日経メディカル ブログ 色平哲郎の「医のふるさと」 1〜8

ブログの紹介  今の医療はどこかおかしい。
制度と慣行に振り回され、大事な何かがなおざりにされている。
そもそも医療とは何か? 医者とはなんなのか? 
世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、
10年以上にわたって地域医療を実践する異色の医者が、
信州の奥山から「医の原点」を問いかける。

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1 人を「知る」こと 07年11月19日

 うちの村に合宿でおいでになったことのある女子医学生のIさんから
 久しぶりにメールで「レポート」が届いた。
 地域医療に関心を持つIさんは、何度かフィリピン共和国のクリオン島に足を運んで
いる。
 この島には、1906年、ハンセン病患者の隔離施設が設けられた。
 隔離政策が終わった後も、大多数の元患者さんが島に住み着き、
 島はハンセン病のコロニーから「地方自治体」に変わっている。
 レポートにはこう書かれている。
「…1985年まで、ハンセン病の効果的な薬はこの島には存在しなかった。
 それにもかかわらず、ハンセン病患者の子どもは(生まれてすぐ親と引き離された後
)
 6歳になると親元に戻された。
 私の知り合いの人によれば、ハンセン病を患った兄弟6人中、
 検査をしたところ3人が保菌者だったとのこと。
 感染力は弱いとはいえ、(正しい治療が行われなければ)意外にも多くの人が感染し
ていた…」
 そしてIさんは隔離政策とは? 偏見や差別を生み出す社会的要因は何か?と自問自答
する。
 現代ではハンセン病は治癒する病気になった。
 初期症状が表れた時点で薬を服用すれば完治する。
 にもかかわらず、未だに無知による偏見や差別は後を絶たない。
 異質なもの、自分とは違うものを排除しようとする心理作用が強く働いているからだ
ろう。
 この「違い」を拒絶する社会的傾向は、最近、ますます顕著になっているような気が
する。
「違い」を認めるには相手を客観的にとらえる必要がある。
 そのためには知識や情報が不可欠なのだが、
 それ以前に他人を理解しようとする内的な情動が働かない人が増えているようだ。
 人が人を「知りたい」と思わなくなったら、医療のみならず、
 あらゆる社会的活動は判断停止状態に陥るだろう。
 人を「知りたい」というのは、答えの出ない問いを発し続けること。
 感染症の治療法が見付かっていない段階では、その患者さんを隔離せざるを得ない。
 しかし、患者さんはわが子と暮らしたいと切に願う。
 生木を裂くように別れさせるわけにはいかない。
 物心つく6歳になったら親元に子を帰す。
 すると新たな感染者が出る…。
 何が「幸せ」なのか簡単に答えは出ない。
 医療者はただ、患者さんに寄り添い、その人を知り、
 何とか状況を好転させようと努めることしかできない。
 Iさん届いたレポートは次のように締めくくられている。
「『どうせこの世から偏見なんてなくならないから』すべての人が諦めたとき、
 感染病患者は社会から追放されてしまうだろう。
 途方もないようなことでも、終わりのないことでも
 偏見を取り除くアプローチは続けていかなければならないのだ」

