日経メディカル ブログ 色平哲郎の「医のふるさと」 9〜16

ブログの紹介  今の医療はどこかおかしい。
制度と慣行に振り回され、大事な何かがなおざりにされている。
そもそも医療とは何か? 医者とはなんなのか? 
世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、
10年以上にわたって地域医療を実践する異色の医者が、
信州の奥山から「医の原点」を問いかける。

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9 「病院給食」 08年1月21日

国民皆保険が達成されて半世紀ちかくが経とうとしている。
皆保険はごく当り前の、空気のような存在になってしまっている。
混合診療の全面解禁論の高まりなど、その先行きには不安感がつきまとうが、
まだまだ大丈夫と楽観視する人が多い。
ほんとうに大丈夫なのだろうか。

「危機」は、誰にでも分かる明らかな予兆があって、段階的に深化し、
臨界点を超えて襲いかかってくる、といった類のものではない。
予測しにくいのである。
ある日、おやっとクビをひねっていると危機はいきなり到来し、大混乱が生じる。
村のお年寄りは、よくこう言う。

「戦争なんて、誰も、やるはずないと思ってただよ。
ところが、気がつけば、始まってただ。
いつの間にか赤紙が舞い込むようになって、
バンザイ、バンザイで兵隊が送り出されていった」

皆保険制度は、もう危機の真っ只中なのかもしれない。

佐久地方には「医者どろぼう」という言葉がある。
医療保険が無かった時代、村人が医者にかかればごっそりと診察料を取られた。
現金収入の乏しい村人は、医者に診察してもらえば「どろぼう」に
入られるようなものと覚悟を決めて往診を頼んだ。
その悔しさがにじむ言葉だ。

あるいは診察を受けることを「医者をあげる」とも村では言ったそうだ。
お大尽でなければ医療費を払えなかったからだ。
カネの切れ目が命の切れ目。
戦後の佐久病院の歩みは、こうした前近代性との闘いの連続だった。

「農民とともに」をスローガンに掲げる佐久病院は、
地域の「貧しさ」を人と人のつながりでカバーしてきた。

戦後間もない1947年、都市が廃墟と化し、食糧と物資の不足
にあえいでいた頃、佐久病院は「病院給食」を実施している。
都会では医者でも闇市で食糧を手に入れていた時代である。
当時、手術を行う多くの病院では、患者の栄養状態が悪いために傷がふさがらず、
回復が遅れて困っていた。
栄養不足の解消は重大なテーマであったが、それに応えられる病院は少なかった。

佐久病院で、こんなに早い時期に給食が実現したのは、
農民との連携があればこそだった。
医師や看護師たちは、出張診療や衛生講話で頻繁に村々に足を運んでいた。
薬も満足にない状態では、村人の生活習慣の改善が一番だった。
病院職員が結成した劇団が演劇を演じ、健康管理の大切さを説く。
楽しみながら学べるとあって農民と医師の顔と顔のつながりができた。
それが「あの先生の病院が困っているなら、おらたちも一肌脱ぐか」となった。
当時の給食担当者は座談会でこう述べている。

「ともかく(入院患者に)コメの飯を食わせて、本当の味噌汁を出し、
若干の野沢菜の漬物や油でいためたものなんかをつけて出しました。
その頃の集荷先は、旧切原村や田口村だけど、
価格も特に安くやってくれたわけです」。
今日でいう「地産地消(地元で生産した食材を地元で消費する)」の発想が、
戦後の栄養不良という緊急事態を救ったといえようか。

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10 ドミノ式の救急崩壊が佐久にも……  08年1月28日

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200801/505376.html

私は農協職員である。
勤務先のJA長野厚生連佐久総合病院(夏川周介院長)は、
60数年にわたって長野県の東信地域で「最後の砦」を任じてきた。
「農民とともに」をスローガンに農村医学、地域医療を切り拓いた
若月俊一名誉総長の志を継ぎ、「来た患者は断らない」を実践してきた。
ドクターヘリの救急ヘリポートをもつ救命救急センター、
世界トップクラスの診断治療水準を有する消化器内視鏡チームもいる。

