併号)


・機能分化は時代の要請 異なる領域をカバーする医師をつなぐのが使命

JA長野厚生連佐久総合病院(以下、佐久病院)。
同院は農村に自ら分け入って医療活動を展開し、
予防医療の先駆者として知られる若月俊一氏によってつくられた。
若月氏に関しては本誌の読者であれば、ほとんど知らない方は
いないはずなので割愛させていただく。
若月氏の思想を脈々を受け継ぎ、若月イズムとも言える
患者の視点に立った医療を提供する同院を支えているのが伊澤敏氏。
昨年、院長に就任したばかりだ。

「冷や汗もので日々を送っています(笑)。
正直申し上げて先輩たちの積み重ねてきた業績があまりに大きく、
広すぎて、底も深く、残された遺産を引き継ぐだけで精一杯
というのが本音でしょうか。
しかし当院はターニングポイントにあり、
そんな覚悟のない姿勢でいられないのは十分に自覚しています」

10年近く前から、佐久病院は病院再構築問題で揺れている。
急性期、慢性期にかかわらず受け入れてきた同院だが、
医療の著しい高度化や狭隘な敷地の問題などから、
分割移転を図らざるをえないと病院が判断、佐久病院の急性期部門を
移転させるため佐久市中込原の工業団地用地を買い取った。

けれど分割移転は、そう簡単には進まなかった。
まず、市が土地の使用用途の変更を認めず、
建築計画が暗礁に乗り上げたのである。
使われていない工業用地を買って病院を建てるのに、
なぜ市が反対したのか不思議だが、市の姿勢は変わらなかった。
加えて大きかったのが病院のある現在地の住民の中にも
反対する住民がいたこと。
病院が分割されれば、急性期で入院した後、慢性期になっても
同じ病院で入院や通院ができていたのが無理になるのが主な理由。
職員からも、佐久病院の理念に反するのではないかと異論が出た。

「分割移転に不安を持つのは、当たり前だと思います。
実際に走り出してみなければわからないこともありますし、
何しろ病院始まって以来の大事業なのですから。

しかし、地域の中にあってのプライマリ・ヘルス・ケアと高度専門医療
とをひとりの医師が担うのは、困難な時代になったのは否定できない事実。
若月先生の時代には、先生の比類のないスケールもあって可能だったけれど、
同じやり方をこれから先も行える時代ではなくなった。
機能分化は時代の要請と言えるでしょう。

分院と位置づけられる新病院で高度医療にたずさわる医師たちには、
地域の要請に応えて専門医療に突っ走ってもらい、
本院に残る医師たちには、これまでの佐久病院の若月イズムを継承する医療、
幅広い医療を提供していってほしい。
そして、異なる領域をカバーする医師たちには互いに相手への敬意
を持ってもらわねばなりません。
互いに連携しながら患者さんのためになる医療ができるよう
両者をつなぐのが、これからの私の役割です」


・若月イズムの捉え直しをしながら次代に伝えていく

紆余曲折を経て、最近ようやく分割移転の目途がたち始め、
病院の揺れも少しずつ収まってきたと聞く。
それにしても、本院では変わらない医療がなされているとはいえ、
職員が感じているように若月イズムが薄れていくのではないかとの懸念は、
なかなかぬぐい切れないだろう。

「若月イズムは、薄れたりはしません。
今までは継承に注力していましたが、深く掘り下げていかなければならない
時期にきたのだと感じています。
変えるのではなく、もっと深く理解するのです。

言葉で表現するのはなかなか難しいのですが、人間に対する非常に透徹した
理解が、若月先生にはありました。
とうてい先生と同じ深さ、同じ高さで、私たちに人間の理解ができるとは思いません。
けれど、なんとか手分けをしてでも、若月先生がめざされたものを再度理解する
努力をし、さらに深く掘り下げ、捉え直しをしながら、
次代に伝えていく作業が必要です。

若月先生の巨大な哲学は、時代が変わっても決して古くなる思想ではないんですね。
むしろ、こういう時代になった今、しっかりと見直し、捉え直しをするべき。
少なくとも私は、それが今、佐久病院の院長に課せられたミッションであると
思っています」

佐久病院は分割移転しても、大切に受け継がれてきた医療への姿勢は変わらない。
それどころか、伊澤氏の話を聞き、進化するのではないかとさえ感じられた。


・虫を研究するより人間を勉強したほうが面白そうだと医学部へ

長野県の出身だったから若月氏を知っていて、医師をめざし、
佐久病院に就職したわけではない。
いわゆる「昆虫オタク」だった伊澤氏は、松本中学時代に、
本人曰く伝統ある「博物会」と称する昆虫愛好家が集まったクラブに入り、
将来は昆虫学で食べていこうと夢見ていた。
その一歩を踏み出すため、進学先に東京教育大学農学部を選ぶ。