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2 赤ひげ幻想 07年11月26日

 メディア・リテラシーという言葉がある。
 情報メディアを批判的に読み解き、必要な情報をうまく活用する能力、といえるだろ
うか。
 一般にマスメディアが虚偽や偏った報道をしたら社会に大きな影響を与える。
 マスメディアは「第四の権力」といわれる。
 だから「公正、中立」を求められる。
 理屈はそうなるのだが、メディアも所詮人の集まり。
 価値観や主義、思想、利害が一致する勢力の影響は受けやすい。
 官僚から降ってくる情報に慣らされたメディアは、草の根の情報を軽視しがちになる
。
 そこからさまざまな「特色」が出てくる。
 事実関係の誤りは論外にしても、メディアの特色をあらかじめつかんでおくことは、
 同じ事実でも角度を変えて眺められることになり、それなりの役にも立つのではない
か。
 問題は、固定観念としかいいようのない感傷的決め付けだ。
 例えば「現代の赤ひげ」の類である。
 小説家の山本周五郎は「赤ひげ診療譚」で、江戸の小石川養生所の赤ひげを、
 権力者、富者からは多額の薬代を取り立て、貧者からはお金をとらない名医に仕立て
た。
 この小説を原作に黒澤明が映画化した「赤ひげ」は、1965年に封切られ、
 たちまち名画の仲間入り。
 その芸術性の高さは、いまさら言うまでもない。
 ただし「赤ひげ」も「ブラック・ジャック」もフィクションである。
 現実に不眠不休で、献身的に働いている医師は多数おいでになるのだが、
 患者に「ある時払いの催促なし」で対応したら、その医療機関は瞬く間に潰れる。
「現代の赤ひげ」とか「神の手」といった決まり文句は、
 どこかにこんな医者がいてほしい、いやいるに違いない、という幻想が生んだものだ
ろう。
 百発百中でいつも完璧な治療ができ、お金もとらず、昼夜関係なく働きつづける。
 そんな怪物じみた医師がいるはずもなかろう。
「ひとりの赤ひげより百人の凡医」「神の手よりも目の前の医者」が大切だということ
を、
 われわれはもっとメディアにアピールしなければならないだろう。
 メディアの名医志向は、とどまるところを知らない。
 しかし特定の名医でなければ病気は治らない、というような報道姿勢は、
 ただでさえ崩壊現象が始まっているこの国の医療を追い込むばかりだ。
「名医にかかるには相応のカネも必要」となり、
 またぞろ混合診療の全面解禁などが叫ばれかねない。
 医療の基本は患者と医師の信頼関係。
 そこを再構築するために、メディアにこそ幻想を捨てていただこう。

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3 すきな人とすきなところでくらしつづけたい 07年12月3日

 信州北端の柏原村(長野県上水内郡信濃町)に生まれた俳人、小林一茶は、
 こんな句を残している。
「これがまあ 終の棲家か 雪五尺」
 父の死後、継母との十数年に及ぶ遺産係争を経て手に入れた
 家への複雑な思いが凝縮された句だ。
 しかし一茶は、柏原宿を襲った大火で「終の棲家」のはずだった母屋を焼失。
 土蔵で暮らすようになり、そのなかで1827年、65年の生涯を閉じた。
「終の棲家」とは、辞書を引くと
「終生住んでいるべきところ。また、最後に住む所」とある。
 われわれ日本人は、終の棲家というと一方で死を思い浮かべがちだが、
 この「最後に住む」場所が一筋縄にはいかない。
 2015年、団塊の世代がすべて65歳以上の前期高齢者に達すると、
 認知症の高齢者は06年の150万人から250万人に増える、と予測されている。
 高齢者世帯は約1700万世帯に増え、その3割強の570万世帯が「独り暮らし」となる。
 現在約110万人の年間死亡者数が2040年前後には170万人にも達するという。
「多死の時代」が、すぐそこに来ている。
 死を迎える場の国際比較では、日本は病院が81%と断然多く、
 高齢者施設等が3%、自宅等は16%。
 米国は病院41%、高齢者施設等22%、自宅31%。オランダは三者それぞれ30%余り。
 欧米に較べて日本では高齢者施設等での看取りが極端に少ない。
 現実に死が社会的に増えるにつれて
 高齢者専用賃貸住宅などの需要も確実に高まってくるだろう。
 しかし、従来の画一的なスペースを羅列した高齢者住宅が、
 はたして現代の終の棲家といえるだろうか。
 バリアフリーの建物で、医療や介護のサービスが外から提供されるとしても、
 どうも温もりに欠ける気がしてならない。
 高齢者を社会から排除する器にされてしまうのではないか、との懸念がぬぐえないの
だ。
 日々、村のお年寄りと接していて、つくづくこの人たちは
「すきな人とすきなところでくらしつづけたい」のだな、と感じる。
 生活の便が悪く、自然環境も厳しい。街に出た子どもたちは一緒に暮らそうと誘って
くる。
 にもかかわらず、彼らは生まれ育った村を離れようとはしない。
 村人にとって、「終の棲家」としてのわが家は、
 死が迫るぎりぎりまでその人らしく「生きる」場所なのだ。
 おそらく、「すきな人とすきなところでくらしつづけたい」との思いは
 都会で老いてゆく人たちにも共通しているだろう。
 山村の木造住宅も大都会のマンションも、ぎりぎりまで自分らしく
 生きる場所としての「終の棲家」であってほしい、と高齢者たちは願っている。
 多死の時代、新しいタイプの終の棲家は、この切実なニーズにどう応えるのか。
「姥捨て」の高齢者住宅ではなく、入居者が最後まで自分らしく生きられる場とは…。
 少なくとも、あらゆる人を社会的に包含する
「ソーシャル・インクルージョン」の福祉理念に外れたものであってはならないだろう
。
 欧州諸国では、この理念に基づき、社会から排除されてきた
 貧困者、失業者、ホームレスたちの市民権を回復する
 公的扶助や就労機会の提供が行われている。
 根底にはキリスト教の「愛」の実践もあるのだろう。
 駄句をひとつ。
「これがまあ 終の棲家か ケアハウス」

