日経メディカル ブログ 色平哲郎の「医のふるさと」 29〜34

ブログの紹介  今の医療はどこかおかしい。
制度と慣行に振り回され、大事な何かがなおざりにされている。
そもそも医療とは何か? 医者とはなんなのか? 
世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、
10年以上にわたって地域医療を実践する異色の医者が、
信州の奥山から「医の原点」を問いかける。

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29 「地域医療という言葉を使って、妙に納得するな」 

日経メディカルブログ 09年1月1日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200901/509012.html

私の恩師、清水茂文先生が2008年春、
JA長野厚生連佐久総合病院を定年退職された。

清水先生は1970年、佐久病院に研修医として入った。
当時は、熱い政治の季節だった。

いわゆる「地下水事件」で、若月俊一院長と対立し、
いったん佐久病院を辞めた。

清里聖路加病院に9年勤務した後、思うところあって佐久病院に再就職。
以来、南牧村診療所や小海診療所で地域医療の「第一線」に立ち、
その後、佐久病院の院長を務めた。

7年前に脳梗塞で倒れたが、健康を回復し、現役最後の日まで訪問診療に
走り回っておられた。

その清水先生の退職記念講演は、じつに味わい深い。
関心のある方は、佐久総合病院ニュースのホームページ
http://www.valley.ne.jp/~sakuchp/news/no183/dr_shimizu/dr_shimizu..htm
にアクセスしていただければ、全文が読めるようになっている。

40年近くにわたり地域医療に携わった先生の言葉は、示唆に富んでいるが、
11人の研修医が「地下水」というグループを作って、

「きちんとした研修を受けたい、それゆえ更なる労働強化につながる
八千穂村全村健康管理活動への参加はボイコットする」

と反旗をひるがえし、佐久病院を去るくだりは思わず引き込まれる。

以下、清水先生の講演から引用する。


 1972年3月末、院長室に最後のご挨拶に伺った。
 私(清水)が挨拶の言葉を言い終わるか終わらないうちに、
「君も東京へ行くのか!」と怒鳴られた。

 清里聖路加病院へ行くといったつもりだったが、
(若月)先生は東京の聖路加国際病院へ行くと勘違いされたらしい。

 そのことを申し上げると、急に表情が和らいで
「まあ、そこに座れ」ということになった。

 院長室に入ったのは多分その時が初めて、私はとても緊張していた。
 いろいろな話を聞いたようでもあるが、よく覚えていない。

 ただ頭に残ったのは「農民のこと、農村のことをよく勉強しなさい」
 という内容だけだった。

 2年の研修期間中、正直いって農民や農村のことなど
 真面目に考えたことはなかった。

 私はこれを叱咤激励の言葉、餞別(せんべつ)の言葉と勝手に解釈した。
 振り返ってみれば、この言葉が私の医師としての一生を決めたといえる。


9年後、先生は
「…私は物事の表面だけ見て、ことの本質を認識できていなかった」
と再び、佐久病院に戻ってくる。

清水先生は、「地域医療という言葉を使って、妙に納得するな」と警鐘を鳴らす。


 近ごろ地域医療という言葉が日本中に氾濫(はんらん)している。
 医療関係者はいうまでもなく、政治家も官僚もマスメディアも無条件に
 多用している。

 そして皆がこの言葉を使って妙に納得しあっている。
 いかにも変だ。

 佐久病院と厚労省が同じ意味を込めて使うことはありえないが、
 うっかりするとその違いをあいまいにされてしまう。

 …結論だけいえば地域医療の本質は、
 国の制度・政策に対する抵抗と闘いの実践的論理だと考えている。


さらに医療者の中でも地域医療の定義について混乱している点があると指摘する。


 つまり地域医療(狭義)VS専門医療という対立的な構図についてである。
 前者は劣位、後者は優位という誤った意識さえ含んでいる。

 これはどちらかという問題ではなく、患者住民は両方とも(広義の地域医療)
 必要と考えているのであって、このニーズに応えることこそが住民本位の
 医療ということになるだろう。


新年にあたり、清水先生の「ファイティング・スピリット」を
私たちもしっかり受け継ぎたい。

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30 ハケンとセイホ 日経メディカルブログ 09年1月26日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200901/509228.html

