日経メディカル ブログ 色平哲郎の「医のふるさと」 35〜40

ブログの紹介  今の医療はどこかおかしい。
制度と慣行に振り回され、大事な何かがなおざりにされている。
そもそも医療とは何か? 医者とはなんなのか? 
世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、
10年以上にわたって地域医療を実践する異色の医者が、
信州の奥山から「医の原点」を問いかける。

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35 「佐久病院行動目標」

日経メディカルブログ  色平哲郎  09年5月11日

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200905/510603.html

 先月、佐久市長選挙が行われ、39歳の前県議・柳田清二氏が新しい市長となった。
 長野県の現役市長では最年少だという。

 基幹医療センターの新築を含む病院再構築を控えている佐久総合病院にとって、
 新市長体制での行政との連繋はますます重要になってくる。

 前々回の拙文でご紹介したように(2009.3.30「地域再生の希望は「医療を核とした
街づくり」にあり」) 佐久病院は、医師で医学史研究者・医事評論家の
 川上武先生が1988年に提唱された「メディコ・ポリス構想」をベースに、
「病院を核とした街づくり」に取り組んできた。

 佐久病院前院長・清水茂文医師は、そのビジョン
「ともに造ろう、いのちと暮らし―佐久総合病院再構築計画(素案)」を
「農民とともに―JA長野厚生連佐久総合病院ニュース(02年3月1日号)」
 誌上に発表している。

 その中に、99年3月に採択された佐久病院行動目標が掲載されている。
 以下の5項目である。

1 第一線医療の充実と高度専門医療の向上を図るとともに、
 保健・医療・福祉を一体化した地域の基幹病院としての役割を果たす。

 2 農業と農村を守り、地域文化活動を発展させ、
 地域と連繋した「メディコ・ポリス」の実現に努める。

 3 研究・教育は病院の大きな任務であり、医師の卒後研修や職員研修を通じ、
 地域医療の人材の養成に努める。

 4 農村医学をさらに推進し、プライマリー・ヘルスケア医学を確立し、
 中国ならびに発展途上国の国際保健医療に貢献する。

 5 患者第一主義に徹するとともに、患者さんの権利と責任を明確にし、
 情報公開とサービスの向上に努める。

 90年代後半に佐久病院は、この行動目標を実現させようと地元の臼田町
(2005年に佐久市と合併)と協働で病院を核とした街づくりに取りかかった。
 当時、通商産業省が力を入れていた「中心市街地活性化事業」と組み合わせた
 基本構想を描き、国道を挟んだ広い街区で大胆な区画整理を行う、
 という案も持ち上がった。

 しかし、いつの間にか街づくりの議論が、
「病院の場所をどこにするか」に収縮してしまったという。
 清水医師は、こう記している。

「……地元の議論の動向を見ていると、
 病院がもっている多様な機能に対する考慮が弱く、
 現状地全面再構築か否かという“場所問題議論”に
 なっているような気がして仕方ない。

 『街づくり構想』であるから、核となる病院の場所問題が
 重要であることは間違いないが、この構想は他業種、他産業との連関や
 その振興策を抜きには考えられない。

 したがってこの構想を実現する主体はなんといっても臼田町であり、
 中間団体である佐久病院が主体とはなりえないのである」

「病院がもっている多様な機能」の中には「雇用創出」が含まれる。
 一昔前まで、医療や福祉、教育を「非生産的」と見る向きも多かった。
 人間の生存を直接的に支える医療や福祉、人間形成に携わる教育は、
 経済的効用を数値化しにくい。

 一方で、公費をつぎ込まねばならず、社会保障費が増えれば
 産業振興に回す資金が減ると敵視する経済人も少なくなかった。

 しかし今日では、病院が特養老人ホームや老人保健施設、
 教育研究機関を設けることで、医療・福祉サービスの向上に加えて、
「雇用創出」という成果も得られることが広く知られるようになった。

 佐久のような農村では、地産地消の「食」が療養環境に
 与える影響も大きいことだろう。

 医療は、十分に生産的な産業だといえよう。
 他産業とのつながりを含めて、
 医療環境を「社会的基盤」としていかに整備するか。
 自治体と協働することへの期待がますます高まってくる。

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36 「年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても」

日経メディカルブログ 09年6月1日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200906/510925.html