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4 戦争と医師 07年12月10日

 戦争体験を語る医師が、少なくなった。
 長野県厚生連労組の中央執行委員長を長く務めた故・舩崎善三郎医師は、
 軍医として小さな輸送船に乗り込んでいる。
 船は1944年3月29日、バリ島北方海上で潜水艦に撃沈された。
 ぎっしり2000人の兵士が詰め込まれていた。
 そのうち、生き残ったのは約250人。
 海に投げ出された舩崎医師は、大きな板につかまって救助を待った。
 その体験を「火の海を泳いで」と題して、こう書き残している。
「やけどした顔、手は皮がむけて海中に入ればしみるし、
 外に出せば熱い太陽に照りつけられて痛い。
 ふと気がつくと隣の兵隊は板につかまっているが、顔は水につけたままだ。
 『どうした』と声をかけたとき、波でひとゆれして板が回転し、離れて沈んでしまっ
た。(中略)
 脳症を起こしたり、肺炎を起こしたりして死んでゆく兵隊もあった。
 その間、闇のなかにいたので不安は一層強かった。3日目の31日夜、
 やっとスラバヤ陸軍病院に収容され、その後6ヵ月入院生活を送り、まさに九死に一
生を得た。
 私が助かったのは、この船に軍旗をのせていたからだろう。
 天皇からいただいた軍旗は、放っておくわけにはいかない。
 沈められればすぐ浮かび上がるようになっているのだ。
 それを探しに来たついでに助けられたのである。(中略)
 戦争とはこんなものである。軍隊とは何と馬鹿げたところか。
 人権無視はもとより、人の生命は全く虫けら同様だ。
 もう絶対に戦争はごめんだ」
 戦後、舩崎医師は、労働組合運動の中心メンバーとして活躍した。
 通常、労組といえば「従業員の生活の安定」を第一義に掲げるが、
 長野県厚生連労組は「地域の医療を守っていく」、
 加えて「地域文化の向上」をもう一方の柱とした。
 そしていわゆる労使協調ではなく、「労使共闘」で経営側と肩を組んで、
 農民の健康を守り、農村を発展させる運動に取り組んだのだった。
 佐久総合病院の医療が故・若月俊一名誉総長の強いリーダーシップのもとに築かれた
ことは、
 一般にもよく知られている。
 が、じつは、その陰で舩崎医師らが「労使共闘」で支えていたのである。
 農村医学、地域医療のシンボルである若月総長と、彼を支えた舩崎医師。
 二人の付き合いは大戦中からだった。
 舩崎軍医の出征壮行会は、当時東京都保谷市(現・西東京市)にあった若月宅で行わ
れている。
 それから半世紀以上、彼らは地域医療を守り育てる闘いを展開したことになる。
 反戦の絆で強く結ばれていたことはいうまでもない。