 歳末から、今年の1月5日にかけて、東京の日比谷公園で
「年越し派遣村」なる支援活動が行われた。

 ボランティアに入った若者によれば、大晦日の「村」は、
 食事も比較的ゆっくりとれる状態だったが、
 メディアで報道されるや、一気に「村民」が増えたという。

 茨城県から歩いてきた人、自殺に失敗して訪れた人、
 交番で村を紹介されてきた人…と、
「テレビの報道より厳しい現実を目の当たりにして、
 大企業に対する怒りが、ふつふつと沸いてきました」
 というのが、この若者の感想である。

 派遣社員には「常用型」と「登録型」があるそうで、
 製造業の「派遣切り」の対象になっているのは、
 主に後者なのだという。

 派遣先企業と派遣会社、派遣労働者の契約は、
 派遣先企業が派遣会社との契約を打ち切った時点で、
 派遣会社と派遣労働者の「雇用関係」も解消される、
 と記載されていることが多いようだ。

 これでは派遣会社、などといっても、
 単なる「職業斡旋所」ではないだろうか。
 とても、雇用主とは言い難い。

 派遣村の入村者約500人のうち、半数以上が生活保護を申請し、
 数日内にアパートでの生活保護開始決定を得たようだ。

 しかし、国民一般に、これを「超法規的な特別扱い」と
 誤解している向きがあると聞く。

「生活保護問題対策全国会議」や
「首都圏生活保護支援法律家ネットワーク」に集う
 弁護士らの知見によれば、
「派遣村」での生活保護適用こそ、制度運用の本来の姿だそうだ。

 例えば「住所がないと生活保護は受けられない」
 というのは俗説で、誤っている。

 生活保護法19条1項で居住地のない者は、
 その「現在地」を所管する福祉事務所が
 生活保護の実施責任を負うと定めている。

 つまり日比谷公園のある千代田区の福祉事務所が、
 生活保護を実施したのは法的には当然。

 同法30条1項で「居宅保護の原則」も示されており、
 生活保護費からアパートの敷金や生活用品、被服費などを
 支給して新しい生活を確保できる、というわけだ。

「働く能力がある者は生活保護を受けられない」という
 俗説も間違っている、と専門家たちは口をそろえる。
 失業者や低収入のワーキングプアでも生活保護を利用できる。

 3月末までに8万5000人もの非正規労働者が職を失うといわれる現在、
 生活保護が窓口を閉ざせば、自殺や餓死につながりかねない。
 行政には、生活保護法の条文に沿った運用が求められる。

 ところで「派遣切り」に遭った人たちを見ていて、
 気になるのは、やはり医療保険の問題だ。
 派遣会社が、前述のような状況では、
 医療保険に加入できているかどうか…心配だ。

 かつて派遣労働者は、条件を満たせば、
 派遣会社の健康保険に加入できたが、
 仕事が途切れると、その都度国民健康保険に
 入り直さねばならなかった。

 そこで2002年に派遣労働者のための健保組合
 「人材派遣健康保険組合」が設立された。

 派遣健保では、同じ人材派遣会社で働く予定がある場合、
 保険の「任意継続」ができる。

 本人が申請すれば、仕事を探している間も継続的に
 健康保険に加入することが可能、という。

 しかし、伝え聞いて「村」に「緊急避難」してきた人たちは、
 今日明日の生活に精一杯で、
 医療保険どころではなかったことだろう。

 先の見えない不況は、国民健康保険をさらに弱体化させ、
 無保険者を増やす。

 今こそ、政治の出番なのだが…。

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31 新病院建設にむけて   日経メディカルブログ 09年2月16日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200902/509452.html

 膠着状態が続いていた佐久総合病院の「基幹医療センター」(計画450床)、
 この新病院建設計画が、ようやく前へ踏み出した。

 かねて佐久病院では、長野県佐久市臼田(うすだ・旧臼田町)の
 本院(821床・1967年竣工)の老朽化が進み、大きな壁に突き当たっていた。

 例えば癌治療の放射線治療機器を導入しても、
 コンクリート壁の遮へいが弱いので、最大15メガ電子ボルトの
 出力が可能なのに、性能を抑えて使わねばならない。

 陽電子断層撮影装置(PET)や磁気共鳴画像装置(MRI)を
 増やしたくても、場所がない。

 MRIは、ひと月先まで予約でいっぱいだ。
 申し訳ないことに、病床の過半数を、時代遅れの6人部屋が占めている。

「農民とともに」を合言葉に地域医療に取り組んできた佐久病院も、
 正直いって「このままではパンク」しそうな状態になった。

 そこで2002年3月、本院に集中している病院機能を分化し、
 新たな土地に専門医療や救命救急医療を担う基幹医療センターを建設する。

 加えて、臼田の現在地には1次、2次医療中心の本院「地域医療センター」
(計画300床)を再整備する、そんな「再構築計画」が立案された。

 これを受けて佐久病院の経営母体であるJA長野厚生連は、
 2005年5月、新病院建設用地として佐久市役所ちかくの
 ツガミ信州工場跡地約4万坪を 24億6800万円で購入した。