「田舎者で何も知らなかったのです。
学者の世界は、『ファーブル昆虫記』で読むような純粋な世界だと
思っていたのですが、実際は少し違っていました。
派閥があったり、奇人がいたり(笑)。
そんなときに、若月先生がお書きになった『村で病気とたたかう』
を読みまして。
虫を研究するより人間を勉強したほうが面白そうだと、
医学部への進路変更を考えるようになりました」

若月氏との縁を結んだのは、当時つき合っていた今の奥様。
同じ農学部で奥様は農村地帯に住んでいる人たちの健康問題を調べるために
フィールドワークをしていたという。
そんな彼女が読んでいたのが『村で病気とたたかう』。
好きな女性の愛読書を何気なく手にとって読むうちに、
伊澤氏はすっかり若月氏のファンになってしまう。

「直接、若月先生のお顔を拝見したのは、全国医学生ゼミナールを
信州大学が主催したとき。
記念講演で若月先生が話をすると聞いて勇んで参加しました。
具体的な話の内容については忘れてしまいましたが参加した医学生に
しっかり届き、心を捉える話をされる方だとの印象は残っています」

後に若月氏の本をまとめて読むうち、医師の道を歩もうとの決意は醸成され、
東京教育大学を卒業したあと、新聞配達や家庭教師などをしながら
お金を貯めつつ受験勉強に励み、岐阜大学医学部に再入学を果たした。


・憧れの人のイメージが崩れる一方で、ますます興味が湧いてきた

若月氏について、もっと知りたい。
伊澤氏は、夏休みの夏季実習を佐久病院で行う。
「近くで若月先生の話を聞けば、もう少し若月先生を理解できる
んじゃないかと佐久にきたのですが、まったくわからなくなりました。
先生は、ろくな話をしない(笑)。

同時期に実習を受けにきていた中に、かわいい女性の学生さんがいました。
若月先生の講義ではもっぱら質問がその女性に集中する。
しかも、『彼氏はいますか?』など医学と関係ない質問を投げかけるわけです。
なんて失礼なおじいさんだろう――私が自分の中で勝手につくっていた
若月先生のイメージはすっかり崩れました。
ただ、崩れるのと同時に、ある意味ではますます興味が湧いてきたのも確かです」

岐阜大学卒業後、もちろん伊澤氏は佐久病院に研修医として就職した。
若月氏に対するイメージに変化はあったのだろうか。

「げっそりする話ばかり聞かされつづけました。
たとえば病院の幹部会議では、『収入が上がっていない。
何かつけ落としがあるんじゃないか』、
『医事課の職員は仕事をしっかりやっているのか』。
経営に関するつまらない話ばかりでした」

若月氏に抱いたイメージと現実の若月氏の間に生まれた対極的な違い。
溝が埋められなければ、伊澤氏は佐久病院を去っていたかもしれないが、
もちろん、そうはならなかった。
イメージどおり、いや、それを超えた若月氏の姿を見る機会に
早晩、恵まれたのだ。


・どういう話をしたら聴衆の琴線に触れるかが感覚的にわかる人

「研修が終了し、病院から修行目的で大分県下郷診療所への赴任を
命じられました。
若月先生は農民のヒーローでしたから、私が佐久病院から来たと
知ると地域の人たちから若月先生を呼んで講演会をしてほしいとの
要望が寄せられ、なんとか先生に都合をうけていただき、
大分県にお呼びして話をしてもらいました。
そして、驚いた。

なんの変哲もない話。
たとえば、塩分をとりすぎると高血圧になりやすい、
胃潰瘍はどこにできやすいか、あるいは病気の予防活動がいかに大事か
など健康に関するありきたりの話だったのですが、私は感動し、
次に若月先生はどんなことを言うのかと、思わず身を乗り出して聴き入っていた。

けれど、それは私だけでなく、会場の小学校の体育館に集まった土地の
おじいちゃんやおばあちゃん、300名ぐらいの全員が身を乗り出し話を聴いている。
若月先生は、聴衆の気持ちをぐっと引きつけて離さないんです」

珍しくもない話に何百人が惹きつけられる。
おそらく若月氏は、あちこちで講演をして話術も巧みなのだと予想されるが、
聴衆の心をわしづかみにするのは容易でない。
必ず別の理由もあるはずだ。

「地域の人たちの暮らしや心持ちをよくわかっている。
深くわかっているから、どういう話をしたら聴衆の琴線に触れるかが
感覚的にわかるのでしょう。
だから人の気持ちを捉え、動かす話ができる。
脱帽でした。