約200名の医師のうち、本院地域医療部の総合診療科で研修する
80名ほどの研修医たちが救急医療の大きな戦力として日夜奮闘している。
ところが、昨年末から今年にかけて、急患が押し寄せ、
院内が限界状況に達しつつある。
周辺の医療機関が機能不全に陥り、各科勤務医が不足したりして
入院や手術を引き受けられず、「最後の砦」の佐久病院に次から次へ
と急患が運び込まれるからだ。

たとえば、上田市の公的病院は、複数麻酔医の体制が崩れ、
夜間なりの緊急手術がままならなくなった。
近隣からも夜間救急は佐久病院に転送される。
医療破綻による圧力が、ドミノ式に拡がり、
「最後の砦」をも突き崩しかねない勢いなのだ。

ちなみに1月18日朝の時点で入院患者は634人。
国が定めた一般病床624床をオーバーし、「法令違反」の状態である。
救命救急センターの重症患者用ベッド20床のうち、空きは2つだけ。
ヘリによる長野県全域からの受け入れを考えれば、最低、
5つは空けておきたいところなのだが……。
ベッドが足りないので、経過観察が求められる患者も処置後に
帰宅させざるをえないケースが次々と出てくる。
綱渡りである。

佐久地方、特にその南部の地域医療は、佐久病院本院とその傘下のふたつの分院、
へき地に位置する診療所が二重、三重にカバーしあう体制で守られてきた。
診療所の訪問診療が機能してきたのも、家族や近隣どうし「お互いさま」
で患者を見守る習慣が辛うじて残っていること、そして、
いざとなれば本院に運べるという「安心感」が支えになってきたからなのだ。

しかし、その「最後の砦」が医師不足の大波で崩されかねない状況になった。
先日、夏川院長は県内メディアを呼んで緊急会見を開き、
「現場は限界。もはや佐久も救急難民と無縁ではないこと
を住民にも知っていただきたい」とコメントした。

JA長野厚生連は、すでに救命救急や高度医療に特化した「基幹医療センター」
を建設するための用地約4万坪を佐久市役所ちかくに確保している。
だが、市側はその用地が「工業専用地域」であることなどから、
基幹医療センター建設を含む佐久病院の再構築計画に難色を示す。

JAが三十数年前に提起した「農村医科大学」構想、そして川上武氏による
「メディコ・ポリス」構想らをふまえ、佐久病院、いや東信地域の医療のあり方を、
より多くの「住民とともに」考え、決断しなければならない段階に至ったようだ。

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11 タイの外国人専用病院に驚く 08年2月11日

昨年末から年始にかけて十数年ぶりにバングラデシュ、
そしてタイ、ラオスを訪ねた。
かつて「戦場」だった地域が急激に「工場」、そして「市場」へと
変貌している様を目の当たりにした。

バングラデシュ、人々は相変わらず貧しく、ハリケーン被害の爪跡も
痛々しかったが、人々の発散するエネルギーはもの凄かった。
市場化の大波が押し寄せていたのはタイ。

大河の対岸、ラオス領のフェイサイから世界遺産の古都ルアンプラバン
までメコン川を約200キロ、6時間かけて船で下った。
メコン下りの途上、岸辺のスロープではゾウの群れが木材を運ぶ。
ラオスでは、メコン南岸のタイ通貨「バーツ」がそのまま通用した。

首都バンコクの富裕層と貧困層の格差はとめどもなく広がっている。
日本でみたこともないような、そんな新築の豪華デパートに着飾った買い物客が溢れて
いた。

かつて日本の団体客が埋めつくした目抜き通りに、中国語とハングルが響きわたる。
日本の経済的地位は確実に下がっている。
「外」に出るとよくわかる。

バンコクの外国人専用病院には驚かされた。
なかでも「バムルンラード・インターナショナル」は、
超豪華ホテルと見紛うつくりで、各国語別の診療通訳窓口がずらりと並ぶ。
ロビーのソファーの隣にはスターバックス。
これが、メディカルツーリズムというものなのか。
国内と遜色ない、いやひょっとすると日本以上の外来・入院の医療サービス
を、日本国内の保険医療機関での給付を「標準」として受けることができる。