 この地はJR小海線沿いの広大な緑地、美しい桜並木で市民に知られている。
 しかし、土地の用途は「工業専用地域」。

 用途変更をしなければ病院を建設できないのだが、
 佐久市は臼田地区の住民の同意が得られていないと、
 用途変更を認めず、建設計画は行き詰っていた。

 昨年の10月、長野県庁が「医療行政上、見過ごせない」と調整に乗り出し、
 知事調停を経て、今年2月7日、ツガミ跡地を基幹医療センターの候補地
 とすることで、土地問題にめどが立った。

 いよいよ新病院建設に向け、佐久病院のわれわれも動きださねばならない。

 新設する基幹医療センターのイメージは、外来は紹介患者、
 入院はICUと一般病床、救急外来は2次から3次救急が主体、
 本院として再整備する地域医療センターには若月俊一紀念館を付設、
 といったところ。

 佐久病院の六十数年の歴史の中でも、これほど大規模な病院機能の分化、
 新設、再整備は初めてだ。

 マスタープランに沿いながら、基幹医療センターが立地する中心市街地の皆さん、
 現在地の臼田の皆さん、そして地元医師会や各医療機関、行政の方々と
「ともに」新しい地域の医療をつくりあげたいと願っている。

 まずは、できるだけ多くの「回路」を通し、地域の住民の方々や福祉・医療、
 行政にかかわる皆さんと、率直な意見交換をしたい。

 医療崩壊が叫ばれる昨今、医師、医療機関もまた地域によって育てられる。

 佐久病院の夏川周介院長は「長野県における研修医教育」と題して、こう述べた。

 …永年にわたり病院はもとより地域全体で研修医を育てる風土づくりに
 腐心してきた。…佐久総合病院を築いた若月は『医療は文化である』と唱え、
 地域医療に文化活動は不可欠な要素として実践してきた。…

 医療文化は、さまざまな「対話」から生まれるのではないだろうか。


○読者の皆様へ

 読者の皆様にお願いです。

 どんな観点からでも結構です。

 新しい病院の立ち上げにかかわったときの経験談、ここが重要、と感じた点。
 また中核病院の新設を受け入れた地元医師会の側からのご意見。

 専門医療や救命救急医療を担う病院と診療所、
 既存の病院がいかに連携しているか、
 など具体的な話をお聞かせくださいますよう。

 地域医療の「再構築」に向け、
 多様なご意見をお寄せいただければ光栄です。

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32 メディカルスクールの可能性  日経メディカル 09年3月9日

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200903/509698.html

 医師不足、医療崩壊を食い止める一策として、
 北米型の「メディカルスクール」に関心が集まっている。

 四病院団体協議会は、四年制大学卒業者(学士)を対象に
 医学教育を提供するメディカルスクール創設の提言をまとめた。

 その報告書によれば、メディカルスクールは、学士の中から
「よき臨床医になりたいという強い意欲」と「一定レベル以上の学力」のある人を
 選抜して4年間の医学教育を行う医師養成機関と位置づけられている。

 すでに米国で126校、カナダには18校あり、
 入学時の学生の平均年齢は23?24歳。
 卒業生は臨床医としての動機付けがなされており、
 コミュニケーション能力に優れると評価されている。

 アジア・オセアニア地域でも、豪州では、医学校の半数以上がすでに
 メディカルスクール化しており、韓国は数年以内に全医学部が
 メディカルスクールになるという。

 日本でも、ようやく社会経験を積んだ人が
 医師になる道筋が議論されるようになった。
 むしろ遅すぎるくらいだと思う。

 しかし、厚生労働省の中からは「医学部への学士編入制度の導入で
 優れた臨床医が育成されているという評価は得られていない」
「医師養成課程がダブルスタンダードになり、医師の質に差が生じる」
「養成数が、恒常的に増加する」といったマイナス面を指摘する声も聞こえてくる。

