第7回ヘルシー・ソサエティ賞・医療従事者部門

「人間として人間の世話をする」 ケアの本質を純粋に追求

色平哲郎氏は、山村の最前線で地域医療に取り組み、
医師不在問題を解決しようと奮闘している医師である。

東京大学工学部に進学したが、大学三年のとき将来に疑問を抱きながら
放浪の旅で訪れた日本国内や東南アジア等の農山漁村、
地理的へき地が直面する医療サービスの欠如を痛感し、帰国後中退。
京都大学医学部で一から医師になる勉強を始める。

京都大学在学中に訪れたフィリピン・レイテ島にて、バングラデシュ出身の
医学生スマナ・バルア氏と出会ったことが色平氏の進路に大きく影響する。
バルア氏が設備も不十分な場所で次々と治療をこなしていく姿に色平氏は強い
感銘を受け、あらゆる国の遠隔地に暮らす人々の役に立つ地域医療に関心を抱いた。
バルア氏が学んだフィリピン大学医学部レイテ校は、佐久総合病院の若月俊一院長
(当時)が唱えた「農村医科大学構想」がフィリピンで結実したものだった。

地域医療の道に進むことを志した色平氏は、1990年に京都大学を卒業後、
佐久総合病院で医師としての道を歩み出す。

日本の農山漁村では早くから少子高齢化、過疎化が進んでおり、特に地理的
へき地では医師不在はもとよりその存続自体が危ぶまれる集落が続出している。

色平氏は山村の自治体診療所に移り、自ら家々を巡回し医療に努める等、
地域医療の普及に携わってきた。
山村の本当の暮らしを知らなければ、患者に的確な処方はできないという
信条のもと、草刈りなど共同作業に加わり、深夜でも診察に応じるなど、
村人と根気よく接し、交流を深めてきた。
そこに暮らす人々の、学歴や情報化社会などと無縁に生きる姿には、
自立した人間としての美しさがある。
そして、そうした数多くの村人を看取り、そこに宿る人間の歴史を見守ることが、
地域医療の終着点である。
色平氏が、人と人のつながりや地域に根付く息遣いなど、
お金や技術で解決できない価値を大切にし、地域の人々と信頼関係
を構築してきたことが、地域医療の発展に大いに貢献した。

地域医療の普及に努める他、色平氏は外国人HIV感染者、
発症者への生活支援や帰国支援に取り組む。
1995年にはタイ政府から表彰され、
氏の活動は国境をも超えて評価されている。

現在、後進医師の育成にも取り組み、巡回へ同行させ村人との交流を
積極的に図るよう指導し、権威を持った医師の姿ではなく、
地域で患者と向き合う新しい医師像を体現している。

「ぼくは『風の人』。村の人たちは『土の人』」と屈託なく
語る色平氏の言外には、人間そのものへの優しさがあふれている。
専門家としてだけでなく一人の人間として人間の世話をすることこそ、
ケアの本質であることを、色平氏は自らの行動をもって示してきた。
世界に通用する地域医療に対する広い視野と、村人を見守る近い距離の
両立を目指す色平氏のこれまでの業績は、称賛に値するものである。
地域医療にかかわる全ての人々の今後の発展と、氏の更なる活躍が
期待されている。

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色平 哲郎  いろひら てつろう  Tetsuro IROHIRA 

JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科 医長

Doctor, Saku Central Hospital

東京大学工学部中退後、世界を放浪し、医師を目指して京都大学医学部へ入学。
JA長野厚生連・佐久総合病院、京都大学付属病院などを経て、
長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長。
1998年より南相木村の初代診療所長となる。
外国人HIV感染者・発症者への「医・職・住」の生活支援、帰国支援
を行う特定非営利活動法人「アイザック」の事務局長としても活動を続ける。

推薦者 : 角道 謙一 元 農林水産省事務次官

写真キャプション: 看護師さんと患者さんについて話す色平氏
          色平氏の活動を紹介した書籍
          色平氏が執筆した書籍

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