日経メディカル ブログ 色平哲郎の「医のふるさと」 17〜22

ブログの紹介  今の医療はどこかおかしい。
制度と慣行に振り回され、大事な何かがなおざりにされている。
そもそも医療とは何か? 医者とはなんなのか? 
世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、
10年以上にわたって地域医療を実践する異色の医者が、
信州の奥山から「医の原点」を問いかける。

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17 100人の頭にひとつの良いアイデア   08年5月12日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200805/506414.html

 農山村で医療に従事していると、医療や福祉の問題ともに
 農林業の将来が気になってしかたない。

 戦後、農作物や林産品を単なる商品としてしか扱わない
 諸政策によって集落は崩れ、山林や水田の保水力の衰えとともに
「限界自治体」ばかりとなって、国土は荒れる一方だ。

 食糧自給率は4割を切り、農林水産省は、WTO(世界貿易機構)に対して
 農産物輸出国の輸出禁止措置を規制するよう求めるそうだが、
 受け入れられる可能性はゼロに等しい。

 外電は「日本で飢餓が始まった」と報道している。

 先日、長野県農業大学校の吉田太郎教授の論文を読んだ。
 南米の極貧国グァテマラで1970年代初頭に「人間中心の開発」が
 誕生した、その背景を論じた文章である。

 内容を要約する。

 ――発端は72年に米国の開発NGOワールド・ネイバーが
 農業改革支援プロジェクトを手がけたことに始まる。
 ネイバーはベテランの農業普及員マルコス氏を雇い、
 等高線に沿って畑に溝を切って土の流失を防ぎ、
 堆肥で土壌改善する方法を現地の先住民たちに教えようとした。

 ところが、マルコス氏は先住民の言葉が話せず、
 先住民もヨソ者には排他的な態度で接する。
 実験的な農法改革に同意したのはごくわずかだった。

 にもかかわらず、土壌保全と堆肥だけで
 目に見えて成果が上がった。
 1〜2年で収穫量は2倍、3倍になる。
 小さなごく一部の畑での実験が成功したのを見た農民は熱狂し、
 同じ方法を仲間に広げていった。

 村ではマルコス氏とともにワークショップが開かれ、
「実践」が重んじられた。

 マルコス氏いわく。

「ひとりの頭に100のアイデアがあるより、
 100人の頭にひとつの良いアイデアがあるほうがよいのです」――。

 100人の頭にひとつの良いアイデア…
 この言葉は含蓄に富んでいる。

 われわれはとかく、ひとりの頭に100のアイデアを詰め込み、
 順次100人の頭に普及させようとする。

 しかし、共同で何らかの社会的資産を守ったり、
 開発したりするには100×100=1万通りのアイデアで臨むよりも、
 まずはひとつかふたつの本質的な実践でぶつかる方が得策だというのだ。

 これを激動する現代日本医療に置き換えてみると
「国民皆保険」という「ひとつの良いアイデア」に行きつく。

 マルコス氏は、こうも言っている。

「25〜40%の閾値で、コミュニティー内で
 住民が新しいことに取り組めば、それは数年を経ずして
 普及、定着する。住民が新しい挑戦をするには
 収益が上がらねばならず、それにも閾値があり、
 70%程度の所得増が必要だ。

 しかし150%以上の所得を一部の農民だけが上げると、
 周囲からのやっかみを勝って、結局、その農法は普及しない。
 補助金などのバックがなくなると時間とともに消えてしまう。

 したがって、”地域を変える”には7割程度の収入増に
 つながるひとつかふたつの画期的新技術を小さな畑で実験し、
 まず住民の4分の1程度が試みるようハッパをかけるべき。

 新技術の導入で自信をつけたコミュニティーは、結果として、
 自力で100のアイデアに取り組むことも可能となる」

 この考え方は、医師教育にも当てはまるような気がする。

 問題は7割の所得増に匹敵する手ごたえ達成感を、
 誰がどう授けるか…。

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18 医療事故    08年5月26日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/200805/506562.html

佐久総合病院の同僚が、「くも膜下出血を肩こりによる頭痛と誤診し、
患者の女性(55)を死亡させた」として「業務上過失致死」の疑いで書類送検された
。

南佐久署の調べ、つまり警察発表では、「頭痛の症状があった女性や付き添いの夫が
くも膜下出血の可能性を訴えたが、コンピューター断層撮影(CT)による
適切な検査や早急な治療を怠り、女性をくも膜下出血で05年1月に死亡させた疑い」
(朝日新聞08年5月14日・長野県版)とされている。