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5 野生の老人たちが逝く 07年12月17日

 今朝、診療所の看護師が「週末にまたお二人亡くなった。天中殺だわ」とこぼした。
 わが南相木村では、今年の夏から晩秋にかけて、ご高齢のお年寄りたちが、
 次々と黄泉へと旅立っていった。
 寂しさがこみ上げてくる。
 11年前、家族とともにこの村に赴任した当時、彼らから多くのことを教えられた。
 厳しい自然環境のなかで、彼らが「お互いさま」の精神で
 いかに家族と共同体を守ってきたか……。
 育て上げた子ども、孫の世代は便利な都会へと流れた。
 独りで暮らしていた爺やは、息子家族に引き取られて首都圏で暮らしていたが、
 しばらくして舞い戻った。
 なぜ、帰ってきたの、と尋ねると応えた。
「街では焚き火ができねぇだ。
 せがれのマンションの中庭で焚き火をしていたら、誰かが言いつけて、オマワリが3
人
 やってきてバカ野郎と怒鳴られた。
 焚き火なんぞ、ガキのころからやってる。
 火の扱いは警察や消防の人間よりよっぼと巧い。
 火事を出すわけがねぇ。
 キノコ採りに行く山もねぇし、川も汚くて入る気がしない。
 このまま毎日、狭苦しい部屋にいたらボケでしまうと思って逃げてきただよ」
 消防団長として鳴らした古老の語りも印象深い。
「朝鮮は、日本と合意して国を併せたとずっと思ってきた。
 俺の習った歴史では、そう教えられたからな。
 ところが、最近の新聞は、従軍慰安婦問題など、
 朝鮮が日本の植民地だったと、詳しく書きだした。
 おかしいなぁ。
 よくよく考えてみたよ。20歳の俺が、初めて、中朝国境の豆満江で兵役に就いたとき
、
 なぜ、国境には日本兵ばかりいたのか? 
 国を守るのは、まず、その国の人間の役目だろう。
 なのに同国人のはずの朝鮮の青年は守備隊にいなかった。
 もしも朝鮮が外国だったら、外国人の俺がわざわざ行くことはない。
 なんで、20歳の俺はあそこにいたのか…。
 外国でも自国でもないところに俺は行っていたのか。
 だまされていた。
 朝鮮は日本の植民地だった。
 だから俺があそこにいたんだな。
 ところで、今の日本は何だ。
 米国の保護国だな。
 首相も軍人も日本人だが、要の政策はぜんぶ米国が握っている。
 日本は独立国じゃねぇ。
 保護国だ」
 古老は、農耕はもとより、牛馬の世話から手づくり工芸、家屋の普請など、
 自然と向き合って「自立」の技を数多く備えていた。
 まさに百の生業を持つ「百姓」だった。
 診療所に合宿研修に来た医学生たちの多くが、彼の家を訪ねて「ワラジ作り」を教わ
った。
 そんな「野生の老人」たちが亡くなっていく。
 森林の大木が倒れるように…。
 小手先の制度では補えない、ふるさとの大事な「資産」が消えていくようだ。