 保守的な、官庁らしい反応だが、反対論者の心の中には
「どんな学生が入ってくるか分からない」ことへの不安があるのではないか。

 山の村で診療所長を務めていたころ、
 毎年、多くの医学生や看護学生が「実習」にやってきた。

 その中には、メディカルスクールを先取りするかのように、
 社会人を経て医師への道を選んだ変り種も少なくなかった。

 例えばある男子学生は、数年間、
 東京で大手都市銀行の銀行員として働いた後、
 地方の国立大学医学部に入り直した。

 彼は、転身の理由をこう語ってくれた。

「お金は命の次に大事だって聞いていました。
 その大事なものを、銀行員として預かっている手ごたえは十分にあったけれど、
 しょせんお金はお金です。僕が預かるのと、別の銀行員が預かるのは同じです。

 交換可能な歯車のような個を超えて『かけがえのないこの人』
 という関係を探りたかったんです。

 もっと顔の見える関係を大事にできるかもしれないと思って、
 医学部に入りました」

 彼はその後、医学部を卒業して、いい臨床医になっている。

 ある女子学生は、関西の国立大学文学部を卒業した後、
 しばらく東京で働いてから、地方の国立大学医学部に再入学した。

 彼女は言った。

「文学部の学生だったころ、加藤周一先生の著作をずいぶん読みました。
 加藤先生は、もともと内科学、血液学専攻の医師ですよね。
 その先生が文学を志し、医療から文明批評へと活躍の場を移された。
 ずいぶん迷ったのですが、私は、逆に文学から医学へ入ってみようと……。

 結局、医学部に来たけれど、なんか世間が狭くって、ちょっと残念でしたね。
 18歳で高校を卒業してからずっと九州の親元を離れているし、
 少しは親の気持ちが分かってきたから、医師免許をもらったら、
 親のそばで研修をしようかと思っています」

 社会経験を積んだ学生たちは、皆、それぞれ「じぶんの考え」を持っている。
 多少なりとも世間でもまれており、人を見る目を、それなりに身につけている。

 メディカルスクールが発足すれば、彼らに「臨床医のあり方」を教える側が
 試されるのではないか。

 医者も世間を広くしておいた方がいいのかもしれない。

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33 地域再生の希望は「医療を核とした街づくり」にあり

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200903/510025.html

日経メディカルブログ  色平哲郎  09年3月30日

 最近、医療・福祉を核とした地域づくりの声が、徐々に高まっている。

 先日も、癌治療で知られる順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏が、
「医師の目−日本にメディカルタウンを」と題した文章を書いていた
(3月22日付日本経済新聞)。

 樋野教授らは、順天堂大学をはじめとした多くの医療機関が集積する街区
「お茶の水」を、開放型の病院を中心にした街にしよう、と提唱している。

「体にハンディを持つ人でも安心して歩けるよう駅や道路に配慮が施された街。
 患者の視点に立った設備を備えたホテルや健康食を出すレストラン、
 様々な病気の本が手に入る書店がある街――。そんなイメージである」という。
 既に「お茶の水メディカルタウン研究会」が動き始めているそうだ。

 実は、佐久総合病院は、病院を核とした街づくりに20年越しで取り組んできた。
 しかし、その実現は口で言うほどたやすいことではなく、
 佐久総合病院もいまだその途上にある。 


 佐久病院前院長である清水茂文医師が2002年に記した
「ともに造ろう、いのちと暮らし―佐久総合病院再構築計画(素案)」を
 参考に、佐久病院の取り組みの歴史をご紹介したい。

「病院を核とした街づくり」は、1988年に医師で医学史研究者・医事評論家の
 川上武先生が提唱された「メディコ・ポリス構想」が、その起点である。
 この構想は農村の過疎高齢化を逆手に取った地域再生策であり、
 医療・福祉を新しい地域産業論の視点から展開したものだった。

「メディコ・ポリス構想」は、

(1)医療・福祉施設の完備
(2)教育施設の充実
(3)生計を確保するための地域産業の振興

 という3つのテーマで構成されている。 

(1)はともかく、(2)、(3)については周囲の理解が得られにくかった。

 一般に、医療や福祉、教育を「非生産的」と考え、他産業とのつながりを含めて
「社会的基盤」として整備する認識が欠けていたからのようだ。

 しかしながら、佐久病院なりのモデルをつくろう、と90年代前半から
 南佐久地域で特養老人ホームや老人保健施設の新設、分院の移転などを行った。
 自治体やJA(農協)、社会福祉協議会などと連携したこれらの事業は、
 医療・福祉サービスの向上とともに「雇用創出」という大きな成果が得られた。