ここで受診した患者さんは、いったん医療費全額を支払い、
「診療内容明細書」「領収明細書」などの証明書を受け取る。
帰国後、保険者に「療養費支給申請書」を提出。
日本の「標準」額と支払額のチェックが行われ、保険給付分が
払い戻される仕組みになっている。

日本に留学経験があり、流暢な日本語を喋れる医師もいる。
じつに至れりつくせりなのだ。

だが……外国人専用病院がタイ国内の貴重な医療資源を
吸い上げているのは間違いない。

この病院の日本語の説明書にはこう記されている。

「心臓や肺などの臓器移植、人工授精等の不妊治療、
性転換手術などは対象外ですので、注意してください。
あくまでも、その医療行為が日本国内で保険診療の対象になっているものに
限られており、世界でもまれな最先端医療、美容整形などの医療は対象外です。

また、自然分娩も保険医療対象外ですが、出産育児一時金が支払われます」

保険診療枠という歯止めをかけなければ、
「自由診療でもいい」とやってくる患者が続出するからだろう。
しかし、この歯止めがいつまできくか……。

経済成長著しい中国は、メコン川上流の雲南省で河川交通を確保するために川底を爆破
し、
本流に複数のダムを建設するなど強引な開発を進めているという。
通貨「元」の威力は益々強まる。
金にものを言わせるグローバリズムがアジアを席捲したとき、
外国人専用病院の日本人診療の保険枠は瞬く間に崩れることだろう。
それはさほど遠くないかもしれない。

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12 アグラサーラ孤児院  08年2月25日

先日、親友のスマナ・バルアWHO医務官の故郷、
バングラデシュを十数年ぶりに訪ねた。
バングラデシュの人口は1億4千万人。
イスラーム教徒が約9割、ヒンドゥー教徒が1割弱を占めている。

そのなかで、バルア医師の家系は25代にわたって兄弟に必ず一人は出家僧を出し、
少数派の仏教を継承してきた。
叔父のヴィシュッダナンダ・マハテロ大僧正(95年没)は、
マハートマ・ガンディーやマザー・テレサとも親交のあった
ベンガル仏教界の最高指導者。
世界宗教者平和会議の創設にも尽力している。

そのマハテロ師が1944年に創設した「アグラサーラ孤児院」に足を運んだ。
1943年のベンガル飢饉で約300万人が餓死したその直後、
困難な状況下での設立であったと伺う。
バングラデシュ東部チッタゴン近郊、見渡す限り水田地帯が続くなかに忽然と
孤児院とその付属施設の学校や寄宿舎が姿を現す。
敷地をひと回りするには十分以上かかる。
ここで数百人の子どもが暮らし、日々、成長している。
かなり大きな複合的教育施設だ。

と、いっても近代的な建造物を想像してはいけない。
鉄筋も入っているかどうかの低層建物が、高楼をもつ僧院を中心として、
あそこにひと塊、ここにひと塊といった按配で配置されている。

今回の訪問の目的は、この複合教育施設の支援基金を仲間たちと
立ち上げるに当たり、財務報告を確認することにあった。

もともとアグラサーラ孤児院は、マハテロ師がベンガル飢饉で親を失った
子どもたちと道端で寝起きをしたことに始まる。
当時インド亜大陸は、対日戦争をたたかう大英帝国の統治下にあった。
その後、ここベンガル州東半は対英独立運動、
インド・パキスタンの分離、パキスタンからの分離独立戦争を経て現在に至る。
この間一貫して、僧侶たちが孤児院の運営を仕切ってきた。

仏教の慈悲が、生活と密着しながら子どもを育ててきたといえようか。
超俗的な価値観に支えられた僧侶だけに金銭の出納は苦手ではないか、
と勝手に思い込んでいたのだが、杞憂に終わった。
堅実にお金を使い、きちんと財務諸表やレポートを整えていた。