すると病院内での話は、いったいなんだったんだろうと思いましたが、
先生はリアリストでもありましたから、意図的につまらない話
をしていたのかもしれません」


・人はかたちをほしがるが かたちを求めても虚しいだけである

伊澤氏の転機には本がまつわる。
医師をめざしたのは若月氏の著書がきっかけだったが、
専門を精神科に決めた理由も、まったく偶然に読んだアウシュビッツに
関する『夜と霧』との出会いであった。

「本屋に行って、ちょっと変わったタイトルの本があるなとパラパラ
見ていたら、すさまじい写真が巻末についていました。
アウシュビッツについて、もちろん知ってはいましたが、
写真を見て凄惨さに絶句しました」

著者は、ユダヤ人の精神科医のヴィクトール・エミール・フランクル。

「彼の奥さんは別の収容所に送られ、命を落とされました。
ただ、別々の場所に遠く離れて収容されながらも、フランクルは心の中で
奥さんとずっと対話をし、対話が彼を支えます。

また、精神科医の職業的な興味もフランクルの支えとなっている。
限界状況にありながら、同じ環境にある人間観察を行った記録には息を呑みました。
人間のもっとも劣悪な部分から、もっとも崇高な部分まで全部が
描写されている『夜と霧』を読破したときには、
専門は精神科しかないと決めていました」

精神科と言っても領域はさまざま。
「先生の取り組んでいらっしゃる領域は?」。
しばしの沈黙の後、いかにも伊澤氏らしい、佐久病院の院長らしい答えが返ってきた。

「私は精神科医を標榜していますが、実際には、佐久病院の医師のひとり。
特別、専門はありません。
そんなことを言っていると時代から取り残されるのでしょうが、望むところです。

皆さん、かたちをほしがる。
でも、私はかたちを求めることから距離をとりたいと思っています。
若月先生も、そういうものをひどく嫌いました。
権威や権威主義に通じるからです。

若いころには意識しませんでしたが、このごろ、特に院長になってからは、
かたちや肩書きにこだわる愚をわかるようになりました。
ですから、一応精神保健指定医の資格を持っていますが、
『佐久病院のよろず屋』とお答えしています」

言葉には、かたちも重さもない。
しかし我々は、ときに「言葉に重みがあった」などと言う。
伊澤氏の言葉は、まさにあるはずのないかたちと計りしれない重さを持ち、
一つひとつの発言が心の芯に響いてくる。
その響きを感じながら、佐久病院の将来に射し込む明るい光が、確かに見えた。

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写真キャプション:

「健康は平和の礎」。
若月先生の好きな言葉で、色紙にサインを頼まれると常に書いていたという。
「地域の生活者に健康の価値に気づいてほしいとの願いをこめて
書かれたのだと思います。
健診活動を始められたのも同様の動機で、もっといえば二度と戦争をして
はいけないとの深い思いもあったと理解しています」(伊澤氏)


伊澤氏を精神科にいざなった『夜と霧』。
「1973年9月7日に買いました」。
購入した日にちまで覚えているのには舌を巻いた。
想像以上の衝撃を伊澤氏は感じだのだろう


東京教育大学農学部応用動物学教室にて

徳島祖谷渓でオオムラサキを捕まえる(1982年)

佐久病院の同僚研修医たちと(1987年)

下郷診療所で内視鏡検査をする様子(1989年)

阪神淡路大震災救援活動(1995年)

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PROFILE いざわ・さとし

「専門は?」と問われれば、
「佐久病院のよろず屋」とお答えしています。


1954年 長野県東筑摩郡四賀村の農家の生まれ
1973年 県立松本深志高等学校卒業
(農家の手伝いをしながら自宅浪人)
1974年 東京教育大学農学部入学
1978年 東京教育大学農学部卒業
(この間、新聞配達と家庭教師で生活)
1980年 岐阜大学医学部入学
1986年 岐阜大学医学部卒業
1986年 JA長野厚生連佐久総合病院に研修医として勤務
1989年 大分県下郷診療所所長として出向
1990年 九州大学医学部心療内科研究生
1991年 JA長野厚生連佐久総合病院に戻り、精神科、心療内科の診療に従事
1995年 JA長野厚生連佐久総合病院心療内科・精神科医長
1997年 JA長野厚生連佐久総合病院副診療部長
1998年 JA長野厚生連佐久総合病院診療部長
2008年 JA長野厚生連佐久総合病院副院長
2010年 JA長野厚生連佐久総合病院病院長

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(取材:中村敬彦、文:及川佐知枝、撮影:木内博)
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