 その自信を糧に佐久病院は、「病院再構築計画」に同構想を最大限に生かそうと、
 本院の地元・臼田町と協働で病院を核とした街づくりを本格化させようとした。

 90年代後半には通産省(当時)が力を入れる「中心市街地活性化事業」と
 組み合わせた基本構想が描かれた。

 国道を挟んだ広い街区で大胆な区画整理を行い、本院を再建するに足る
 十分なスペースが準備される、と期待された。

 だが…99年3月、佐久病院の基本構想プロジェクトが「現状地再構築」を
 打ち出すと、完全な中休み状態に入ってしまった。

 いつの間にか、「街づくりをどうするか」から「病院の場所をどこにするか」へと、
 議論が収縮してしまったのだ。

 街づくりの構想を実現する主体は、基本的には自治体であり、
 病院が主体となるのは難しい。

 詳しくは次回、このあたりについてお話したい。
 21世紀、地域再生の希望は「医療・福祉を核とした街づくり」にあるといえようか
。

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34 129番通報、韓国で、信州で  日経メディカル 09年4月20日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200904/510298.html

 世界同時不況が長期化、深刻化して恐慌化しつつある。
 格差がもたらす貧困や生活の破綻に対して、従来の枠組にとらわれず、
 なんとか手を差し伸べようとする動きが活発化している。
 今回は、そんな国内外の例をご紹介したい。

 まず、韓国政府が、自国民だけでなく、在韓外国人にも行っている
 「保健福祉コールセンター129番」。 http://www.129.go.kr/japan/

 韓国内で局番なしに129番に電話をかけると、
 専門職員が、基礎生活保障や年金などの所得保障から、
 障害者福祉、保育・教育問題、
 ガン患者支援や予防接種などの医療分野、さらに幼児虐待や自殺、
 薬物中毒などの緊急支援などの相談にのるという制度だ。
 急を要する緊急支援については、1年365日、24時間体制で
 相談に応じているという。

 実際に129番で、どんな相談が行われているかは、まだ伝わってこないのだが、
 国を挙げて社会福祉全体を視野に入れた
 緊急コールセンターを設けたことは、大きな一歩だろう。

 そんな韓国の国家的な取組みと好対照なのが、日本の草の根支援活動。
 市民団体「山谷(やま)農場」を主宰する藤田寛さんは、
『信濃のフードバンク』という路上生活者への支援活動を一人で10年間続けてきた。

 信州で余った農産物を無償で譲り受け、
 東京や広島で行われる路上生活者の炊き出しへ送り届ける。

 当初は信州佐久の地元の人の共感を得るのに苦労した。
「貧困なんてアフリカの話だろう。
 新宿で昼間から酒を飲む連中と貧困を結びつけるのはおかしい」
 と言われたこともあるという。

 しかし、地道に10年続けているうちに年間10トンもの
 コメが寄せられるようになった。
 信州は食べ物の供給源となった。

 ところが、「派遣切り」が拡がるにつれて、
 信州内にも食糧支援を求める現場が生まれたのだった。

 雇用契約の解除や期間満了で失業した日系ブラジル人など
 外国籍県民の困窮ぶりは深刻の度合いを増している。

 今年の2月から、藤田さんは、
『上伊那医療生協SOSネットワーク』に食糧を届け始めた。
 これまでにコメは約3トン届けたが、配給を求める人は多く、
 民間による支援の限界を痛感しているという。

 藤田さんは、こう語る。

「外国籍住民のなかには、
『日本での定住を決めました、日本で生きていくのです』
 という人が多いのに驚いています。

 上伊那SOSネットワークが調査したところでは、
 外国籍住民331世帯のうち121世帯が『帰りたくない』と答えたそうです。

 日本の土になると言ってくれた人たちに対して、地域社会は冷淡です。
 それで、とても悩んでいます」

 世界不況下、さまざまな「連帯経済」や「共生経済」に取り組むことの意義が、
 ますます重要になってきているのではないか。

『信濃のフードバンク』は、食べ物を求めています。以下、食べ物の募集について記し
ます。

<募集品目>

・長期保存ができる缶詰やレトルト食品

・赤ちゃんの紙おむつ、粉ミルク

<送付先>

〒384-1302 長野県南佐久郡南牧村大字海ノ口966-15 南牧村社会福祉協議会気付 山
谷農場

<重要確認事項>

・募集品目以外の生鮮品、賞味期限切れ食品、衣類などの送付はご遠慮ください。

・送料着払いによる送付は、ご遠慮ください。

・配達票に「木曜・午後」の日付と配達時間帯をお入れください。

・匿名での送付をご希望の際は、「送り主(荷送人)欄」に「山谷農場」とご記入くだ
さい。

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