むしろ、教えられたのはこちらだ。
人が人として人のお世話をするという「ケアの原点」を改めて思い知らされた。
イスラーム教徒が大多数の国で、極少数の仏教徒、なかでも女性たちは
二重、三重の危険と隣り合わせに生きてきた。
孤児院で暮らす子どもの過半数が女子だ。
彼女たちは、TV取材にこんなコメントを残している。

「家では学費も払えないし、村にいるといろいろと問題があるからです。
まず雨季には村が水浸しになるために学校に行けなくなります。
そして、この国はイスラーム教徒の国です。
どうやって安全に暮らせますか」
(「NHKスペシャル ブッダ大いなる旅路1」)

「母親は、私が生まれてすぐに死んでしまいました。
父親も、その一〇日後に死にました。
だから私は両親とも知りません。
家が貧しくて医者にも行けず、薬も買えず、死んでしまったのだそうです。
兄が二人いますが、兄も別の孤児院で暮らしていました」

バルア博士は、幼い頃から叔父さんのいる孤児院に通って、
孤児たちの身のまわりの世話をしたという。
そのケアの体験の積み重ねが、彼の今日のWHOでの感染症防圧活動を支えている。
最近、孤児院から巣立ち、社会の第一線で活躍する卒業生が増えてきた。
法律や金融、医療などの分野にも人材は広がっている。
そのなかから「ふるさと」の孤児院に医療機関を設立しようとする動きが、
いま始まろうとしている。

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13 協同組合と医療  08年3月10日

 私は農協職員である。

 十数年来、長野県厚生農業協同組合連合会(厚生連)傘下の
 佐久総合病院(長野県佐久市、夏川周介院長)に勤務している。

 わが厚生連病院の存在が、一般にあまり知られていない現状は残念なことである。
 冗談でなく、「厚生連」なんだから「厚生省の病院」なんでしょうね、
 との言葉が返ってきたことがあった。

 農村と医療の結び付きは、農協の前身「産業組合」の設立にまでさかのぼる。
 産業組合が法的に認められたのは明治33年(1900年)。
 信用事業、購買事業、販売事業など、互助つまり「おたがいさま」の精神で、
 生産支援と農村の生活向上をめざすべく設立された。

 産業組合は、当初、地主や官吏を中心に上から組織されていたが、
 いわゆる大正デモクラシーの下、農民自身が担い手となっていく。
 そして事業の中に、利用事業、つまり医療(後の厚生事業)をとりこむ。

 その草分けとなったのが大正8年(1919年)に
 島根県鹿足郡青原村で組織された組合だった。

「協同組合を中心とする 日本農民医療運動史」(全国厚生連刊)に
 設立動機が記されている。

「青原村は交通上の要駅なるも医師を欠くこと多年なり、
 元村内添谷部落に開業医ありしも十数年前に病没せり。
(略)村内有志のあっせんにより医師を招きて定住せしめしも経営意のごとくならず。
(略)医事事業を組合において経営するは本村の現状に鑑みて適切なるのみならず、
 組合精神を喚起する上にも効果あるべきを信じ…」
 
 無医村、医師不足への切々たる思いがつづられている。

 昭和に入り、大商社・鈴木商店の倒産に端を発した金融恐慌が農村を直撃する。
 娘の身売り、欠食児童、一家離散といった惨劇がくり広げられた。

 人々の暮らしが窮するほどに、互いに支え合う協同組合方式の医療は全国に広がる。
 そして単営の医療利用組合、いわゆる「組合病院」が都市部でも創設された。

 その一つがキリスト教社会運動家の賀川豊彦が主唱し、
 昭和6年(1931年)に設立された「東京医療利用組合」である。
 組合長には、農学者、教育学者で国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造博士が就任し
、
 感激的な挨拶を行っている。

 同組合の設立趣意書はいう。

「疾病に対する治療は、人間の最も尊貴なる生命の保護として、
 貧富、高下、都鄙の別なく享受されなければならぬことで
 あることは言うまでもありません。
 然るに今日の社会においてはあらゆるものが然るがごとく、
 医術もまた営利制度の下に運営されている結果、
 経済的に治療の負担に堪えない者は
 医療の保護を受けることの出来難い実情に置かれています。