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6 研修医からの手紙 07年12月24日

 医師数200人を超える佐久総合病院(長野県佐久市、夏川周介院長)で、
 救急部門を支えているのは80人ほどの研修医たちだ。
 
 若い彼らがクタクタになるまで踏ん張って、何とか、救急医療が維持されている。
 佐久総合病院でも、特に後期研修医たちの役割がいよいよ重要になっているのだが、
 病院と研修医間の意識のズレがあるのも事実だ。
 先日、佐久総合病院の元研修医から手紙が届いた。
「研修医たちは、市場で『セリ』にかけられる心情です。
 まず卒業時に『初期研修医市場』にのせられセリに出されます。
 在学中にまじめであったか、希望する研修病院の見学をつつがなく終えているか、
 国家試験プラスアルファの医学的知識を獲得しているか、
 などでマッチングの結果が出ます。
 そして2年後には『後期研修医市場』でのセリが始まります。
 この時点で、ある程度の『レベル』に達していないと『市場』には出られません。
 現在の研修医には短期的な結果(市場で評価される知識と技能の習得)
 が求められている、と感じられます。
 佐久の棚田で田植えを手伝っても市場で評価される可能性は低く、
 IVH(中心静脈栄養)を1回でも多く刺入した方が評価は高い、
 との意識が植えつけられています。
 佐久病院での研修を希望した者は、少なくとも希望時点では、
 そのような市場の短期的な評価にはとらわれていませんでした。
 しかし、この病院で市場競争に勝ち残る短期目標をクリアできるのだろうか
 という懸念が生じたのも事実です。
 それが杞憂であったことは後に分かり、私自身も、同期の友人たちも
 短期目標を十分に達することができ、一般的な市場でも通用しました。
 長期的視野で、一見無駄にも見える村人たちと「心の交流」をすることと
 短期目標をクリアすることは十分両立し得るのです。
 ところが、現在、この実感をフィードバックできる相手がいません。 
 研修義務化以降、大多数の研修医は短期目標を達成することに追いまくられていて、
 とても長期的視野には立てないからです」
 そして、この元研修医は「地域医療」を守るために、こう提案する。
「病院側は、長期的に面倒をみる研修医の群と、
 短期目標を達成して市場に出ていく群と、別々に募集し、
 育成するようにしてはどうでしょうか」
 なるほど、これも一つの考え方ではあろう。
 病院側は、常に研修医たちに長く残ってもらいたいと願っている。
 しかしシステムが人材の流動化をさらに加速させる。
 根底には「職業選択の自由」の問題も横たわっている。

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7 限界集落? 08年1月7日

  最近、あちこちで「限界集落」という言葉を耳にする。
 65歳以上の高齢者の割合が5割を超え、共同体の運営が困難になった集落を指す。
 子どもの声は聞こえず、独居の高齢者が集まった村といったイメージだ。

 わが南相木村も、その予備軍である。

 確かに村人はぎりぎりの状態で生活を維持しているといえなくもない。
 しかし、限界集落と呼ばれることには、皆、一様に反発がある。
 そんな「声なき声」がもれ聞こえてくる。

 もうおまえたちは限界だ、おまえたちに明日はない、終末期に入っている、
 と宣告されている気分になるのだろうか。
「限界集落だからガンバロー」とはなかなか思えないらしい。

 ちなみに昨今、JR駅などの「ターミナル・ホテル」という名のホテルも
 同じ理由で忌避され改名しつつあると聞く。

 もちろん、限界集落の概念を提唱されている方々は、
 単なる「過疎」ではくくれない、
 深刻な状況を表現するためにこの言葉を使われたのだろう。
 現実を直視せよ、との思いも伝わってくる。

 ただ言葉が独り歩きし始めると、それがレッテルに使われるケースも増える。
 限界集落というレッテルを貼られた側の寂しさもご理解いただきたい。

 医師と患者の間でも言葉は重大な役割を担っている。

 その男性はすい臓癌の末期で入院先の病院から村の自宅に戻ってきた。
 子や孫、親戚縁者も近所に住んでいて、看取りの態勢は整っていた。
 最期は家族に囲まれて、人生をまっとうしてほしい、という暗黙の了解があった。

 ただ病棟では結局、病名を知らされることなく、帰宅していたのだった。

 往診に行くと、男性が切々と訴えてきた。

「先生、おれは死ぬのかね、死なないのかね。
 このまま家にいたいんだ。どうすりゃいい。
 あとどのくらい生きられるのか、教えてほしい。
 やっとかなきゃならないことがあるんだ」