 医療や介護、福祉の現場で働く者にとって、「心の糧」を見つけるのは、
 そう簡単なことではない。

 「使命感」に燃えて、人のお世話をしていても、日々の激務に心身を
 すり減らし、燃え尽きて現場から去る人も少なくない。

 医療従事者だけではない。
 グローバル経済が激動する中、どんな職業に就いている人も
 高いモチベーションを保ち続けるのは容易なことではないだろう。

 先日、たまたまラジオから流れてきた歌が、耳に残った。
 歌手の樋口了一さんが歌う「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」という曲。
 原詩は作者不詳のポルトガル語で書かれた一編の詩を樋口さんの友人が
 日本語に訳し、それに曲をつけたのだという。
 この曲を紹介したホームページを開くと、印象深い歌詞が載っていた。

http://www.teichiku.co.jp/artist/higuchi/disco/cg17_lyric.html

 年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても
 どうかそのままの私のことを理解して欲しい
 私が服の上に食べ物をこぼしても、靴ひもを結び忘れても
 あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

 ではじまり、

  あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
 私の人生の終わりに少しだけ付き合って欲しい
 あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
 あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

 で終わる詩は、在宅介護と高齢者医療の現場で苦闘する人々を応援している。

 樋口さんによると、「必要とされている人の元へ自ら歩いていく曲」とのこと。
 この歌を紹介したところ、私の友人・知人からたくさんの感想文が寄せられた。


  ○さりげなく、素直に老いを受け入れ、愛する家族と向き合う
 すばらしい詩ですね。多くの人が共感することと思います。
 私の友人にも介護の現場でがんばっている人がいます。
 是非紹介しようと思います。

 ○ジンと来ました。私の周りの方々にもご紹介してよろしいでしょうか。
 切なくなりましたが、心が温かくもなりました。
 認知症の方々と毎日過ごす私にとって、本当によい詩を
 教えてくださってありがとうございます。

 ○ありがとうございます。
 この詩、全く知りませんでした。
 職場で読んだのですが、涙が止まりません。
 もう言葉もなくて…。なんという詩でしょう。
 命がつながっていく意味を、教わった気がしました。
 ありがとうございました。

 ○「成長するっていうことは、1つ1つできることが増えていくこと。
 老いていくっていうことは、できたことを、1つ1つ失っていくこと。
 できていたことを1つ1つ手放していくこと」
 表現としては理解できても、実感としては、まだ掴み切れていない
 この言葉がずっと心の底にありました。
 この歌を聴いて再び思い起こしました。

 ○自分もいつか行く道です。
 高齢者の人たちの思い、切ないです。
 高齢初心者より。

 ○すっと読めて入ってくる歌ですね。
 この詩は体験をもとに書かれているんでしょうね。
 うちの祖父も私が大学生の頃、ぼけて亡くなりましたが、
 祖父のことをまるで理解できずにいたことが恥ずかしく思います。

 ○励ましのお便りをもらったり、戒められたり、、、
 この間、一喜一憂の日々ですがこの詩を読み、自分のおろかさに気づきました。
 心が折れるのは感謝の気持ちが足りないからですね。
 この詩を読んで、今ある人生は、両親や家族、そして私の周りの
 たくさんの皆さんのおかげであることを痛切に感じました。

 ○趣き深いメール、ありがとうございます。
 介護の外部化とはいえ、実子に世話になることもあるはずです。
 自分の息子たちとは、万一、世話になる時にも世話をしてもらえるような、
 そんな親子関係を築かなければな、と思いました。

 ○再読三読し、うるうるです。
 母のことを思いだしたり、友人の手紙を思いだしたりです。
 なかなか、思いきれないものです。

 ○今静かに歌われているようですね。私は、煩悩だらけの人間ですので、
 共感して胸に迫る部分と、反発したくなる部分と両方感じています。
 我ながら素直じゃないですね。

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37 『村で病気とたたかう』再読

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200907/511485.html

日経メディカルブログ 09年7月13日 色平哲郎

 歴史はくり返すというが、こと農山村の「へき地医療」については、
 40年たった今も、本質的に歴史は動いていないのではないかと感じる。

 農村医療のバイブルといわれる『村で病気とたたかう』(若月俊一著・岩波新書)が
 出版されたのは1971年4月。この本の中で若月先生は、
 農村に医者が来ない、居つかない理由として次の3つを挙げている。

 ・農村に来ると勉強ができない、技術が遅れて日進月歩の医学についていけなくなる
。

 ・今日の文化的(都会的)環境から離れてしまうと、医療技術だけでなく
 一般的な意味で遅れてしまう。農村の小・中学校のレベルが低いから、
 子どもに医科大学に入学できるような教育を受けさせられない。