医師として、患者さんのご冥福を心よりお祈りする。

同時に、同じ病院に勤める職員のひとりとして、ご遺族へお詫びする気もちで一杯だ。

今後、起訴、不起訴、略式命令……どのような結果になるか、捜査の行方を静かに見守
りたい。

この事故に関するコメントは差し控える。


ただ、医療事故一般について私見を少々述べておきたい。

02年8月、名古屋大学付属病院で、潰瘍性大腸炎の治療として行われた
内視鏡手術で成人男性を死に至らしめる事故が起きた。

名大病院・医療事故調査委員会は、患者さんが亡くなってから
数ヵ月後に「調査報告書」を一般公開した。

そこには手術中の経過が詳述され、どこで執刀医が内視鏡を導くトロッカーを挿入し、
どのようにミスに至ったのかが克明に記されていた。

医療事故に詳しい外部からの弁護士も加わった調査委員会、
委員たちが「事実関係」を徹底的に明らかにしようとする執念が伝わってきた。

が、それ以上に心に残ったのは調査委員会が掲げた方針、
「逃げない」「隠さない」「ごまかさない」である。

かつて医療事故を起こした病院関係者が事実を糊塗する態度をとってきたことへの
反省を最大限にこめた方針だった。

日本の医療事故史における医師側(業界側)の「原罪」は重い。

患者側(社会側)の不信は深い。

そのことを率直に認めよう。


では、「逃げない」「隠さない」「ごまかさない」を前提にして、今後、
医療ミスが起こらないようにするには何から、どう手をつけていけばいいのか。

医療事故を調査する「第三者機関」の設置がさかんに議論されている。

しかし事故の原因究明が法的責任追求をベースとした対立構造のなかで
行われる限り、加害―被害という関係の絶対性は乗り越え難いものだろう。


地方の医療現場、特に中小病院では医師不足から「医療崩壊」が進んでいる。

救急医療は、例えていえば冬山で遭難した人の救助活動に似ているのではないか。

SOSが入り、救急車で搬送されてきた患者さんを何とか助け上げようとする。

だが、体制が整っていなかったり、ヘリから展望しても「視界不良」だったりして救助
しきれないことがある。

検査してもその時点ではクリアーな判断に至らず、「後医は名医」とのつらい結末にな
ることもあった。


医師は、看護師は、患者さんを助けたいと願って仕事をしている。

「注意義務を尽くして診療した医者」と、 不注意で交通事故を起こし、
見ず知らずの被害者を死に至らしめるのとは根本的に違うのだ。

完璧な人間は、この世に存在しない。

不完全な人間が互いの足りない部分を補い合いながら、続発する出来事を大事に至る前
に防ごうとする。

医療は試行錯誤で積み重ねられてゆく。

そして医師は「地域」によって育てられる。

そこでの社会的コンセンサスをいかに築くか。

他罰的な「空気」が巻きおこって、起訴へ、重罰化へ、と流れるようだと、
医師は日々「被告人」として診療することにならざるを得ない。

メディアが果たす役割と社会的責任は重大だ。

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19 メディコ・ポリス構想 6月9日 日経メディカルブログ 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/200806/506741.html

 今から20年前の1988年、佐久総合病院の若月俊一院長(当時)は
「メディコ・ポリス」なる概念を提起した。

 メディコとはひろく医学・医療を、ポリスとは
 都市(自治空間)を意味する。

 テクノ・ポリスは、企業誘致による地域づくりだが、
 メディコ・ポリスは保健・医療・福祉を軸とした、
 自律的な地域自治共同体である。

 それまで医療・福祉への投資は生産性がなく、
「捨て金」との意識が蔓延していた。
 この構想は、この旧来的感覚に変革を迫るものだった。

 メティコ・ポリス構想の基本的条件は、
 まず医療・福祉システムの整備。
 次に教育研究施設の充実。
 三つ目が住民の生計を確保できる産業の振興だ。

 それぞれの条件が相互に連関を保ち、
 たとえば医療・福祉と商業が、
 そして運輸やリゾート業ともつながり、
 協力して発展していく構想である。

 もっとも重要なことは、若者の安定した雇用をつくること。
 換言すれば、高齢者と若者を対象とした、新しい形の
「公共事業」の創設ともいえるだろう。

 元滋賀大学学長で経済学者の宮本憲一教授も
 この構想に注目し、佐久地域の三つの町村を調査した。
 地域の「内発的発展」や地域財政論の視点から
 この構想の有効性を検証し、実証し得た。