(略)ここに計画せる協同組合病院は、かかる医療制度に代わるに、
 医は仁術なりの本来の精神に新しき経済組織を支え、
 もって組合員の協同の福祉のために運営せんとするものであります。
 すなわち組合員協同による医療並びに保健の設備をなし、
 信頼するに足る医師、看護婦、産婆等を置いて
 懇切なる治療、保健の指導援助をなさんとするものであります。
 ゆえにこの制度は多数の人々の協同の力によって、
 団体的に総合各科を備えた「抱え医」を設くるもの…」
 (前掲「医療運動史」より、現代カナに改め)。

 組合員の協同の力で、疾病予防活動にも積極的に
 乗り出す姿勢を鮮明にした組合病院。

 これに対して、日本醫師會や東京府醫師會は、
「…一般開業医は官公私立の大病院に上層階級の患者を吸収され、
 中産階級ともいうべき勤労大衆を組合病院に吸収さるるとせば、
 その存在を全く失う」(「日本醫事新聞」昭和6年5月1日)と
 猛烈な反対運動を巻き起こした。  

 八王子では組合勤務医を相手取り、
 医師会薬価規定違反を理由に訴訟を起こす(八王子事件)。
 秋田では県医師会が、胃潰瘍で組合病院に入院した患者が
 手術後死亡したことを「誤診」と決めつけ、
 地方紙上でキャンペーンを張った。

 秋田県衛生課は、組合病院の医師らを取り調べ、検事局に送検。
 帝大の鑑定医たちを巻き込む裁判が展開された。
 八王子では医師会が敗訴。
 秋田の組合病院医師は無罪となったが、
 医師会の反医療組合運動は猛烈かつ執拗だった。

 こうした歴史の上に公的健康保険制度が導入され、
 さらに戦後、国民皆保険が実現したのである。

 協同組合による医療機関設立運動から1世紀近くがたとうとしている今、
 はたして医療界をとりまく意識は、どれほど進んだのだろうか。

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14 「ヘルプマン!」   08年3月24日 

コミックの「ヘルプマン!」(くさか里樹著/講談社)が面白い。
とくに第8巻の「ケアギバー編」が出色だ。
都会で働く49歳の男性の家に、ある日、田舎の弟夫妻と暮らしいているはずの老母が
現れる。

老母は、脳梗塞がきっかけで認知症を発症。
ボヤを出したり、徘徊したりで、「もう面倒を見切れません」と弟は、
なかば捨てるようにして母を兄に押し付けていく。
会社人間だった男性は、母の介護で七転八倒。
キャリアウーマンの妻は義母の世話など見向きもせず、大学生の娘は我関せず。
困り果てた男性は、ヘルパーを頼む。

現れたのがフィリピーナのジェーン。
彼女は、日本人の家族が嫌がる老母のケアをもちまえのオープン・マインドでこなして
いく。
芯が強くて、楽天的な気質で認知症の老母を包み込む。
ただ、介護保険の対象にならない「散歩」や「お喋り」にも時間を費やしてしまう。
時間にもややルーズ。
そこで軋轢が生じる。
ジェーンを送り込んでいる事業者のセリフがずっしりと響く。

「ジェーンをお宅に派遣することはできません。
外国人ヘルパーは今とても微妙な立場にあって……
たったひとつの小さな失敗が彼女たちの未来を閉ざしてしまいかねないので……」

と、物語は展開されていく。

アジア諸国とのEPA(経済連携協定)の締結で、介護士や看護師が海を渡ってくると
予想される。
すでにフィリピン共和国との間では政府間協定への署名は終わっているが、
現時点ではフィリピン国会の「批准」がなされていない。
EPAが介護・医療分野に特化したものでなく、包括的な経済協定なので
批准にはさまざまな障害もあるようだ。
しかし経済のグローバル化のなか、国際的な介護士、看護師の流動に
門戸を閉ざすのは難しい状況になりつつある。

では、外国人介護士が増えて、日本人の高齢者たちがケアをしてもらうとなると、
どのような「場面」が立ち現れてくるのか。
ありありと想いうかべられる人は少ないだろう。