 ・村の中の環境が医者にとって気持ちのいいものではない。
 村人は口うるさく、閉鎖的な社会の中で高給取りの医者を
 目の敵にする傾向がある。


 この三つの理由は、現代にもそのまま残されている。
 いや、実態はさらに悪化している。

 若月先生は、農村の医師不足を根本的に解消するには、
 農村が「自前」で医師を養成するしかないと考えた。
 そして「農村医科大学構想」をまとめた。

 佐久総合病院前院長の清水茂文先生は、
 農村医科大学構想がまとまったのは1965年ごろだと述べている。

 「……1965年の全国厚生連レベルの医師不足対策委員会で
 『農協の全国的な組織と資金の力をもって、我々自身の医科大学を
 つくろうではないか。誇りをもって農村医療に従事する医者を、
 自分たち自身の手で教育しようではないか』という結論になったとある。(略)

 医科大学の設立認可には、当時の文部省は新設を認めたくない方針をとっていた。
 しかし、全国的には保険給付の拡充等により医療需要が高まり、
 医師不足は限界に達しつつあった。

 医学部定員を多少増やしながら対応していたが、医科大学の新設をめざす動きも
 非公式には全国であったのではないか」
 (『社会保険旬報』2009年5月21日号)

 1970年10月の全国農協大会で、佐久病院を候補地として
 農村医科大学を創る決議がなされた。全国厚生連が中心となって
 100億円の資金を自力調達し、72年の「開校」に向けて動きだした。

 ところが、「政治」によって事態は急変する。当時の秋田大助自治大臣は、
 70年7月にへき地で働く医療従事者養成のための「医学専門学校構想」を表明。
 『「辺地はやぶ医者でいいのか」という非難に対して、
 正規の大学をことにした』と言った。
 若月案を真似たとまではいわないまでも、
 強い影響を受けたのは事実だろう。

 若月先生は「私の農村医大論」(『若月俊一著作集 第一巻』)にこう記している。

 「この政府案はその後とんとん拍子で進行し、
 各都道府県の知事が設立発起人となり、ついに1972年から
 開設する運びとなった。自治医科大学と名のり、
 その設立のスピードは、まったく異常だった」

 1960年代から積み重ねてきた「農村医科大学構想」は、全く違った形になった。
 そして今、農山村の医師不足は、さらに深刻化の一途をたどっている。

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38 医者のお手本  日経メディカルブログ 09年8月3日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200908/511728.html

 「となり百姓」という言葉をご存知だろうか。
 これは、田植えや草取りなどを隣がやったら、うちも次の日にやればよい、
 という農民心理のあり様を示しているのだそうだ。

 農業では、一日くらいの遅れはあまり問題にならない。
 それとともに、自分で判断しなくても、隣に合わせておけば大丈夫、
 という感覚も示している。
 集団主義的「安心社会」といえるのかもしれない。

 農家に限らず、戦後の日本社会では、大なり小なり、
 「となり百姓」が通用したのではないか。 


 高度成長期が始まったあたりから、隣がテレビを買えば、うちも買う。
 隣の子どもが大学に行けば、ウチの子も……と。 


 現在、経済成長著しい中国が、昔の日本と同じように
 家電製品やクルマなどの耐久消費財を普及させている。

 しかし、現代日本のわれわれ医師にとって手本にすべき隣とは誰なのか、何なのか。
 そう考えてみると、「となり百姓」の意味も、
 単なるアナロジーではすまなくなってくる。

 『ディア・ドクター』という映画を観た親しい医師から、
 次のようなメールが寄せられた。
 この映画は、笑福亭鶴瓶演じる主人公・伊野医師が
 ニセ医者ながら村人の心をとらえ、
 コミカルに医療とは何かを問いかけるものだ。

 「3年以上、地域で医師をやっていたら、 

 映画で描かれたような場面は必ず思い当たる。
 伊野氏は医師免許がない、という意味で「ニセモノ」だったけれども、
 自分たちも立派なニセモノだ。

 何の科の専門も持たない、専門の裏づけを持たないニセモノ。
 家庭医としての専門研修を受けていない家庭医のニセモノ。
 へき地医療とはいいながら、大都市にも1時間ちょっとで行ける、
 そんな「へき地」とはいえないところでやっている、へき地医療のニセモノ。
 この地域に一生を捧げるかと言われれば、素直に答えられないニセモノ。

 自転車で逃げだしたい気持ちになることがないとはいえない。
 伊野氏と違ってそうしないのは、確かに「免許」があること、そして
 家族があるからかもしれない。

 主人公と、自分は結局同じではないのか?
 ラストシーンで「医師」でなくなった主人公が、村で診ていた「患者」に会うため、
 警察の追手をまいて、病院に行く。

 病院に紹介し入院した自分の患者さんに、求められたわけでもなく、
 診療報酬が生じるわけでもないのに、顔を見にいく、
 そんな自分の気持ちと重なった。
 そうやって、自分は目の前の仕事をしていくのだな。
 そういう、わけのわからない感情に包まれて…」