 宮本教授の研究によれば、佐久病院の地元、
 臼田(うすだ)地区の産業構造は、建設業19.6%、
 医療・保健が18.5%と推計されている。
 ちなみに農業は8.3%、商業は6.0%。

 首都圏で生活する人びとが「信州」という
 言葉から抱くイメージよりも、農業の寄与が
 はるかに少ないのではないか。

 一方、建設(つまり公共事業の請負)と
 医療・保健従事者がいかに多いか。

 しかし現今、旧来的な公共事業は大幅に
 予算カットされ、地方では「次の糧道」が
 求められている。

 かねて佐久病院は地元向けに、
「病院を核とした町づくり構想」を提案してきた。

 提案の第一は、町ぐるみの「福祉の里」づくり。
 病院の周辺にさまざまな福祉施設を配備し、
 医療との連携をはかり、障がい者が自由に利用できる
 施設(歩道、商店、低床バス、公園など)を造る。
「バリアフリー」で、「社会的排除のない」地域づくりだ。

 教育施設としては医療看護福祉大や医療技術大を誘致、
 福祉用具の開発研究にも取り組む。

 第二は、都市と運携した「健康な町づくり」。
 都市住民に人気の高い休養と緑を生かしたレクリエーションや
 付加価値ある「人間ドック」などを提供する。

 第三は、商店街と一体となった町づくり。
 駐車場と商店街を一体化して病院とつなぎ、
 それぞれを何らかの方法で連結することで
 患者さんや家族の利便性を向上させることが
 求められている。

 既に佐久病院関連の医療福祉複合体は、
 南佐久地域のなかで多くの雇用を生み出している。

 メディコ・ポリス構想は、いまや佐久地域独特のものを超え、
 全国に普遍性のあるテーマではないだろうか。

 実現するためには、関係諸団体の間に「地域づくりへの貢献」を
 合い言葉にしたより一層の有機的連携が求められる。

 人と人とのつながりを「再構築」し、もう一度、
 協同組合の原点を取り戻していくことが
 大切なのではなかろうか。

 故・若月名誉総長のこの考え方は、
『農村医学からメディコ・ポリス構想へ』(川上武/小坂富美子著)に
 詳しく紹介されている。


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20 「医者のことば」と「翻訳作業」  08年6月23日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200806/506956.html


社会が「医療事故」に適切に対処しようとすれば、
「厳罰化」による医療萎縮が進み、さらなる「医療崩壊」へ…?
そんな加速的破局を食い止めるにはどんな方法があるのだろうか。

「イギリスにおける診療関連死への警察介入のガイドライン」について
関根利蔵氏(葛西循環器脳神経外科病院・内科)が次のように書いている。

///
イギリスにおける予期せぬ診療関連死への警察の介入は、
日本のように一方的に警察が資料の全てを押収して検察に送検して、
検察が独自の医学判断をして刑事事件化するシステムとは
根本的に違っています。

まず始めに、医療機関であるNational Health Service (NHS)、
警察当局Association of Chief Police Officers、
医療安全システムの政府部局Health and Safety Executive(HSE)
の3者が話し合いをして、調査していきます。

その際に、複数の臨床の専門医と医療安全の専門家が
必ず調査チームに加わります。このチームは個々の事例ごとに
召集されるので、参加するメンバーも違ってきます。

そして、警察の介入の検討を要する症例とは、ガイドラインの文言を引用すると、

*evidence or suspicion that the actions leading to harm were intended
(意図的に障害を起こす診療行為をした証拠あるいは疑いがあるもの)

*evidence or suspicion that adverse consequences were intended
(意図的に有害な結果を起こした証拠あるいは疑いがあるもの)

*evidence or suspicion of gross negligence and/or recklessness
in a serious safety incident, including as a result of failure
to follow safe practice or procedure or protocols.
(安全な診療手技やプロトコールに従わなかった結果、重大な事故につながった
怠慢あるいは無謀な治療である証拠あるいは疑いがあるもの)
///