「ヘルプマン!」は、コミックという手法で近未来の「場面」を先取りしている。
そこが面白い。
文字だけのレポートでは人間の躍動感が伝わりにくい。
映像では、たとえば「弄便」のシーンを表現できない。
コミックという手法が、そこを乗り越えている。

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15 爺、婆の「足」  08年4月7日

私も含め多くの医師には、高齢者にとって最も切実な問題が見えていないようだ。
例えば、病院にやってくる彼らがどんな「足」を使っているか、である。

歳をとったら運転は危険だといって免許証を取り上げられる。
おまけに公共交通機関は地方財政悪化の影響をもろに受けて便数が減る。
自分の意思で移動することがままならない状況に陥っている。

NPO法人や訪問介護事業者がセダン型の一般車両で要介護者や身体障害者等を
「有償」で送り迎えするSTS(スペシャル・トランスポート・サービス)の制度もあるが
、 現状は地域によってバラバラ。
かなり混乱しているようだ。

介護保険で認められた「介護タクシー」との違いもわかりにくい。
免許を取り上げられて「足」をなくした爺さんと、しっかりものの婆さんの、
佐久弁での寸劇をご紹介しよう。


爺 (老人車を押し、腰曲げて、よぼよぼ歩いてくる)

婆 おやー、ジイさんじゃーないかい。
えらい、ぼつらぼつら歩いてるけんど、どうしただい。

爺 おらあ、車の運転やめただよ。
子どもにかくれて、乗らっと思ったら、正月に来たとき、鍵隠されちまっただよ。

婆 よく、あきらめただにー。

爺 しょうがねー、この車(老人車)買ってもらって、うちのばあさんと一緒に歩いて
 いるだに。

婆 じゃあ、買い物はどうしてるだい。

爺 おらちのおばやん、買い物が大好きだったども、どこも出かけられなくなってなあ
ー。 

しょうがねーから、生協頼んだだが、注文書の棒が引けねーだよ。
だいいち、量が多くてだめだ。
次になあ、農協の食材にしただけど、農協が決めたものがくるだよ。
おれが、肉が食いたくても、魚が届くだ。

婆 まあ、そうかい。
女衆は、品物見て買いてーしなあー。
ストレス解消にもなるらぁ。
むずかしいところだいねー。

爺 だけど、これは、きっと、おらっちだけの問題じゃあねーよ。
佐久病院に診察に行くのだって、困るいなあ。
葬式だって、人に頼まなきゃ行かれねーわ。
義理を欠くようになりゃ、つれーなあー。
福祉バスは日に1本きりだし、朝でかけりゃ、夕方までけーってこれねーや。
新幹線で東京まで行くに、1時間半だなんて言ってるけんど、バスで買い物に行くのも
 一日がかりだ。

婆 あー、だから、あそこんちは、東京の娘が、

ちくわだ魚だミカンだって、宅急便で送ってくるだわ。
便利なようで、なんかー、変だいなあー。
子どもがいる衆はいいけんど、おらっちみたいにいなきゃ、どうするずら。
いまちっと、世の中、何とかならねえずらか。

爺 いまちっと何とか、っちゃー、佐久病院の診察だわ。
まーで、この間なんか、2時間も待って、やっと先生の顔見たと思ったら、
「いいですね」で終わりだったわー。
おらー、いっぺー、言いてーことがあっただども、そう言われりゃあー、
何も言えねえで、けーってきちまっただよ。
情けねーなあ。
先生とうも忙しくてかわいそうだども、おらも、ちっとは聞いてもらいたかっただよ。
 
婆 ほーっ、そーかい。
どんな話がしたかっただい?