 へき地医療の現場では、隣どうし、まず、率直にホンネをぶつけ合うところから、
 心が通い合う関係ができていくのではなかろうか。

 ニセ医者の映画もまた、これからの医療を考えるヒントを与えてくれた。
 われわれが手本とすべき医師像は、固定的な『赤ひげ像』ではなく、
 私たちと患者さんの間で絶え間なく、揺れ続け、問い続けられているのだ。

 今年も、若月忌がやってくる。
 佐久総合病院の若月俊一先生は、3年前の8月22日、96歳で亡くなられた。
 8月22日(土)午前中、10時から11時、例年どおり長野県佐久市臼田の医王寺で
 若月先生の墓参がある。

 弟子にあたるWHO医務官、スマナ・バルア博士がインドから来日、
 母校東大の医学部教授も墓参に加わる。 


 今年は、当日午後から翌日にかけて、長野市で「地域医療研究会」が開催され、
 バルア博士は、そこにも出席して、日本語で講演を行う予定だ。

 バルア博士が毎年8月22日、欠かさず墓参りにおいでになるのは、
 若月俊一こそ、彼にとって「医者のお手本」だったからなのだろう。

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39 「慈」「悲」「喜」「捨」 ブッダの教え  日経メディカルブログ 09年8
月22日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200908/511960.html

 人が人を支える上で、信仰が果たす役割は大きい。

 友人の世界保健機構(WHO)医務官スマナ・バルア博士(バブさん)によれば、
 仏教には、「本当の智恵」(ブラーマ・ヴィハーラ)への到達を目指す、
 四つの昇華された原理があるという。
 バブさんがブッダの教えに詳しいのは、
 バングラデシュで26代続く上座仏教の僧侶の家系に生まれたからだ。

 四原理は、心の安寧と幸福な生活の根源を支えるといわれており、
 中国語では四無量心(しむりょうしん)として「慈」「悲」「喜」「捨」と
 それぞれ訳されている。
 以下に、バブさんから教えられた「本当の知恵」を紹介しよう。

 (1)「慈」愛しむ心(メッター/マイトリー)

 これは、単に他人を助けたいという(欲求に伴う)善意よりも
 ずっと深く広いもの。
 同朋の幸せのために自己犠牲をもいとわぬ態度であり、
 仏典メッター・スートラには
「母の如く、自らの生命をもかえりみず子を愛し、守り育てる態度。
 この普遍的な愛の態度は人をして全宇宙への愛と理解へと導く」と紹介されている。
 この原理は、単にお喋りをするための情感ではなく、
 私たちが日々実践すべき目標として、医療者の眼前にそびえている。

(2)「悲」抜苦の心(カルナー)

 こちらは、他者に奉仕の手をさしのべるとき、その苦悩や苦難に接して
 自分の中に湧きおこる共感のこと。
 受け手(患者)の本当の苦悩を、送り手(医療者)が正確にとらえたときに、
 生じる洞察といわれる。

 (3)「喜」共感する心(ムディター)

 他者が幸せになることを、喜びとしてとらえる心。
 苦悩への対応としてなされた奉仕の実践活動、その所産への満ち足りた心をさす。
 他人の幸せを自分のこととして喜ぶには、現場の実践活動が不可欠である。

 (4)「捨」平静の心(ウッペカー)

 全ての人間が本質的に公平に平等である、との達観に導かれる心。
 各人の行為とその結末(カルマ)までを、
 冷静に見つめ続ける実践が含まれている。

 これら4つのブラーマ・ヴィハーラの目標は、自分の中で深く考えて、
 「光」をみつけ、将来への素晴らしい道を見出すことにある、といわれる。

 四原理はそれぞれ医師と患者関係の諸相にあてはめて説明することができそうだ。
 まず、医療者は、無私なる愛の態度(メッター)をはぐくむ必要がある。
 医療者は一生涯を通じて、何らの差別の心なく、
 病者、悩める者をケアする任にあたることになるからだ。

 この「愛しむ心」の実践にあたっては、他者の苦悩への洞察力
 (カルナー)が欠かせない。
 カルナーは、正確な診断と簡潔な処方、適切な手技をなす為に医療者が
 職業人として最善をつくす際の大きな力づけとなる。

 そして患者が快方に向うとき、医療者はその途上に喜びを
 共有することができる(ムディター)。
 もし不幸にして快方に向わない時でも、
 内省的に心を尽くすことができるだろう(ウッペカー)。

