=TPPは日本を壊す= 山岡淳一郎

安心を保障する皆保険が崩壊し、地域医療が瓦解してしまう!?

マイケル・ムーア監督の映画「シッコ」をご存じだろうか。
国民皆保険がない米国では、貧困などで5000万人が保険に入れず、
満足な医療が受けられない。
そう、TPPは、日本の医療を「米国並み」に引き下げる恐れが強いのだ。

週刊金曜日 2011年3月4日    山岡淳一郎


医療制度の根幹は「公的な支え合い」である。
日本では「国民皆保険」が機能しているから保険証一枚で「誰でも、どこでも、
いつでも」医療機関で一定の有効性と安全性が認められた保険診療を受けられる。

皆保険は、達成から50年、なんとか維持されてきた。
そこへ菅政権のTPP参加表明だ。
「人、モノ、カネ」が太平洋を越えてどっと医療分野に流れ込む、
あるいは流出するようになれば、生命を支えるしくみは瓦解するおそれがある。

1月28日、参議院本会議で川田龍平議員(みんなの党)は菅首相にこう質問した。

「総理は、TPP参加により、この国の経済を発展させるとおっしゃっています。
では、医療の市場化で、病院の株式会社経営や患者と医者との間に民間の保険会社が
入るようになること、混合診療の全面解禁など、私たち患者に与える影響について、
どう考えているんでしょうか」

菅首相はメモを読みながら答えた。

「TPP協定についてすべてが明らかになっているわけではありません。
従って、ご指摘の国内医療の分野にどのような影響が出るかということを、
あらかじめこうなると私から申し上げることは困難であります」。
厚生大臣経験者にあるまじき答弁だった。
医療に「うとい」ということか。


=医療に「市場原理」を導入=

TPP参加で医療の「自由化」が進めば、皆保険という公の器に「私利」の亀裂が入り、
医療市場の膨張圧力で器は砕け散る。
具体的には「混合診療の拡大」を呼び水に「米国系企業の権益増強」
「医療従事者や患者の国家間移動」から亀裂が拡がると予想される。
順を追って説明していこう。

まず、混合診療の拡大。
これは、医療に市場原理を導入したい日米双方の勢力にとって
悲願ともいえるテーマだ。
混合診療とは、公的な保険診療と保険外の自由診療の併用をさす。
自由診療の部分は、その値段を医療提供側が決められる。
病院だけでなく、製薬会社や医療機器メーカー、民間保険会社にとっても
自由診療は「金のなる木」である。

だが、高額の自由診療が広まれば、患者の所得による医療格差が固定化する。
公的保険の範囲は縮小し、皆保険が崩れる。
ゆえに日本では原則的に混合診療は認められていない。

ただし、原則には例外がつきものだ。
日進月歩の医療技術に「公正さ」だけで向き合ったら、対応が遅れ、
新薬の承認にも時間がかかる。
そこで厚生労働省は「保険外併用療養費制度」を設け、高度な医療技術のなかから
普及の見込めるものを選び、この枠内で特例的に混合診療を容認。
その医療技術がある程度普及したら、公的な保険診療へ移し、一般化を図ってきた。
この制度で肝移植などの高度医療が育まれている。

菅内閣は、これを自由化の突破口に選んだ。
昨年6月に閣議決定された「新成長戦略」には「保険外併用療養費制度
の範囲拡大」が盛り込まれた。
さらに行政刷新会議のライフイノベーションWG(ワーキンググループ)は中間報告で
「国民に必要な医療を整理し、公的保険の適用範囲を再定義する」と踏み込む。
いずれも混合診療の拡大で自由価格市場の創出を狙ったものだ。
本人はどこまでわかっているのか知らないが、
菅首相自身が医療の自由化への道筋をつけているのである。

TPPに参加すれば、この「花道」を通って米国系の製薬、医療機器、
民間保険会社は大手を振って入ってくるだろう。
米国は、1990年代前半から市場開放を理由に医薬品や医療機器の
価格自由化をしつこく突きつけてきた。
2008年の年次改革要望書では、「価格算定改革」を掲げ、
血漿(けっしょう)製剤に関しては「産業特性に基づいた価格算定制度の導入」
を求めている。
要求は極めて具体的だ。

厚労省は、こうした「外圧」を、ときにノラリクラリとかわし、
自由化に抗(あらが)ってきた。
しかしながらTPPという厳格な自由貿易協定に加わると、そうはいかなくなる。
締結国企業にも自国企業同様の「内国民待遇」が与えられる。
しかも国家の企業への規制より、企業活動の自由が優先される。
もしも企業が、その国の政府の施策で被害を受けたと判断すれば、
「投資家―国家間紛争解決手続」で政府相手に損害賠償請求訴訟を提起できる。
すでに「米国系企業の権益増強」は進んでいる。