先進諸国の中で故意や悪意がなく、注意義務を尽くした上での
診療による有害事象、死亡や重大な合併症に対して医療従事者を
刑事告発するのは日本だけだと聞く。

自分が、あるいは愛する家族が医師の診療の結果重大な後遺症が残ったり、
亡くなったりしたとき、人情として医師や病院を罰してほしいと
願う気持ちは痛いほど分かる。

が、その一方で、その医師がまた多くの人びとから頼られ、生命を救おうと
日々取り組んでいることも事実である。

しかし、この紛れもない事実を「医者のことば」を介して不幸な転帰に陥った
患者さん側に伝えようとしても拒絶されるばかりなのだ。

どのようにすれば、この大きなギャップを埋められるというのだろうか。

キーワードは「公共性」であるといえようか。

マスメディアは、専門的な「医者のことば」を「世間のことば」に置き換えて
一般に伝えているように見えるのだが、その実「メディアのことば」による
報道がなされている。

「医者のことば」はメディアの「解釈」によって、さまざまな形に変容される。
「世間のことば」を語る側は、それをあるときは後押しし、あるときは
フザケルナ!と怒りをぶつけてくる。

IT化で草の根メディアが多数存在するようになった現在、
いわゆる大手マスメディアへの風当たりはかなり激しくなってきている。

これが価値観の多様化による健全な批評精神の涵養に向かうのか、
感情論への傾斜となるかは、紙一重であろう。

要するに「公共性」の名の下に全員誰もが共有できるイメージが、
拡散してきてしまっているのである。

「公共性」とは何か。

これを語り合う「場」、すなわち多様な意見を媒介(メディア)できる環境、
そんな新たな公共空間の創造が求められている。

「世間のことば」と「メディアのことば」、加えて医療水準論など「司法のことば」と
の間で互いの「正論」を同時通訳する「翻訳作業」はなまやさしいことではなかろう。

「医者のことば」をしゃべる側に、場づくり、市民参加の雰囲気づくり、議論のプロセ
スを重んじる姿勢がいっそう必要となるのもいうまでもないことだろう。



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21 1995年、患者医師関係の大転換   日経メディカルブログ 08年7月14日

http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/blog/irohira/200807/507238.html

時の流れには、必ず転換点がある。

 昨今の医療過誤への司法の厳しい対応は、医療側の
 パターナリズムに対する世間の憤りを反映している。

「白い巨塔」への「法の支配」からの揺さぶりであって、
 真摯に受け止めねばなるまい。

 ただ、具体的に見ていくと司法側の変化にも転換点があった。

 それは1995年のある判決にはじまった。

 医療過誤が刑事事件として立件される場合、
 多くは「業務上過失致死傷罪」が適用される。

 刑法211条には、「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者」は、
「5年以下の懲役もしくは禁錮又は100万円以下の罰金」と刑罰が定められている。

 もともと、業務でクルマを運転する者が、危険が潜む行為に携わっている
 にもかかわらず、注意を怠って人を死傷させたときなどに、
 この条文が適用されてきた。

 それが疾病や外傷という「既に存在する危険」を少しでも減らそうと
 取り組む医療者に拡大適用されるようになってしまった。

 直接的原因は、医師法21条による病院の異状死届出や患者家族による
 刑事告訴が増加したこと。

 この二つの圧力で2000年前後から医療過誤の刑事事件としての立件数が
 ぐっと増えた。

 その背景には、法が医療過誤か否かを判断する際に参照する「医療水準」
 についてのとらえ方を、95年、司法自身が大転換させた事実がある。

 最高裁は、1961年の「東大輸血梅毒事件」で「医療水準」を「危険防止
 のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」と判示した。

 そして、82年の「高山日赤未熟児網膜症事件」と「新小倉病院未熟児網膜症事件」
 の二つの判決で「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」
 と具体的に定式化した。

 医療の専門性を重視した考え方と言えるだろう。
 それが、95年を境に大きく変わった。

 医療法務弁護士グループ代表・井上清成弁護士は、次のように記している。

『……最高裁は平成7年6月9日判決(姫路日赤未熟児網膜症事件)で、
 実質的な判断基準の変更を行った。

 それは「診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準」
 という定式への変更である。

 あえて誇張してわかりやすくいえば、「(患者の期待に基づく)診療契約に基づき、
(患者の期待に基づき)医療機関に要求される医療水準」としてもよいかもしれない。

 つまり、客観的な医学としての水準から、主観的な契約としての水準に
 変わってしまったとも評しえよう』
(「日本医事新報」4387 2008年5月24日号)