 また、普段われわれが何気なく使っている「供養」という
 言葉にも深い意味があるという。
 供養(プジャ)とは、もともと「畏敬の念、敬意、敬慕。」を意味していた。
 現在の仏教でも、精神的な先師への畏敬の念を、師への捧げもので表現している。
 通常これは物質的に何かを捧げるかたちをとる。

 供養は、死せる者に対して食物や香、花、ろうそく等を捧げることを意味する。
 読経など宗教的行事に伴って、この世を去った霊魂を慰める儀式として、
 一般にはとらえられている。

 日本では、虫や筆や花に対してさえ供養(プジャ)がなされる習慣がある。
 日本人の心の奥深くに仏的感性が根づいていることにわれわれは気がつくことだろう
。

 現代の医療者は自らの聴診器やメスなどに供養の観念を抱けるだろうか。
 救いを求める同朋の治療に取り組む際、手の中の機器が、
 心をこめてさしのべる救いの手、その手の延長になりうると感じられるだろうか。

 来週、「人間として人間のお世話をすること 〜金持ちより心持ち〜」と題し、
 来日中のスマナ・バルア医務官による日本語での講演が開催される。

 日時は8月27日(木)の18時半から20時。
 場所は慶応大医学部(信濃町キャンパス)の東校舎講堂。
 詳細は健康医療開発機構事務局(jimu@tr-networks.org)まで。

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40 「医者のいないところで」 日経メディカル 09年9月14日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200909/512238.html

世界の地域医療に革命をもたらした
『医者のいないところで(Where There Is No Doctor)』の著者
デビッド・ワーナー氏が来日し、10月25日に
東京都新宿区の国立国際医療センターで行われるシンポジウムで講演する。
(「デビッド・ワーナー来日記念シンポジウム」の開催概要はこちら)
http://kokucheese.com/event/index/278/

21世紀のケアリング・コミュニティ(すべての人の健康実現のために支えあう地域)を世
界に根づかせる活動の一環だ。

ご存知の方も多いと思うが、『医者のいないところで』は、
地球上で聖書の次にたくさん読まれているという
「プライマリー・ヘルス・ケア(0次医療)」のハンドブック。

生物学者のワーナー氏は、メキシコの農村で30年間村人とともに活動し、
地域保健活動を通して村人の自立を支援してきた。

その経験を基に医者のいない場面で、
どのように病気やケガ、出産、公衆衛生などに
対処すればいいかを本書で分りやすく著した。

文字が読めない人々にも理解できるよう、イラストがふんだんに使われており、
これまでに八十数カ国語に翻訳されている。

『医者のいないところで』は出版されて完結する本ではない。

実は5年前に、「日本語ウェブ版」を
出す折、私も少し協力させていただいた。
http://wndoc.hp.infoseek.co.jp/

翻訳に当たった大谷勝彦氏、河田いこひ氏は、このウェブ版発刊に際して
「日本語版の読者の皆様に」と題して次のように記している。

 
「このハンドブックは、日本国内で医者が常駐していない離島や山間へき地に
住む人々、海外での長期支援活動に従事している日本語使用者、
そして便利な都会にいても簡単な病気は自分で治したいと思っている人々に
配布するために作られました。

原著がメキシコの山間部での使用に対応するように書かれたものであるので、
取り上げられている病気と推奨されている薬の種類が、
現在の日本での使用のためには、必ずしも最適ではありません。

少しでも疑問がある場合は、できるだけ速やかに
医学的・薬学的支援を得るようにしてください。

原著に補充や訂正が生じた場合は、可能な限り差し替え用の翻訳加除版を
お送りしたいと思います。

また、訳文中に不適切な箇所があれば、再検討して対処するつもりです……」



つまり時代と状況の変化に応じて、
それぞれの国や地域に合わせた内容に改訂され続ける。

時代とともに歩む本である。

途上国では今も、毎年毎年多くの子どもや母親たちが、マラリア、エイズ、
下痢、栄養失調、妊娠・出産の合併症など、「予防可能な病気」のために
命を落としている。
 
また、高度な医療を受けられる日本でも、取り残されている人びとがいる。

今回来日されるワーナー氏には、もう一つの著書
『私たちのいないところで私たちのことを決めないで
(Nothing About Us Without Us)』がある。
http://www.dinf.ne.jp/doc/english/global/david/dwe001/dwe00101.html

この書名は、2004年の国連障害者デーの標語にそのまま採用された。


ワーナー氏の講演とシンポジウムは、「医療にかかる権利」や「自己決定」、
そして「賢明なセルフケア」について多くの市民がともに考え、対話する、
そんな機会になるだろう。

お時間のある方はぜひ、参加してみてはいかがだろうか。

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