 心残りがあるという…いかに告知すべきか…。
 彼の心の中の受け皿を探した。
 太平洋戦争に従軍し、武勲を立てて勲章をもらったことをずっと誇りにしていた。
 保守的な愛国の思いは、終生変わらないようだった。

「おじさんの病気はね、昭和天皇、天皇陛下と同じなんだよ。
 すい臓に癌ができている」

「……そうか、天皇陛下と一緒か……」

「安静にしていような。
 やってほしいこと、言いたいことがあったら、なんでも言いなよ」と声をかけた。

 男性は、その後、特に取り乱すこともなく、2ヵ月余りで息を引き取った。

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8 医療の中心 08年1月14日

過日、世界保健機関(WHO)のディーン・シュエイ博士が、わが村へ視察に来た。
シュエイ博士は、発展途上国の保健システム構築のアドバイスをしている。
長野県佐久地方では昔から医師や看護師、保健師が村に出向くのは当り前。
全国初の集団検診やさまざまな予防活動に取り組んできた。
その実践活動を参考にしたい、とのことだった。

まず地元の保健師・菊池智子さん(63)を博士にご紹介し、体験談を聞いてもらった
。菊池さんは昭和40年代に看護学校に入学。
「医師が貧しい患者と裕福な患者で治療に差をつけているのを見て、
病院での仕事には限界がある」と感じ、地域で働く保健師の道を選んだ女性だ。

菊池さんが着任した南牧村は、当時、無医村だった。
姑に気兼ねをする若妻たちは、共通の悩みを抱えながら誰にも相談できず、
孤立していた。
調べてみると、人工中絶があまりに多いのだ。
2〜3回の中絶はザラ。
40代半ばの女性で7〜8回中絶している例もあった。
とんでもないことになる、と菊池さんは若妻会を組織し、
受胎調節や避妊の知識を広めた。
まさに女性を「産む機械」とみる偏見が、ほんの三十数年前の農村
にははびこっていたのだ。
若妻会の活動が軌道にのると、姑世代の婦人会から
「避妊の勉強ばかりすると子どもが減る」などの不満がもちあがった。

菊池さんは婦人会のなかに若妻会を位置づけて危機を乗り切る。
さらに障害者の会も組織した。
日々の地道な活動を高め、行政を動かして保健、医療、福祉を
次のステージにもっていく力は驚嘆に値する。
その方法論をどこで学んだのかと聞くと、彼女は答える。

「村人のなかに入り、村人から教わった。野の先達から学んだのです」

次に博士を、87歳で病気ひとつせず、独りで暮らしている
倉根ちづさんのお宅に案内した。
ちづさんは村の生き字引の一人。
村を訪ねてくる医学生たちにもよく紹介する。
彼女の体験談、一つ一つが日本の現代史と連なっている。
その「機織」の技は、村の宝でもある。

シュエイ博士は、視察中、「途上国でも啓発活動は重要なのだが、
その人たちへの給料が払えない」と嘆いていたが、最後にこう締めくくった。

「どこに行っても懸命な人に出会った。
その人たちは夢を持って、夢を実現した。
夢を持つ人を育てることの大切さに気づいた」
(朝日新聞長野県版07年12月20日付)。 

07年11月、WHOなどが主催する国際医療シンポジウムが東京で開かれ、
「゛人゛中心の医療」を提唱する「東京宣言」が採択された。
経済成長を続けるアジアでは、患者の人格に配慮した医療が提供されず、
病気だけを診て人間的要素が配慮されない、科学技術のみに頼る
偏った医療が行われており、「大幅な改革が必要」と宣言は指摘している。

医師や看護師ら医療従事者も含めて、医療の中心に「人」を取戻せ、
との主張を聞き、改めて村の医療の来し方を思った。
高邁な理由づけをせずとも、村の医療の中心は、いつも人だったのではないか、と。

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