 いつの間にか、医師と患者の相対関係に「(患者の期待による)契約」という、
 全く予想もつかなかった概念が持ち込まれていた。

 患者の期待にすべて応えねばならないとすれば、
 医師は最終的には不老不死を実現しなければなるまい。

 この95年の最高裁判決をきっかけに医師の責任を
 厳しく問う判決が、次々と出されている。

 医療契約は「請負契約」ではあり得ない。

 完璧に仕上げて退院することを期待する、という「事前期待度」
 が国民の間に広がれば、医師はお手上げである。

「人の死亡率」が100%である以上、医療契約は所詮「準委任契約」
 たらざるを得ないと言えようか。

 業務上過失致死傷罪の拡大適用は、医療の萎縮や自粛という
 新たなリスクを生み、公的医療制度を蝕む。

「悪質な医療者」を断罪することは必要なことだろう。

 が、何をもって悪質かを判断する基準は、もっと慎重かつオープンな
 議論の中で定められなければならないのではないか。

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22 若月忌に日本農業を思ふ  08年8月4日

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200808/507414.html

 佐久総合病院の若月俊一名誉総長が亡くなって、もうすぐ2年が経つ。
 2006年8月22日午前3時、危篤状態の若月先生はご家族と病院関係者十数名に
 見守られて眠るように息を引き取られた。

 1945年、若月先生が佐久病院に赴任した当時、ベッド数は20床、
 木造の施設には入院患者もいなかった。

 それから若月先生は職員の先頭に立って、「農民とともに」を合言葉に地域で
 出張診療をくり返し、予防と健康管理の大切さを訴えながら病院の近代化を図り、
 人口1万数千人の臼田町に1000床を超える病院をつくりあげた。

 これは「現代の奇跡」といわれたものだが、若月先生自身は
「よい病院というのは、必ずしも病床数が多いとか、高度機能を備えていること
 とは関係ない。地域住民のニーズにどのように応えているかで決まる」
 と繰り返し語っていた。

 農民に大都市並の医療を、という若月イズムは現在も佐久病院の
 職員たちに受け継がれている。

 そして今年の三回忌には、WHO(世界保健機構)医務官の
 スマナ・バルア博士をはじめ外交官やジャーナリストら多くの友人が
 若月先生を偲んで臼田に集まる予定だ。

 だが、佐久病院が若月イズムを継承する一方で、当の「農民」が「自由貿易」
 という名の破壊的大波をかぶっている。

 日本政府は、農産物輸出大国から農業の重要品目の関税引き下げを迫られ、
 ずるずると後退するばかり。

 現在39%の食糧自給率はさらに低下し、日本から農業が消えかねない危機に
 直面しているのである。

 7月29日、自由貿易の推進機関・WTO(世界貿易機構)の多角的貿易交渉
(ドーハ・ラウンド)の閣僚会合は、大々的に農産物輸出を行いたい合衆国と、
 輸入急増に対して「特別緊急輸入制限(セーフガード)措置」を発動したい
 インド・中国との溝が埋まらず、決裂した。

 会合に参加していた若林正俊農林水産大臣は、内心ホッと
 胸をなでおろしたことだろう。

 今回のラウンドでは農業と鉱工業分野の自由化が中心テーマだった。
 日本政府は鉱工業分野で「得する」ので農業では「譲る」かたちで
 合衆国を支持していた。

 しかし、もし今回のラウンドで重要品目の関税が引き下げられていたら、
 農家は壊滅的打撃を受けていたことだろう。

 交渉決裂でどうにか首の皮がつながった…
 とはいえ、2〜3年後にはまたWTOで農業分野の自由化が議題に上がるだろう。
 厳しい状況には変わりない。

 例えばオーストラリアは2国間のFTA(自由貿易協定)を柱とするEPA
 (経済連携協定)交渉で、牛肉・乳製品・小麦・砂糖の4品目の関税撤廃を
 求めてきている。

 仮にこれらの関税が撤廃されれば、日本の食糧自給率は30%を切るのではないか、
 といわれている。
 巷には失業者が溢れ、社会不安はいっそう募るだろう。

 古来、人間は自分の食料は自分で作り、確保してきた。
 人間の集団が生存するための必要条件だ。

 超大国の大統領は、国内向け演説で「食糧自給率が40%の国(日本)があるが、
 そんな恐ろしいことは考えられますか」と自国民には訴えている。
 自国の自給率は維持した上で他国の農業は破壊してもよしとする
 このG.W.ブッシュ氏に倫理を求めても仕方がない。

 都会で暮らす人々も、農業の大切さに目覚めてほしい。
 農業は食の安全保障であると同時に国土、自然環境を維持するうえでも
 重要な役割を担っているのだ。

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