54 「レントゲン、生活までは、写せない」

日経メディカル 10年11月29日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201011/517601.html

 日本の過疎地や途上国へ医療実習に行く医学生が、少しずつ増えてきた。
 多くの場合は、環境の違いに戸惑いながらも、それなりに見聞を広め、
 医療が「生活を支える一部分」であることを知って日常へと戻っていく。

 だが、中には感受性が強すぎるせいか、あるいは「事前期待度」が高すぎるせいか、
 環境の違いに打ちひしがれてしまう医学生もいる。
 あまりダメージが大きいようだと心配になる。
 この「もろさ」は医学部一直線で育ってきたプロセスで
 染みついたものだろうから、一朝一夕には変えられない。
 しかし、「使命感」で頭でっかちだと、もろさに危うさが加わる。
 そんな医学生に、ネパールの医療に貢献した故・岩村昇先生の
 苦労を知ってほしくなった。

 岩村先生は、「アジアのノーベル賞」といわれる「マグサイサイ賞」を
 受賞した公衆衛生医。1960年代初頭からネパールの山村に入り、診療を行った。
 そのころ、ネパールには結核がはびこっていた。

 岩村先生は日本で寄付金を集め、念願のレントゲン機器を携えて
 1966年に再びネパールに入った。
 機材にはディーゼル発電機がついており、電気のない山中でも撮影ができた。
 村人たちは、初めて見る「文明の利器」にいささか興奮気味で、
 1日に500人から600人もの人々が受診にきた。
 当然、次から次へと結核患者が見つかる。
 あまりに患者が増えすぎて病院では治療できず、
 3カ月分の薬を手渡して、自宅で治療に取り組んでもらった。

 だが、患者の9割は自覚症状が治まってくると薬を飲まなくなる。
 いつの間にか治療を中断し、危険な耐性菌を抱えた患者が増えていく。
 5年、10年経って、ネパールの結核対策は極めて難しくなった。

 よかれと思ってレントゲン機器を持ち込み、そしてそこで発見した病気に先進国の
 治療法を適用したばかりに、手ごわい耐性菌を抱えた患者が増加したのだった。
 岩村先生は自著『あなたの心の光をください?アジア医療・平和活動の半生』(佼成
出版社)に、
 こう書いている。

 
「人間、何が恐ろしいかって、自分ががむしゃらに
 “俺の信じることはいい事だ”と思って、相手の心情やその人の
 置かれている状況などを考えずに突っ走ってしまうことほど
 恐ろしいことはありません。
 レントゲンは、ネパールの草の根の人びとの生活の背景までは写せないのです」


 そして、岩村先生は、医療人の役割を次のように記している。

 
「私たち医療人の役割は、住民が参加する医療と保健計画のための
 手助けをすることではないか。
 私たち医師が主役となるのではなく、草の根の村人たちの中に、
 本来備えられた秘められた能力、可能性を信頼して、それを引き出し、
 その人たちが自ら成長するための縁の下の力持ちとなることに違いない。
 私は15年かかって、ようやくこの大切なことに気づいたのでした」


 岩村先生が悪戦苦闘して到達した境地に、
 「実習」でたどり着こうなどと考えてはいけない。
 自らへの「事前期待度」は低めに、まずは現場で経験を積むことだ。
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