=米の横槍に悩む豪州=

たとえば米国と一足早く二国間自由貿易協定(FTA)を結んだ豪州では、
自国の医療制度への横槍で四苦八苦している。
ターゲットにされたのは「医薬品給付制度(PBS)」。
豪州では、国民が医薬品を安く買えるよう、卸売価格を政府が決める。
そして政府は、患者が払う小売価格との「差額」を負担。
この制度で豪州の医薬品価格は米国の三分の一から十分の一に抑えられていた。

だが、FTA交渉が開始されるや、PBSが槍玉にあげられる。
両国間の医薬品合同作業部会で、米国側は「知的財産権による発明価値の保護」
を盾に攻め立てた。
その結果、ハワード政権(当時)は、他の医薬品と互換性のない単一ブランドの薬を
「P1分類」、代替可能な一般医薬品は「P2分類」と区別。
前者に高い価格設定を認め、後者は従来通りとする制度改正を行なった。
それでも米国は矛を収めず、TPP交渉でもこの問題を取り上げると予告している。

米国とのFTA批准が間近な韓国でも、米国系保険会社が政府の保険政策に対して
訴訟を起こすのではないか、と懸念されている。
自由貿易協定は、一度結べば後戻りがきかない。
米国は、自由を振りかざして輸出倍増、国内の雇用確保に突っ走る。
国益あっての自由。
リアリズムで向き合う必要がある。


=医師不足がさらに進む=

TPP参加で「医療従事者や患者の国家間移動」も確実に加速する。
こちらもコントロールを誤ると医療を突き崩す圧力に変わる。

日本医師会は、昨年末の定例記者会見で警鐘を鳴らした。

「クロスライセンス(互いの国の医師免許を認めること)での医師、医療関係職
の国際移動が進めば、優秀な人材は、投資が集中した『特区』などに集約される。
国際的にも、国内的にも、ますます医師の不足と偏在に拍車がかかり、
市場としての魅力が薄い地方では、地域医療が完全に崩壊するおそれがある」

医師の移動で、真っ先にダメージを受けるのは赤字体質の自治体病院だろう。
都市圏への医師流出に歯止めがかからなくなり、次々と閉鎖へ、、、。
患者の移動も問題が多い。
世界保健機関(WHO)は臓器売買のあまりの惨(むご)さから、
臓器移植ツアーの自粛を各国に呼びかけている。

ところが菅政権は「医療ツーリズム」を「成長戦略」の柱にすえ、
患者の呼び込みに大わらわだ。
最長半年の「医療ビザ」の発給が今年1月から始まった。
が、これまた官僚の机上論、大半の医療機関は混乱を恐れてわれ関せず。
ある温泉地で、外国人に人間ドックの門戸を開いた病院長は
「儲けたくて医療観光を始めたわけではない」と断言する。

「寂(さび)れた温泉街を明るくしたくて、
日本人向けに温泉旅行に人間ドックをつけてみた。
現代版の湯治です。
評判がいいから、外国人にもと考えただけ。
受け入れたのはまだ、二、三人。
人間ドックは自由診療だけど、相場は決まってる。
これで経済成長なんておこがましい。
われわれの本分は地域の医療を守ること。
医療制度も、習慣も違う外国人の健診をして、
重大な疾患が見つかったら、どうフォローするの?
カルテ管理や治療は誰が責任を持つの?
人間ドックも医療行為です。
霞が関はなーんも考えちゃいない」

TPPへの参加は、暴風雨のなかで窓を開け放つに等しい。
政府は国家をバクチの道具にするような真似はやめて、
国民の暮らしと正対すべきだろう。
皆保険を維持しながら、青息吐息の医療現場をどう立て直すか。
最優先の課題は、そこにある。

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やまおか・じゅんいちろう

ノンフィクション作家。
著書に『命に値段がつく日―所得格差医療―』(中公新書ラクレ・共著)、
『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書)など多数。


写真キャプション: 1月28日、参議院本会議で代表質問に立ち、
「TPPと医療」について国会で初めて質した川田龍平氏(右)。
菅直人首相(中央)は「医療といった個別分野にどのような影響が出るか、
あらかじめ言うのは困難だ」と答弁した。(提供・時事)


同: 医療自由化で地方の「医療崩壊」は加速。
その象徴として2008年に休院に追い込まれた「旧銚子市立総合病院」は、
10年5月に公設民営の「銚子市立病院」として再開した。
経営に赤信号が灯る自治体病院は今後、いよいよ追い込まれる。(提供・共同)

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