爺 天気の話とかさー、今年は寒いとかさー。
おらちの東京の孫のこととかさー。

婆 そりゃー、だめだわ。
先生だって、ふんふん聞いてりゃー、日が暮れちまうわ……。


こんなお年よりの切実な会話が、今日も、病院の待合室で交わされている。

実習に来村する医学生看護学生には、爺、婆に扮し、上演いただくことにしている。 

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16 出張当直と「医療崩壊」 08年4月21日 色平哲郎

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/200804/506206.html

4月からJA長野厚生連・新町病院へ、月2回「出張当直」に伺うことになった。
新町病院のベッド数は140床。
わが長野県厚生連10病院のうち小さい方から二番目である。

病院のある上水内(かみみのち)郡・信州新町は、安曇野から長野の善光寺平に流れる
犀川、
その街道沿いと段丘上に集落を形成している。
江戸期には松本と結ぶ犀川通船の起点であり、物資の集散地として賑わった。
舟運の時代が終わりつつあった明治中期、中央線と信越線をつなぐ鉄道が通ること
になっていたが、反対者があって、麻績(おみ)、姨捨(おばすて)
を経由する現在の篠ノ井線のルートとなったと伺う。

信州新町の人口は、昭和22年に1万4千人を超えていたが、60年を経た現在は
5400人ほど。
高齢化率は42.6%。
これといった産業がなく、若者は都会に流出し、空き家とお墓ばかり増えていくなか、
のどかな春の光を浴びて桜の花が満開である。

佐久病院から新町病院までは直線距離でも60キロ。
かなりの距離感だ。
それだけの時間と労力をかけても信州新町に通うのは、
佐久病院がカバーせざるを得ない「医療崩壊」が進んでいるからだ。

手前味噌のそしりを受けるかもしれないが、「朝日新聞」長野県版08年4月9日付は
、
長野厚生連における佐久病院のポジションを次のように伝えている。

「同厚生連は県内で10の病院を経営し、病床数は県内の20%強を占める。
しかし5病院が赤字で、全収益の7割を挙げる佐久総合病院の存在があって
連結決算で黒字を維持できているという」

新町病院で当直をしながら、責務の重さを痛感する。

ところが、佐久病院自身が、いま「再構築問題」で行政、地域との合意形成の壁に
突き当たって抜き差しならない状態に追い込まれている。
かねてより佐久病院本院は、築後40年という病院施設の老朽化、狭い敷地、
舗装が許されない河川敷駐車場など「ハード」の難題を抱え、新病院建設が急務になっ
ていた。
若い活力ある人材を確保する意味でも、再構築は必須。

佐久市臼田にある本院は、一般・慢性期医療と高齢者福祉・医療などに対応する
「地域医療センター」として現状地に再構築。
別途、上田、軽井沢を含む東信地方の多くの患者さんが利用しやすい場所に、
救急医療、災害医療、専門医療、地域がん診療拠点病院などの各種指定を受ける
「基幹医療センター」を再構築する構想を発表。
後者についてすでに佐久市中込(なかごみ)に約4万坪の土地を確保している。

問題は、取得した土地が「工業専用地域」内にあるため、
すぐには病院建設にとりかかれない点にある。
用途地域は、市長による決定、公益に貢献する事業、地域住民の同意などがそろえば変
更可能だ。
これまでにも夏川周介院長を先頭に佐久病院は地元や佐久市関係者らに理解を求めてき
たが、
時間ばかりが経過した。

ここへきて、もはや再構築は佐久病院単体の問題ではなく、県厚生連10病院、
さらには県全体の医療の防波堤を決壊させかねないところにまで行き着いた。
そこで、今月下旬にも、JA長野中央会やJA全農長野などのJA5連と各単位農協の
組合長が「JA高度医療体制再編促進会議(仮称)」を発足する。
信州のJAグループ全体で再構築の後押しをする体制が作られることとなった。
再び前出の新聞記事を引用する。

「JA厚生連の若林甫汎(としひろ)理事長は8日、佐久総合病院看護専門学校の
入学式のあいさつの中で、
「(病院建設用地をめぐって)自治体などの理解が得られず足踏みしている」
「厚生連の存在を左右する問題」と危機感をあらわにし、来賓らに異例の理解を求めた
」

「昨年8月に理事長に就任した若林氏は、再構築問題がさらに長引くと、
医療環境の悪化などから医師離れを招き、地域医療への深刻な影響や、
厚生連自体の屋台骨を損ないかねないと危惧(きぐ)している」

より多くの方々に、佐久病院が直面する「再構築問題」を知っていただきたい。

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